総座長というポジションになったいまに始まったことではなく、里見要次郎は昔から自分の劇団の舞台に毎月、毎日出ているわけではなかった。ラジオやテレビ、他の商業演劇の舞台にも、声がかかれば積極的に参加してきた。演歌歌手の中村美律子、神田正輝といった芸能人からの信頼も厚く、明治座、新橋演舞場、御園座、中日劇場など、ホールや大劇場の舞台も踏んできた。そうやって大衆演劇以外の活動ができる環境をつくってきたという。
「劇団は座員だけでやらせて、僕だけ外の仕事に行くんです。昔から。特にこの16、7年、病気してからは、自分の劇団では年間3カ月しか仕事しないです。いまは、それ以外は組合(会長をつとめる関西大衆演劇親交会)の劇団にゲストに出ていって、芝居を教えたりしてますね」

念公演終演後、インタビューをお願いした。
子役時代を最後にしばらく離れていた家業の劇団に、役者として戻ることになったときから、里見要次郎は両親に宣言した。「僕、好きなことするよって親父と母親に言いました。劇場だけは何カ月間か頑張るけど、あとは好きなことするからって」
そういうふうにやって行きたいと思ったのはどうしてなのかと問うと、「好きじゃなかったから。大衆演劇の舞台が」という答えが返ってきた。


そこには、「当時の」という但し書きがつくのではないだろうか。楽屋内より先に世間を知ってしまった(第1回参照)10代の少年にとって、もはや家業だからという理由だけで、何も考えずに慣習に身を任せることはできなかったに違いない。週刊誌に「元暴走族役者」とキャッチコピーをつけられるくらい、ふるさと広島ではやんちゃな暮らしをしていた。いわく「くそ悪ガキ」だったという。
「本当に暴走族やってました。親は巡業に行ってていないし、姉が結婚して家を出て、僕、子どものころ、一人暮らしだったんで、好きなことやってました。朝から新聞配達に行って、学校はそこそこ行って、帰ってきたら違うバイトして。父親は欲しいものは自分で買えと。金くれませんから。学級費も給食費も自分で払って(笑)。だから修学旅行は、小学校は積み立てで行きましたけど、中学、高校はお金がないんで行かなかったです。本名、江崎と言うんですけど、小学校のときに名札の色が僕だけエンジ色でしたから。黒とか紺じゃないんです。姉のお下がりだから女の子用(笑)。そんなサビシイ貧乏時代を過ごしてました。自分でズボンも縫ったりして。板前やりながら暴走族やって、みたいな」
見方によってはたいした苦労話である昔話も、里見要次郎が語るともはや武勇伝である。同時に自由な暮らしの楽しさも満喫していただろう当時、両親に言われたからといって、好きではなかった家業の世界に戻らない選択をしなかったのはなぜなのか。
「僕がやらないと劇団を潰してしまいます。僕、男1人しかいませんし、上2人は姉ですしね。姉は嫁いでもう役者やってましたから。劇団黒潮の現総座長黒潮次朗の嫁が、僕の一番上の姉です」
働き者の暴走族は、ただの「くそ悪ガキ」ではなく、そこは老舗劇団の長男としての帝王学を授けられていたということだろうか。
「僕しか継ぐものはいませんから、やらなきゃいけない。座員を食べさせてあげなきゃいけないっていうので、僕は違う仕事をして、そこで儲けて座員を養おうと。役者の儲けって知れてますから、自分1人だけならなんとかできますけど。うちは座員に衣装、カツラ全部、最初のうちは僕が買ってあげてます。揃いの衣装も。だからみんな綺麗です。車も全員一台ずつ。車屋もやってたんで」
え? 車屋?
「卸の会社をやってたんです。『ピアスから船まで』っていうのが売り文句で」

は友人でもある武蔵丸関。なぜ角界とご縁があるのかについて
は、連載第2回を参照。
役者をやりながら、ほかの事業もやっていたということですか?
「いまでもやってます。逆にそっちをやりながら、役者をやってきた感じです。役者に戻ってくる頃から、そういうことをコツコツやってました」
またもや状況がうまく飲み込めないが、起業したことも役者であることも、里見要次郎のなかでは自分の人生という点では同列、ひとつのことであるらしい。
「たまたまね、運が良かったんですよね。1980年代に、竹の子族というのがありましたね。原宿ってそういう若い子文化のメッカみたいなとこだったじゃないですか。竹下通りには、ちょっとした店が雑貨とか売ってて。ああいう雑貨を海外から仕入れる会社、やってたんですよ。その当時はインドネシア、中国。中国はあんまりものが良くなかったですけど。向こうに行って買い付けして、仕入れて卸して」


そういうビジネスセンスはどこで身につけたのでしょうか?
「それはね、アルバイト。小学生、中学生のころにアルバイトしてた祭りのテキ屋。ああいうことから学びましたね。色々やったらお金になるんだって。車も扱うんで、整備士になりたいと思って工業高校行って。機械科に入ると、2年生で整備士3級まで取れるんですよ。機械計算もしないといけないから、まだパソコンが流通する以前の時代で、うわ、なにこれ、この字入れなあかんのって、何百個も文字入力して、ピッてエンター押してようやくウィーンってまともな画面が出る。だからウィンドウズが出たときに、いままでの勉強はなんだったんだろうと思いました」
T定規で図面もひいた。濃すぎるひとつひとつの人生経験は、なにひとつ無駄になることなくいまに生かされている。おもしろそうなことの方に向かって突っ走る、カンのよさとズバ抜けた行動力が、里見要次郎の人生を形づくってきた。



