「舞台の求道者」恋川純弥 文・ 山根演芸社社長 山根大

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 しばらく前のことになるが、沢木耕太郎の書いた「凍(とう)」という本を読んだ。

どういう内容かというと、実在の登山家である山野井泰史・妙子という夫婦が、ヒマラヤ山脈にあるギャチュンカンという高峰(世界にある標高8,000メートル以下の山では最も高い)に登ったことが書かれている。

登ると言っても、もちろん並大抵のことではない。

高度差何千メートルもある岩壁を、殆ど身一つでよじ登るのである。

ヒマラヤ登山の近年のトピックと言えば、スキーヤーの三浦雄一郎がエヴェレスト登頂の最年長記録を更新したことが思い出される。三浦の場合は、ベース・キャンプまで大量の物資を大人数で運び上げ、そして万全を期してアタックを行う。酸素ボンベを用いることは前提であり、登山に伴う危険を可能な限り削って行くわけだ(こうした手法を「極地法」「包囲法」ということもこの書物で知った)。

対して、山野井夫婦は「アルパインスタイル」と呼ばれるやり方で、ベース・キャンプまでは人手を借りるものの(というか、入山の条件にそういう人員との契約が含まれている)あとは自分たちだけである。酸素?何を仰るウサギさん、だ。荷物を最小限にしなければ、自分たちを高みへと持って行くことはできないのだから。

先回りして言っておくと、私は三浦をリスペクトしている。

方法の如何は別、80歳という年齢で標高9,000メートルに迫る場所まで己を持ち上げた、その事実は何としても素晴らしい。

私は50代最後の年に、アフリカの最高峰であるキリマンジャロに登ろうとしたが、5,500メートルあたりで二進も三進も行かなくなった体験がある。そのことを思う時、三浦のやり方なら…みたいなことを言う向きには、申し訳ないが「分かってないよな」と思ってしまう。

それだけに、だ。

山野井夫婦の為したことがいかに凄まじいことであるか、身に徹して想像されるのである。

一日で登れる壁ではないから、わずかな足場に鳥の巣を掛けるようにして野営する。気温は常に氷点下で、足元に水分が忍びこむようなことになれば、忽ちに凍傷だ。そして、壁にへばりつくようにして過ごしている頭上からは雪崩が襲う。行くも退くも地獄と言って間違いない状況、命を懸けるしかない行為に、二人は「自ら進んで」己を投げ込むのだ。

