旅芝居にとって「美」とは何か?~そこに、大日方満がいた 文・山根 大

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 「これ、ちょっと大日方入ってるでしょ?」

 新開地劇場の楽屋で、今は亡き初代・恋川純が、ニヤっ、と笑いながら私に言った。

 何のことかと見ると、旅人の支度で、端折った着物の裾部分を微妙にダブつかせている。そうすることで、舞台に現れた時のシルエットが変わる。加えて、着のみ着のままで出てきました、という「油断」が消える。

 それは、旅人らしい、という一種のリアリズムの表現でもある。

 旅芝居の支度は、こういうところが歌舞伎とは異なるのだ。

 旅芝居の源流は、おそらく歌舞伎にあると思われる。それ以外に考えようがない。歌舞伎役者でも色々であり、江戸大坂の芝居小屋でいつも仕事が出来なければ、あちこちに旅して回り、舞台を探し、また作ったことだろう。

 それが、まずは川の流れとしてあり、そこに様々な支流が流れ込む。

 新国劇、新派からはじまり、劇映画があり、のちにはTVの映像作品があり、これを芝居のネタにまで広げるなら、落語、講談、浪曲、小説作品に果てはマンガに至るまで、勝手放題のハイブリッドとして旅芝居は形を成した。

 何でもあり。

 その自由、敢えて言うなら、ゲリラとしての立ち居振る舞いこそが、旅芝居の本質だ。

 だから、リアリズムについても、どの地点を選んでも良い。

 実際は、客席からの距離で決して見てとることは出来ないだろうが、映像作品で目にするような拘り方をする者もあり、一見するとおよそ現実離れした格好が現れることもある。

 その選択自体が、その役者のスタイルとなり、シグネチュアとなる。

 それを思えば、ああ、なんと旅芝居とは幸福なジャンルであることよ、と思うのだ。

 初代・恋川純の言った「大日方入ってる」スタイルとは、では、どのあたりの地点にあるのか?

 映画で観るようなリアリズムの影響は間違いなくある。

 だが、旅人であるとして、合羽と三度笠、手甲脚絆や草鞋に振り分け荷物まではそれで押し通しても、そこで終わりではない。

 三度笠を取った虫入りの髪、髷に一点、紅いものが見える。

 珊瑚でもあろうか、朱色の珠を貫いた簪が、横ざまに差し込まれているのだ。

 リアルではあり得ない、支度の外連(けれん)

 粋とも見える。気障(きざ)とも言える。

 そこに、大日方満がいた。

(本編で掲載の写真すべて)撮影:臼田雅宏

 私の旅芝居の原体験は、かなり遅く、大学時代だった。

 まずは外国映画に大きくかぶれ、次には新劇を観るようになり、そして歌舞伎にも触れ、家業として、祖父の代から関わっているはずの旅芝居が一番後だった。

 「野望と夏草」や「子午線の祀り」が好きで、仲代達也や先代猿之助、当時の染五郎に勘九郎を観て膨らんだ頭を抱え、今はもうないJR大阪環状線天満駅前の天満演舞場に「三人芸友会」を観に行った。

 正直に言う。「どうせ大したことないだろう」との予断があった。

 「芸友」の三人とは、当時名実ともに旅芝居のトップにいた美里英二、九州から関西に進出して一気に存在感を増した二代目・樋口次郎、そして大日方満だ。

 芝居の演目は「笹川の花会」…「天保水滸伝」である。

 

 手垢のついた表現だが、一見して「ぶっ飛んだ」。

 こんなすげぇレベルの舞台を、毎日演ってるのが旅芝居だとしたら、一体自分は何を見て来たんだ?