もしかしたら、放任されていたように見える子ども時代から、心のどこかでずっと、いずれ役者に戻って舞台に立つことも決めていたのではないだろうか。そしてそれもまた自分のやりたいことのひとつだったから、ほかの好きなことと同様に、簡単に手放したりはしなかったのではないか。
「大阪の鈴成り座という劇場は、もとは鶴見グランドと言いまして、親父がつくった劇場なんですね。小学生から中学生のころにかけて、当時、出ていた劇団の芝居、全部見ました。役者、全員見ました。見てない役者はいないです」

路地にある。かつて大映の映画館だったところを、大衆演劇の
劇場「鶴見グランド」としてオープン。のちに改修した際に鈴
成り座となった。
そのなかでいいなと思った役者は? と聞くと、間髪を入れず、
「それはもう、小泉のぼる兄やん! 兄やんの舞台を見て、役者になろうと思ったんです」
と言った。たつみ演劇BOX小泉たつみ・小泉ダイヤ両座長の父親、二代目小泉のぼるである。子ども心に、ほかの役者とは全然違ったという。
「芝居も上手い、歌も上手い、ギター、ドラム、三味線も弾ける。全部できる。舞台はめっちゃくちゃおもしろい。あー、俺もこんな人になりたいと思って、目指して、なんとかやりました。後にも先にも、そんなふうに思った役者はほかにいないです」
父親に言われて、怖かったからだけではない。こんなふうになりたいと、胸をときめかせて憧れて目指した役者が、舞台があったから、独学でギターもドラムも三味線も弾けるようになったのだ。

ど学校から帰ってきた、劇団昴星の子役君も興味津々。ちなみ
に腕時計も自身が経営する会社のオリジナル。キラッキラが似
合う。
1982(昭和57)年に、永井啓夫、小沢昭一編集で刊行された「かぶく 大衆劇団の世界」(芸双書10)という本がある。巻末に当時の大衆演劇の全国座長名鑑が載っており、そのなかに座長になって間もない里見要次郎も登場している。さまざまなアンケートに答えるなか、尊敬する演劇人は?という質問に「若山富三郎、勝小龍」と答えている。(註:勝小龍=二代目小泉のぼる)
小泉のぼるとは、大人になって一緒の舞台に立つようになり、親交も深めた。一緒につくる舞台は楽しかったという。
「舞台の上で俺のこと、笑かそうとするんですよ。笑ったらあかんのに。ずっと一緒に親交会(関西大衆演劇親交会)の演芸の芝居をつくってましたね。僕が会長になる前で。頼むで、頼むでってね。亡くなる最後まで。座長大会が終わると、一緒にご飯食べに行って、来年何しようって二人で話す。これしましょうか? あ、そのやり方おもろいな。よっしゃ、要ちゃん、台本書いてって。そんな感じで芝居を10何年やってました」
小泉のぼるの兄である勝龍治(現・剣戟はる駒座総帥)とも、印象深いエピソードがある。
「あの先生はまた輪かけてお芝居が上手。遊びのセリフは一切ない。一緒に芝居やったとき(声色を真似しながら)『要ちゃんよー、あそこなあ、ちょっと遊びが多かったなあ』って言われたことがあって。すみません、気をつけます。『なんでもできんねんから。そんなあかんあかん、そんな遊び入れたら』って。遊びっていうのは、おもしろいことの遊びでなしに、言葉に遊びが多いと。余計なことをつけてしまうことを注意してくださった。それは僕も重々気を付けてます。小泉兄やんと勝先生と一緒にやった最初の芝居は『法界坊』で、法界坊を兄やん、僕が武蔵屋で、勝先生は番頭さん役。打ち合わせもものすごく早くて、兄やんが、着流しの縞と二つ折(日本髪のカツラの種類)だけ持ってきてって。木馬に行ったら、芝居の稽古、開演中に10分で終わるんすよ。開演中にですよ(笑)。もう終わったらご飯食べに行きたいから、一緒に。立ち回りチャチャってやって。こうしようって。で、そのとき初めてだった勝先生が『やっぱりすごいな。あんだけの稽古でこんだけやるのは。普通できへんな』言うてくれて。そんな思い出もあります」
手練れの役者たちの、あうんの呼吸の『法界坊』を観てみたかったものだ。
「いまの役者はみんな録音するでしょ。それをやったら頼ってしまうからやめればいいのにと思う。僕は録音一切タブーだったんで、子供のときから。1回も録音したことないです。じっと聞いて、わかった、こういう風に喋ればいいなって。今日だって、名前と地名を確認したくらいで。いまね、ライオンズクラブの活動で忙しいんですけど、4時間の会議でも、僕、最初から最後まで内容全部覚えてます。数字覚えるの好きだから。聞かれれば、出席者287名ですとかね、すぐ答えられます。10桁は全部覚えられます。電話番号も一回聴いたら覚えます。普通ですよ」
普通じゃない人生を歩む里見要次郎の、次回は若手の育て方について。必見。
(2025年4月17日 岡山後楽座)
取材・文 佐野由佳