要求されてのことではない。自ら望んでそれを行う。

いや、そういうレベルですらない。

二人はこうした遠征の費用を捻出するために、日頃の生活を極端に切り詰めて原資を作り、登山を実現する。

言わば、命がけの登山をするために、生きているのだ。

我々が、たまさかの非日常を求め、少しばかりの負荷を自分にかけて、それをクリアすることを日々のエネルギーにしようとする、そんな山歩きとは全く違う。

登るために、生きる。

そこでは、目的と行為の間に1ミリのズレもない。恐ろしくソリッドな生き方だ。

普通に考えて、これは社会生活とは相容れない。

だから、場合によっては簡単に「狂気の沙汰」と言われてしまうことにもなるだろう。

勿論、本人たちにとってそんなことはまるで関係のない話で、一顧だにすることもあるまい。

何しろ、「登らなければ、生きられない」のだから。

例によって前置きが長いが、この度のお題である恋川純弥のことを考えると、どこか生死の境の岩壁をよじ登る山野井夫婦と重なる部分があり、かくの如き次第となったのだ。

役者たる身、舞台が好きだ、とまでは言い切れないにしても、生きる場所として舞台を意識しないことはあり得ない。

想像するに、その意識には濃淡がある。

「これは日々の糧を得るための術だ」

と考える者もいれば

「自分も人も楽しませることが出来て、それで食べて行けるなんて結構なことだ」

と思っている者もあることだろう。

しかし、

「舞台がなければ、生きられない」

と考えている役者が、果たしてどれほどいるだろうか。

山野井が山を求めるようにして、舞台を求める。

山野井が生まれながらの登山家であるとすれば、その役者は「生まれながらの役者」である。

恋川純弥は、私にそういう幻想を抱かせる稀有の存在なのだ。

誤解を恐れず(別に誤解されても構わないのだが)言えば、私にとって、恋川純弥は旅芝居、大衆演劇の歴史が生んだ最高の役者だ。

曖昧な基準でそういうことを言うべきではない。だから、その理由を述べる。

「大衆演劇ナビ」からのご依頼で、既に三名の役者について書いているし、彼らはそれぞれに「最高」の資質を持っている。

抽象的なイメージを舞台の動きで具現化する二代目・恋川純の天才。

旅芝居の舞台を手法と表現で押し広げる近江飛龍の発想力。

舞台捌きと観客を把握する力量の両面で並ぶ者のない都若丸のセンス。

そのいずれの要素でも、純弥は彼らに及ばない。

しかし、逆に、彼らのいずれもこの点だけは純弥の後塵を拝することになる、という部分がある。

それは「完成度への思いの強さ」だ。

言い方を変えれば、己が勤める舞台を完璧なものにしたい、という執念。

これだけは、現役のみならず、私が知っている範囲の過去のどの名優も純弥に敵する者なし、と感じる。

ただ、それは心の構えであるから、見えるものとして考えることは出来ない。

何をもって私がそう判断するのか、を言わなくてはならないだろう。

そのための前段として、個人的に何が役者の価値だと考えているのか、明かす必要がある。

その答えは極めて簡単だ。

私が最も重視するもの、それは「立ち回り」である。

つまり、チャンバラ芝居における、殺陣(たて)の表現だ。

人情劇、喜劇、現代劇と様々なジャンルを日々横断しながら成立している旅芝居の世界で、偏りの過ぎるものの見方であることは百も承知ながら、「これがなければ旅芝居ではない」と私が考えるものがチャンバラであり、それが見事に展開する時こそ、私自身、舞台を見ていて最も幸せになる瞬間である事実に、嘘はつけない。

そして、恋川純弥は、私が知る「最も美しい立ち回り」を持つ役者なのである。

立ち回り、と言う時、私が真っ先に思い浮かべるのは、亡き二代目・樋口次郎だ。樋口の鮮やかな居合い。それだけを観たいがために何度小屋に足を運んだか分からない。

次には、玄海竜二。樋口の立ち回りが居合一発の凄みを支えとするのに対し、玄海の立ち回りは舞踊の動きと通底している。

純弥は幼少時より舞踊の修練を重ねており、玄海と同じく舞踊に基づきながらも、樋口の原点でもある新国劇由来のリアリズムを加味したスタイルを作り上げた。

だから、その立ち回りには優雅な美と力感が共に備わっている。

かつて、熊本市民会館で「古今東西オールスター座長大会」が開催され、玄海が自作である「茜雲」を上演した際、剣客役として指名したのが純弥だった。第一人者である玄海にして純弥に一目置いていたことを示すエピソードであろう。

既に十年以上前のことになるが、現在の親睦団体・関西親交会の前身であった大衆演劇親交会の「歳忘れ座長大会」は、所属団体数が多すぎるため、二つのグループに分けて二日間で開催されていた。

私は折に触れて芝居台本を書くのだが、それが出来るようになったのは、この催しのためのお芝居を作る必要に迫られたからだ。2008年の公演は結局その形では最後のものとなったが、そのうちの一公演のお鉢が私に回って来た。既に何度かの経験があったが、この時には引き受けるに当たってひとつ条件を出させてもらった。

「純弥を使わせてくれるなら、やらせてもらいます」

と。

それまでの私の芝居に、純弥は一度も出演していなかったのだ。

私は純弥の立ち回りをお客様に見せたかった。いや、多分、自分が観たかった。

それで、「新・天保水滸伝」というお芝居を書いた。

申すまでもなく、純弥を平手造酒にキャストする。そして、本人にこう伝えた。

「立ち回りは任せるし、好きなように絡み(立ち回りの相手を務める人員。この場合は剣友会さんなどを意識した)を使って良いから」

結果は、稽古の時からして既に見ものだった。

平手のライバルで、彼を付け狙う剣客を設定し、桜春之丞に役を任せてある(我ながら画になる組み合わせだと思った)。二人の殺陣には見本が必要なので、純弥と、当時はまだ若手と言って良かった二代目・恋川純がそれを見せる。さすがに鮮やかなものだ。それを今度は純弥と春之丞で写すわけだが、何度か繰り返すうちに春之丞の息が上がって来たようだった。

「これは中々大変な立ち回りを付けたな…」

と思ったものだが、純弥は疲れも見せず、その後、自分が大勢を使った立ち回りを何度も何度も繰り返して深更まで練習していた。その禁欲的なまでの取組みに舌を巻いた記憶がある。

誰のものであれ、舞踊における一瞬の閃きには、演者の天才が時に見える。それを目にすることは大きな楽しみであり、喜びだ。

しかし、立ち回りは一人では出来ない。立ち回りのアイディア自体にセンスの有無は存在するが、それを形にすることについては努力あるのみ、しくじらないためには、反復練習あるのみ。