 あちこち美術館を見て歩いて名画を知り、得々としていた人間が、入ったこともなかった実家の蔵の中にとんでもない名品を見つけたような、そんな体験だった。

 配役は洲崎の政吉に美里、平手酒造に樋口、国定忠治に大日方。

 断言してしまうが、三者三様、生涯の当たり役の、少なくとも一つであることは間違いがない。

 筋立ては知られる通りで、潮来佐原を控える水郷地帯を舞台に、飯岡助五郎と笹川繁蔵両一家の争いを描く中の一挿話だ。

 本当は、浜村淳が映画を紹介するようにして、全部再現したいのだが、ここでは大日方にスポットするから、二幕目(だったと思う)に絞る。

 「花会」とは、今で言うなら政治家の開く政治資金パーティのようなものか。

 博徒が名目を設けて名のある親分衆に声掛けし、祝儀を集めて開催する大きな賭場のことを言う。

 仲違いはしていると言っても、飯岡にも笹川から案内は届く。

 勿論、飯岡には面白いはずもない。

 そこで飯岡は、嫌みを込めて雀の涙の祝儀を代貸しの政吉に持たせる。政吉は理不尽に感じるが、そこは渡世の義理で、敢えて針の莚に座りに出向かなくてはならない。

 笹川一家に着いてみれば、既に歴々たる顔ぶれが揃っている。大前田英五郎、清水次郎長そして国定忠治。

 忠治は、一人背中を向けている。

 関八州から親分衆が遠路勢ぞろいしているのに、ましてや、自分は兇状持ちの旅のさ中に来ていると言うのに、近在の飯岡は代貸しを寄越した。それが気に入らない。

 私が勘違いしているのかも知れないが、幕開けの板付きで客席に背中を向けているのは大日方の創案ではないかと思う。きっかけがあって身体を前に回すと、その瞬間に大向こうから「大日方!」と声がかかる。そういうことはきちんと計算されているのだ。

 忠治は政吉をなじり、面罵しかねない勢いだ。義理に生きる侠客だから、忠治は不義理が許せない。やがて各親分からの祝儀が貼り出される。驚くほどの大金だ。政吉は自分が握り込んで来た金子(きんす)の額を思い、瞑目する。ところが、だ。飯岡助五郎からの祝儀が貼り出されてみると、それは各親分に遜色がないばかりか、代貸し洲崎政吉、身内衆一同からのものすらあるではないか。政吉は我が目を疑う。全ては政吉に恥をかかせないための繁蔵の配慮であった。

 それを見た忠治は態度を一変する。いや、こいつは自分の早とちりだった、こんなにいい付き合いをするとは流石だ、そうと分かりゃ忠治は腹のある男じゃねえ、政吉さんよ、あんたが気に入った、奥で一杯やろうや…。

 侠客、男としての厳しさを見せつけたあと、一転して優しくなる。忠治の激しさと単純な人の良さを、この展開の中で大日方は見事に表現した。

 芝居はこのあと、繁蔵の器を見せつけられ、親分衆が場を去ったあと、一人茫然とする政吉の後ろを、繁蔵の食客である平手酒造が通りかかり、「これがヤクザの世界だよぅ」と一言、という場面に続く。平手が上手に入ったあと、繁蔵から託された心づけの小判をその手からこぼれ落とす政吉。

 思い出してもニヤケて来るほどの展開だ。

 まずは忠治(大日方)が観客を惹きつけ、それを平手(樋口)が横取りし、更にそれを政吉(美里)が取り返す。

 やられてたまるか、の火花を散らすような役者の勝負。面白くって仕方ないだろう。

 最初に見せ場が来る大日方が三者のうちでは最も「不利」だし、出方、タイミング、台詞、声の調子とどれを取ってもうんざりするほど決まっている樋口が強く印象されることは避けられない。私もそうだった。そのあと「だんまり」で客席を「戻して」チョンを取る美里は流石なのだが。とにかくどんな場面でも、出てくれば真っ黒にしてしまうような樋口次郎の「仕口」はワン・アンド・オンリーだった。

