劇団美山 取材後記 蝉しぐれの神社は暑(熱)かった

1637

 5回に渡って連載した、劇団美山の里美たかし総座長と山根社長の対談を、たくさんの方に読んでいただけて、ほんとによかったとスマホをにぎりしめていた昼下がり。相棒のカルダモン康子から「裏の神社にちょっと来いや」とLINEがくる。裏といっても、それはカルダモンにとっての裏であり、わたしの家からは1時間ほどかかる。まあいいや。蚊取り線香をカバンに詰め込み、麦わら帽子をかぶって家を出る。

 用件は、この春に観た劇団美山の関東公演の、芝居の感想を話しておこう、それを今回の取材後記として締めくくろうじゃないか、という提案なのだった。海にも近い神社は誰もいなくて気持ちがいい。そして夏の名残りの蝉の合唱がすごすぎて、互いの声がよく聞こえないのだった。

カルダモン(以下、カル) 劇団美山の芝居の何に驚いたって、大衆演劇が昔からやってきた股旅ものだろうと何だろうと、全部ラブストーリーにしてしまうところですよ。沓掛時次郎でさえも。あのラブ路線は、お客さんにウケる理由のひとつなんだと思いました。

佐野 総座長が対談で言ってたように、何でそうなるの? っていう筋書きを、自分もお客さんも納得できるようにつくり変える、その解釈のひとつとしてラブ路線があるんでしょうね。美山の舞台を観ていると、現代劇に近い感じがするのはそのせいもあるのかも。

カル ああ、なるほど。小劇場系のね。

佐野 1月の木馬館で京馬副座長が主役をやった「喧嘩屋の恋 喧嘩屋五郎兵衛」にすごい感動したんだけど、『喧嘩屋五郎兵衛』ってわたしのなかでは、何でそうなるの? っていう芝居の代表格で、それを解消するディテールがちりばめられていたから、初めて物語に入っていけて泣けましたよ。そしてこの物語って、五郎兵衞は恋をするわけではないじゃない? それは美山版でも同じなんだけど、タイトルにわざわざ「喧嘩屋の恋」と銘打ってる。ここでもラブですよ。なぜかという、そこの解釈もできるつくりになってて自分なりにすごく腑に落ちました。

カル どういう風に?

佐野 あの物語は、一度でもいいから愛し愛されたかった若い青年の、性衝動の爆発が引き起こした悲劇だったんだって。京馬副座長の五郎兵衛と、祐樹後見の朝比奈という配役だったから、兄弟の年齢差がはっきり見えて、ああ、五郎兵衛って若いんだよなっていうことが強調されて、若さにおける恋=性、その衝動は強烈なんだってことに気づかされました。しかも事件の発端になるお嬢さんを花太郎花形がやっていて、へのへのもへじみたいな変顔メイクで登場するのよ。最初、何で?と思ったんだけど、お嬢さんをそうやって若い女の象徴として「記号」にしたんだと解釈すると、あの顔の傷があるために、五郎兵衛を疎(うと)んじたすべての女がお嬢さんであり、そのたびに傷ついてきた五郎兵衛の人生を思わずにはいられなかった。会ってもいないお嬢さんの、しかも人違いで、何で皆殺し?って、いままで思ってましたけど、お嬢さんとの破談は引き金に過ぎなかったんだってことがよくわかりました。

カル あとね、ラブストーリーに寄せてるわけじゃないんだけど、男女のラブを感じるように見せちゃうっていうのも総座長ならではだと思う。たとえば「人斬り林蔵」もですね、林蔵を総座長、娘役を中村葵ちゃんがやっていて、感動の親子の再会の場面ですよ、これが親子に見えない。抱き寄せ方がもう、恋人とか愛人を抱くみたいに見えちゃって(笑)。何でしょう、これはっていう。でもそれが、観客にとっては総座長の男っぽさを感じる瞬間になってるんだよね。

佐野 そこにみんな自分を投影したいわけだしね。

カル だから、お客さんに楽しんでいただくというサービス精神の表れとしてのラブストリーであり、ラブ路線なんだっていうのも、劇団美山ならではの大衆演劇らしさなんだろうなって思いました。