 だから、大日方の凄さが分かったのは、実はずっと後だった。

 少し、余談に類する話をさせて戴く。無論、大日方に関連したことではあるが。

 それは、先に紹介した樋口の台詞についてだ。

 「これがヤクザの世界だよぅ」、というやつ。

 見事なまでにハマり、私には完璧、と思えたものだった。

 この舞台をきかっけに、大日方と樋口は芸道上の兄弟分を契り、様々な場面で共演することになる。実際、名コンビであると誰しも見ていたと思う。

 ところが、だ。後年、これについて大日方に聞くと、また別な風景が見えてくるのだ。

 樋口の舞台の特徴のひとつは独特の「間合い」なのだが、それがどういう性質のものなのか、という話だ。

 「樋口は良く芝居の途中で黙り込む」と、大日方は言う。「それが、間合いなのか、台詞を繰っているのか、忘れたのかの区別が付かない」。

 樋口は僕とやるのが一番やりやすい、と言うけれど、それはあれに合わせられるのが僕しかいないからでしょう、と。

 これには正直笑ってしまったのだが、なるほど、ありそうなことだな、とは思った。

 その時だ。あの、私を鷲掴みにした「名台詞」、あれはもしかしたらあの場面で樋口が即興したのではないか、と考えることになったのは。

 見れば見るほど分かることだが、樋口は自分のペースで芝居をする。典型的な座長芝居と言えるだろうが、早い話が唯我独尊だ。私自身、書いた台詞を樋口に託したことがあったけれど、まぁはっきり言って好きなように変えてしまう。

 役者言葉で「もたれる芝居」というのがある。他の役者に「よりかかって」芝居をする、というほどの意味だと思う。

 樋口の場合はそうではなく、自分のやりたいようにやる芝居だろう。その役者としての「我」の強さが、時にアンサンブルとしての舞台を破壊しても、観る者に強烈無比な印象を刻むことになる。「良い」とか「悪い」の問題ではない。一緒に演じる役者にとっても、観る者にとっても「合う」か「合わない」かなのだ。

 翻って言うなら、その樋口がやりやすい大日方は「合わせる」ことの出来る技量がある。

 だから、誰と舞台に立ってもきちんと仕上げることが出来る。

 激辛の味は良かれ悪しかれ誰にでも分かるが、丁寧に取った出汁の味を楽しむためには経験値も必要になろう。

 樋口と大日方の舞台の違いはそこにあり、ひとたび一緒になった場合には激辛の素材を上質の出汁が口に入りやすいものにする、という訳だ。

 そう考えると、大日方満には悲運なところがある。

 知られる通り、大日方の薫陶を受けた役者は多く、大川九州男であり、初代・恋川純であり、橘魅乃瑠でありと、錚々たる顔ぶれだが、その後継者がそれぞれ大川良太郎、恋川純弥、二代目・恋川純、橘炎鷹であることを思えば、現在の劇界の根幹を形作っている名前のない派閥の領袖ですらあるかも知れない。これに比肩し得る存在は、今は亡き二代小泉のぼるただ一人だと思う。

 しかし、劇団として見た場合には、やがて一家をなす役者たちも弟子であるに過ぎず、一座のうちに「大日方の芝居を受けきる者がいない」という状態が続くことになる。

 大日方満の劇団……現在は満劇団と号するが、かつては、情熱座と言った……の代表的な芝居

を思い出すなら、公私ともの伴侶である大日方きよみを小春に仕立て、坂田三吉を演じた「王将」か、当時は「浪花のあんみつ姫」なる天才子役だった現座長・大日方皐扇を使った「子連れ狼」や「狐のくれた赤ん坊」を思い出すことになるのはその為かも知れない。

 確かに、「雪の渡り鳥」なども記憶に残るが、それは三波春夫の歌唱を使って、舞踊を見せるがごとくに演じた銀平帰郷の一場を忘れがたいからだ。つまり、そこは大日方の一人舞台なのだ。

 決して揶揄する意図ではあるまいが、大日方を指して「座長大会用の役者」という評価があるのも、そう考えると理由のないこととも言えない。力量・存在感のある役者と丁々発止の状況となれば、大日方は相手を光らせながら、また自らも光ることができるからだ。

 劇団単体での公演ではなく、座長大会などの特別公演での大日方に想いが深くなるのは致し方ないことでもある。

  「平成の名舞台」と称されたものが、新開地劇団で公演中の大日方劇団に、座長を退き、一役者となった美里英二が客演した二日間だ。

 演目は「会津の小鉄と近藤勇」と「清次命の三十両」。

 小鉄を美里が演じ、大日方が近藤に回った前者も良かったのだが、個人的には大日方最高のタイトル・ロールであると考える後者の清次が素晴らしかった。

 幼馴染の女と、その思い者で、一家で粗相のあったやくざ者の二人を逃がすために、白刃の下に身を晒す旅烏である清次と、その心を知りながら、立場上粗相の若い衆を見逃すことの出来ぬ一家の親分(美里)が阿吽の呼吸で二人に逃げ道を作ってやる。

 美里英二という人は、何を演じても端正な清潔感があり、これはまた「もたれない芝居」を体現するかのような役者だったから、大日方の「味」が絶妙に生きた。

 逃げる二人を見送る清次と親分が作り出す幕切れは、名場面とはこれ、と言いたいものになり、浅草の木馬館で舞台撮影を続け、この日は神戸まで運んでシャッターを切っていた臼田雅弘氏の手によって一枚の写真になっている。

 氏はそれをパネル張りにして私に贈って下さった。

 今も、仕事場の高いところに飾ってあるのがそれである。

 旅芝居の理想を忘れぬためにも、私はそれを日夜拝んでいるのだ。

大日方満と美里英二による『清次命の三十両』の幕切れ。撮影者手ずから製作のパネルごと山根演芸社事務所に飾ってある。

 

大日方満は、身体の線が美しい。

 その立ち姿は、どこか、片岡仁左衛門丈を思わせる。

 本人もそれを知悉しているから、舞台上での身体の扱いを考え抜き、どう見せれば「美しい」かを示し続けて来た。

 例えば、舞踊で幕が上がると、大日方はしばしば客席に背を向けて立つ。半身から客席を振り向く時の、背筋の線を意識しているのだろう。

 また、舞台上に階段を設けるようなセッティングであると、「どちらの足から登りはじめ、何段目でどちらから振り返るか」をいつも考えているという話を聞いたこともある。

 ある時、自らも名舞台を作ってきた「明治一代女」を、孫弟子と言える橘炎鷹と実子の皐扇に演じさせたことがあった(ちなみに、この時「箱屋」を演じた炎鷹は、大日方の、まさに「完全コピー」を実行して見事だったのだが)。そのDVDを私と二人で観ていて、炎鷹が上手から歩いて下手木戸へと出る場面で、「この子(炎鷹)はここに問題がある」というので「え?」と聞き返したことがある。私には何の問題も見えなかったからだ。

 その答えが「歩数」というものだったので、驚いてしまった。

先に皆さまにお読み戴いている大日方のインタビューでも言及されていることだが、木戸から出る時でも、ただ出るだけではない、が大日方流だ。何歩で歩いて、どう出るか、ということを考える。そして、観客に何かを届ける。そう考えると、その底にあるものが大日方の考える「美」をいかに表現するかであることに思い至る。

「雪の渡り鳥」における銀平帰郷の場面があたかも舞踊のようだ、と先に書いたが、逆もまた然りである。

つまりは、「舞踊の中に芝居がある」。

個人的には、老境を意識させるものなので、愛好している訳ではないのだが、「孫」を踊ると、一人舞台なのに、そこに、小さな孫、が見えて来る。これは凄い芸の力だと言わざるを得ない。

年齢的に言うと、少し枯れた時期にさしかかりつつあった頃の「昴」も名舞踊だ。

大日方は、これを旅人姿で踊るのだが、本人が登場する前に、まず、三度笠が下手から投げ入れられる。それを下手から出て拾い上げるところから「芝居」が始まる。

そもそも、舞踊ショウなどとは呼び、また、日舞の修練を積んだ役者も少なからずはいるが、つまるところ、旅芝居の舞踊とは「歩く」「回る」「止まる」の組み合わせだ。その中に様々な工夫はこらされていても、舞踊家の舞踊とは根が違う。では役者は何で勝負するのか。芝居心を措いてはあるまい。

以前、初代・恋川純の「橋ぐれる」について書いたことがあるが、今にして、あれこそが大日方直系、と気づくことになる。

役者である以上、芝居が根本だ。

役者の舞踊とは芝居のヴァリエーションでなくてはならない。

では、芝居そのものの舞台と、そこから派生する舞踊のいずれもで何をするのが旅役者なのか?