佐野 恋の疑似体験をしに、劇場に足を運ぶみたいなとこはあるからね。

カル そのファンの恋の仕方、ウルウルビームの飛ばし方が、劇団が違うとやっぱり違ってくるというのもおもしろいよね。美山はラブだけでなく、いろんな場面で需要と供給がすごく合致しているというか、ファンの気持ちをくんで、ファンに喜んでもらえるためにはどうすればいいかという戦略が非常に緻密でブレがない。総座長が考えているとしたら、ビジネスマンとしてもパーフェクトだと思うんですよ。役者として腕があるということと、そういったファンの気持ちをくんであれこれ考えるということは別なんですよね。

佐野 座長は演出家であり、総合プロデューサーみたいな役割だからね。

カル 大衆演劇の座長って、そんじょそこらの会社の社長なんかよりよっぽど大変な仕事だと思うんですよ。大衆演劇を低く見て言うわけでもなんでもなくて、座長って一般企業にはない肩書きだから最初はよくわからなかったけど、こういう世界に、これだけの戦略家が存在しているということも、私にはとても面白かった。劇団美山の場合、総座長個人の努力だけでなく、座員のポテンシャルが高いことによって、総座長もまたより一層努力をしなければならない構造になっている。下からの突き上げみたいな焦りも総座長には常にあると思うんですよ。そういう切磋琢磨せざるを得ない環境をつくることで、ひとりひとりの座員のレベルも上がり、総座長が司令塔としてもより一段高いところにいけたのかなと思ったりもしました。一般的な大衆演劇の劇団とは、すでにコロナ用語でいうところのフェーズが違うんだと思います。だから、大衆演劇とはなんなのかということを別に定義付ける必要はないけれど、まあ、あえて言うなら、劇団美山はもはや大衆演劇ではない、という気がしました。

佐野 カル様、何様(笑)? いや、そこはもう少し細やかに言わないと誤解が生じると思うんだけど、一般的なイメージのなかの大衆演劇、つまり、われわれもかつてそうだったけど、大衆演劇を観たことのない人のなかの大衆演劇のイメージから、美山は少し外れたところにある、という気はします。

カル 一方で、だからこそ、このアレンジはどうなのかなあ? という展開の芝居もありましたよ。

佐野 たとえば?

カル 5月の木馬館で観た「刺青丁半」。『刺青奇偶』は歌舞伎でも昔から人気の演目なだけに、自分のなかの決定版があるからなんだけど。

佐野 カルさん、歌舞伎観劇歴は年季が入ってるからね。

カル あれはやっぱり最後に、賭場で半殺しの目にあってボロボロになった半太郎が、それでも女房のお仲に死ぬ前にいい思いをさせてやりたいといって、命がけで鮫の政五郎親分と賭けた博打に勝った金を持って花道を走っていくとこで終わるから切ないのであって。そのときもうお仲は旅立ってしまったことを、観客はみんなわかっていて、そこに泣けてくるわけよ。

佐野 5月に篠原演芸場でやった美山版は、あの世なのか、白無垢のお仲が最後に登場して、半太郎と会えるのよね、たしか。死んでしまうのだけれど、ある意味ハッピーエンド。

カル そこに納得がいかなかった。

佐野 救いがあるぶん、切なさ半減だからね。白無垢バージョンのが好きという人も、少なくないのかもしれないけど。

カル あとね、同じく5月に篠原で観た「男幡随院」。通常の『幡随院長兵衛』の場合、水野十郎左衛門の家来から、湯殿を新しくしたから拙宅にお招きしたいので来てくれと言われて、行ったら殺されるとわかってるから、長兵衛の家来たちが、俺が行くとか、いろんなやりとりがあるのに、それが半分以下にカットされていて、子どもの長松は寝たままで、つまりほとんど出てこない。長松との別れはやっぱり見たいですよね、幡随院長兵の張って生きている男が最後に崩れるところなんで。子役がいないとはいえ、葵ちゃんに頑張ってもらうとか、大きな見せ場ですから。長兵衛が一家をあとにして、暗転。次がいきなりもう湯殿の場面になっていたのも驚きました。湯殿の前の宴席で、盃の酒をわざとこぼして、気持ち悪いだろうから湯殿へ行って着替えてはいかがか、っていうその段取りが全部カットされてる。幕が開くと、いきなり湯殿で、いきなり戦ってて。あれしか観てない人は、話の展開がわからないんじゃないかな。5月は時間短縮の必要があった時期だからかもなんだけど、切り詰め方の意図がよくわからなかった。

佐野 きっと意図があるんだろうけどね。次の機会があるなら、総座長にお聞きしてみたいものです。

カル ほんとに。美山は歌舞伎をアレンジするにしても、全員がちゃんと元となる歌舞伎のDVDなり音源を勉強してるんだなあと思うしね。「白波ロック」を観たときに、感動しましたよ。

佐野 舞踊ショーね。

カル 『白波五人男』の稲生川勢揃いの場、土手に桜並木をバックに5人が一斉に並んで、ひとりずつが自分が誰のなにがしって名乗っていく場面なんだけど、一人ずつのキャラが違う、その違いを台詞で表現するのがキモなわけ。そのことをわかって、なおかつロックにしようとしているというところに、感動しまくりました。観劇直後に大衆演劇ナビのインスタグラムで、花太郎花形が八代目岩井半四郎の言い回しを見事に再現してたと書いたけど、京馬副座長にしても、捕手に囲まれてるのに名乗っているふてぶてしさ、豪快さみたいなものがいちばん感じられましたよね。まあ、そういうキャラだというのもあるにせよ、台詞の高低も歌舞伎の音源を何度も聞いて勉強したんだろうなと思いました。歌舞伎って型の芸術だから、忠実に真似ることはすごく大事だと思うんですよ。この稲生川のシーンで言えば、一人ずつキャラを表現することは最低限崩してはいけないことだと思う。歌舞伎でも、160年前の初演時の役者の台詞回しを今でも伝えているのは、そのためでもあると思うんですけど、そこのところが大事だということをわかっている劇団美山には、ほとほと感心しました。台詞として覚えるだけでも別に何の問題もないわけだけど、ロックと称して崩すからには、本家をちゃんと知ってて崩すからカッコいいんだってことが、劇団全体で徹底されてていいなあと思ったのよ。

佐野 対談でも話していたように、座員ひとりひとりが際立ってるっていうのも観ていてとても面白かった。

カル カラーがちゃんとあってね。劇団のなかで、こうた座長がひとり異色な感じがするんだけど、でも総座長が「闇の王」とかって結構な悪態というか、ダークな役まわりに振り切れるのも、対極のようなこうた座長がいるからというコントラストね。

佐野 花太郎花形の「吉良仁吉」の子分役に、まさかの大泣きしちゃったり。まさかのっていうのは、仁吉の子分がそんなに重要な役として登場した「吉良仁吉」を観たことなかったから、子分に泣かされるとは思ってなかったんですよ。美山の芝居では、ここでもラブ、すなわち夫婦愛に軸が置かれていて、仁吉がお菊に三行半を渡す場面で、どちらの気持ちもわかって板挟みにあう子分の演技が、よけいふたりの別れを切ないものにしていて、それがとてもうまかった。

カル 1月木馬館の花太郎祭の日に、弱冠二十歳の花形が「団七九郎兵衛」をやってのけるっていうのもね。しかもそれをちゃんと総座長が義平次で支えるという。誕生日公演とかじゃない、平日の月曜日ですよ。お客さんもそれを楽しみに来るわけで。お客さんとの信頼関係という点では、「河内十人斬り」も印象深かったな。

佐野 カルさん「河内十人斬り」好きだよね。血糊を口から吐き出すのが気持ち悪いんで、わたしはあんまり観たくない演目なんですけど。いや、観ましたけどね。

カル あれを1月だけでなく、5月3日にも篠原演芸場でやっている。まだ月の公演が始まって間もない、しかもゴールデンウィークの真っ最中に。昼夜で。あの陰惨な血まみれの芝居をそこにぶつけるって、お客さんの芝居を観る力を信じてないとできないと思う。総座長演じる松永がかなりガラが悪くてコワイし、美山の「河内十人斬り」は結構グロいと思う。ここまでやったらお客さんが引いちゃうんじゃないか、来てくれなくなるんじゃないか、っていう心配をしてたらできない。高いレベルで、観客と劇団の信頼関係が成り立ってるんだなと思いました。