それを考えたのが大日方満であり、それが即ち、旅芝居にとっての「美」だ、と私は考える。

大日方の役者としての構え、動き、台詞といったものが、誰に、どのように引き継いで行かれることになるのか、それは実のところ予想できない。

ただ、出来ることであるなら、それが見えない水脈のようにして、旅芝居の土壌を潤し続けることを私は願う。

大日方満の来た道に、旅芝居だけの「美」がある、と思うからだ。

かつて、九州飯塚の嘉穂劇場で開催された、第一回目の「古今東西オールスター」は、今やインフレ気味に消費されるものとなってしまった凡百の催しとは異なる、「正真正銘の座長大会」だった。

その折に、私は芝居台本を委嘱され、はじめから玄海竜二と大日方満を念頭において「当て書き」をした。

「次郎長外伝 月見草仁義」という芝居だ。

富士を見晴るかす御坂峠に一人娘と住まう老侠客が大日方、その旧友が玄海。二人はかつての修羅場で知り合い、長い付き合いになったが、片や清水一家、片や黒駒一家につながりがある。喧嘩に至る両身内を分けるため、二人が一計を案じ…という展開だ。

大日方演じる主人公は言う。

「次郎長や勝蔵は向日葵(ひまわり)、俺は月見草みたいな男になりたいのさ」

と。

元ネタが太宰治の「富嶽百景」であることは、観る人が観ればバレバレだろうが。

話は色々あって、幕切れは二人の男が旅立つところでチョンとなる。

私の好みで言うなら、二人が肩を並べて花道に入る、というところだが、そこは座長大会だ。まずは大日方が入り、続いて玄海が入ることにした。

またも樋口次郎の話になるが、舞台下手側七三から道に入るその一歩目を、樋口はひどく重要視していた。

「この(足を出す仕草をして)一歩目が出せないんですよ」

としばしば口にした。

つまり、花道への「引っ込み」には役者の真骨頂がある、ということだ。

大日方はこの時どうしたか。三度笠を肩にひょい、と掛けて、そのまますっと入った。まるで自然体だった。

それに対して玄海は、彼ならではの華麗な回し合羽で決めて、そのあとゆっくりと入る。

ことは大会の幕切れだから、玄海の入りが正解であることは間違いない。そうでなくてはいけない。逆に言えば、後に玄海が控えているから、大日方はあの入りが出来たし、また、そうでなくてはいけなかった。

何てことはない、と見えるかも知れない。

しかし、そこに芝居の筋立ての綾と、時と場所を知り尽くした巧者二人の舞台捌きの妙味がある。

実に見応えがあった。

これについて、舞台を同じくしたある座長から感想を聞いたことがある。

「あそこ(幕切れの引っ込み)、玄海会長は大日方先生に押されましたね」

役者から見て、先に入られた大日方に、玄海は、少し焦りを感じた、という意味かと私は取った。

なればこその、あの華麗な七三であったのか、と。

しばらくしてから、楽屋で玄海と話す機会があり、図らずも大日方の話題になった。

その時に、玄海がぽつりと言った。

「俺は、あんなジジイになりてぇ」

第一人者と自他共に許す、玄海竜二の述懐には、千金の重みがあった。

その玄海竜二が病魔に倒れ、生死の境を潜り抜けて、今、不屈の闘志で奇跡的に舞台に立つ。

芸の根は違えど、舞台の姿、芝居に対する姿勢、玄海は確かに大日方に通じるものがある。大日方が毎日舞台に立てる状態でなくなった今、万全の玄海竜二以外に、その「美」を表現できる者がいるものかどうか、私は定かに見通すことができない。

だから、大日方十八番の、「昴」の歌詞にあるがごとく、

「いつの日か、誰かがこの道を」

と、私は祈る。

何故なら、もう一度書くが、大日方満の来た道にこそ、旅芝居ならではの「美」が息づいているからだ。

「月見草仁義」で大日方満が演じた、御坂の藤五郎は、大を望まず、密やかに自分の生き方を通そうとする。

大げさなことを口にせず、行動を以て想いを語らせる、だからこその月見草。

私事になるが許して貰うと、私は御坂の藤五郎に、我が父、照登を重ねていた。

それは、自分にとっては、足掻いて届くことのない憧れでもある。

演じるとすれば、大日方満以外には考えられなかった。

私は舞台人ではないが、舞台に関わり、それによって生かされてきた。

その私に師匠という存在があるとすれば、それは大日方満である。

そして、もしかすると、最も父に近い存在であるのかも知れない、と思ったりするのである。

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