佐野 その日程でぶつけてるっていうのは、むしろお客さんに人気の演目だからだろうしね。セックス&バイオレンスって、いまも昔も娯楽映画なんかでも不朽の題材だけど、「河内十人斬り」の場合、それだけじゃない。昔、大衆演劇が九州の炭鉱町で唯一の娯楽だった時代や、近江飛龍座長がインタビューで話してたみたいに、大阪の浪速クラブのお客さんがドヤ街の男の人ばっかりで、役者と殴り合いしてるような時代から、「河内十人斬り」は人気だったんだろうね。どうにもならない宿命のなかで、やり場のない怒りというか、あきらめを抱えて、追い込まれて行く熊太郎と弥五郎のつらい人生に共感して興奮したんだと思う。

カル いまだってそうなんだよ。銃を持って山に立てこもらないだけで、そういう人生に追い込まれてる人はいっぱいいると思う。あと、クマとヤゴの友情っていうのもね、いいんだと思う。それも美山版は、クマ(京馬副座長)のお母さん(中村美嘉さん)を強調することで、何であそこまで二人の絆が強いのかっていう裏付けにしてる。ヤゴ(花太郎花形)が、クマと心中するみたいに加担していく動機としてね。親のいない自分を、クマと同じように可愛がってくれたお母さんを自害にまで追い込んだ、あいつら全部、世界の全部が許せねえっていう構図を、上乗せしてる。

佐野 こうた座長が、ほかの芝居では絶対みせない、死んだ魚のような目でトラを演じているのも新鮮でしたよ。

カル あんなグロい芝居、いま、大衆演劇でしか観られないですよ。「河内十人斬り」のグロさって、大衆演劇が本来持っていた魅力のひとつなんだと思う。

佐野 めちゃくちゃな話なんだけど、伝わってくる強いものがあるという。

カル そう。ドラマツルギーだの話のつじつまといった、そういうものをすっ飛ばしてでも来る強さって、論理的につくられた芝居で来る強さよりも、わたしは強いと思っていて。その爆発力の沸点は、いまの歌舞伎よりも大衆演劇のほうが高いと思ってる。いや、話がむちゃくちゃだから力を得る、ということではなくてね。

佐野 自分のなかにも、理屈じゃないものに突き動かされる何かがあると気づかされる衝撃ね。

カル だから、何でそうなるの?っていう股旅ものが、今日まで続いてきたのにも理由があるんだと思うんですよ。美山版のように、それをあえてアレンジして見せてくれる芝居ももちろんすごく楽しいんだけど、一方で、そればっかりになっちゃったらつまらないなとも思う。大衆演劇を見始めたころ、国定忠治や清水次郎長が主人公の、いわゆる股旅ものって、わたしはすごく新鮮だったし面白かった。それまでほとんど見たことなかったし、知らない世界だったから。それだけに、沓掛時次郎をラブにもってくおもしろさの一方に、ちゃんとスタンダードなものはものとして見せてくれる劇団が、大衆演劇の世界には残っていってほしい。

佐野 本流あっての亜流だからね。

カル そうそう。股旅ものはわかりやすいから大衆演劇に向いてるんだとかって、たまにものの本に書かれたりするじゃない?

佐野 あるいは逆に、いまの若い人には股旅ものはわかりにくいから、大衆演劇に若いお客さんが来ないんじゃないかとかね。

カル でもそれって、どっちも、大衆演劇や股旅ものに対して失礼な気がする。わかりやすいかどうかじゃなくて、ああいう作品が持ってる力強さを伝えられることのなかにこそ、大衆演劇の魅力があるんだと思う。毎日毎日、何十年も同じことを繰り返して練り上げてきた、これぞスタンダードな股旅ものを、これからも観たいと思うもの。それこそ大衆演劇でしか観られない芝居だから。

佐野 でもさ、スタンダードというものが、実はどこにも存在しないのかもしれないと思わせるところも、大衆演劇という沼の深さだよね。

(2021年8月吉日)

構成・文 佐野由佳

関連記事