純弥にはセンスもあるが、その努力を惜しまないのだな、ということを目の当たりにした機会だった。

そして、これが純弥の「完成度への思いの強さ」を証明する一つの例となる。

そもそも恋川純弥は無類の「凝り性」だ。

この立ち回りの時にも幾振りの「刀」を持ってきたことか。

材質、(こしら)え、その全てが少しずつ異なり、用途もまた異なる。

それは非常にレベルの高い位置での選択だ。

例えば、ヴァイオリニストがストラディヴァリの名器で弾くかどうかは、実のところ殆ど演奏者のためだけに意味がある。

TV番組に「芸能人格付けチェック」という企画があって、時にそういうことを証明する。出演者に目隠しをさせて、二種類の演奏を聴かせる。さて、どちらが名器の音でしょう?という訳だ。よほど修練を積んだ聴き手でもない限り、安物と名器の音色の違いをそれと聴き分けることは難しい、ということを意地悪なその番組は教えてくれる。

舞台で用いる「刀」なら、なおのことだろう。

しかし、純弥は拘らないではいられない。何のためか?外ならず、己の納得のためだ。

趣味に打ち込んでも同じことが起こる。

少し前はビリヤードだった。何本のキューを揃えていたことか。

近年では、ダーツ。プロのライセンスを取得して、本場ラスベガスまで試合に出かけたことを知っているファンも少なくはあるまい。

そこまで、やる。

三味線は舞台でも披露しているが、プロの奏者として十二分に通用するレベルに達している。もちろんのこと、三味線も幾掉所持しているか想像がつかない。

この世界、芸の達者は山といる。けれども、「芸を極める」ことに執心出来る者はどれほどいるのだろう?

それは、己を、自らの世界に於いて完成させたいという強い欲求がなければ生まれようのない心の動きだ。

誰に求められる訳でもない。「そうしなければ生きられない」から自らその場所に赴くのである。

そう、山野井泰史と妙子が極限の山に向かうようにして。

それゆえ、私は恋川純弥を、かく呼ぶ。

「舞台の求道者」

と。

立ち回りを求め続けた結果、恋川純弥は、その道の第一人者である大山克巳に師事して、さらにそれに磨きをかけることになった。

知られる通りではあるが、改めて申せば、大山克巳は殺陣師から叩き上げた新国劇の正当後継者であり、殺陣については「大山塾」を主宰して後進を育てていた。

純弥はそこで修練を重ね、塾頭となる。

旅芝居の演目にもなっている「殺陣師段平」は新国劇の演目だ。

短く言えば、日本における殺陣師の歴史は新国劇の歴史に等しいと捉えても間違いではないだろう。

その血脈を受け継ぐ者、つまり、日本の舞台における殺陣=立ち回りを受け継ぐ者が恋川純弥なのである。

純弥の凄さを伝えるには何と言っても立ち回りだということで、ここまで筆を進めて来たのだが、役者としての全体像を考えた場合にはもちろんそれだけでは終わらない。

そもそも、大山伝来の殺陣を受け継ぐとの意味合いを込めた「襲刀公演」での芝居がそうだった。

新国劇の演し物である、長谷川伸原作の「関の弥太っぺ」、通称「関弥太」。

旅芝居の劇団の多くが手掛けるネタでもあり、様々なヴァージョンが存在する。

原作を読んで見ると細やかな挿話が実に味わい深く、珠玉の台詞と相俟って、さすがは長谷川伸、と唸らせてくれる佳編であるが、旅芝居の演目とする場合には、その細やかなところを抜かないことには上演時間が延び過ぎてしまう。

筋立ては知られるところだが、主人公・弥太郎が道中で盗賊を手にかけるところから始まる。

盗賊が絶命する前に幼い娘を託された弥太郎は、娘を縁につながる宿屋へ送り届け、侠氣から手持ちの金子とともに預ける。

その七年後。

弥太郎は、それこそ天保水滸伝のネタである飯岡・笹川の喧嘩に腕貸しをする中で、関わりの出来た箱田の森介という男と親しくなる。

たまたま二人して、甲州吉野宿沢井屋の小町娘・お小夜の噂話を聞き込み、森介は事情を知らずに騙りとなって、かつて弥太郎が救った娘をものにしようと沢井屋へ入り込む。

それを知った弥太郎は…。

映画脚本の影響などもあるのだろうが、ここで弥太郎が森介をどうするか、というところで話の色合いが変わる。

旅芝居の世界で、この演目の頂点は亡き二代目・樋口次郎の仕口だと、私はかねて思って来た。

樋口の弥太郎は、森介を斬る。

これにより、芝居のメイン・トーンは弥太郎の秘めたる慕情となり、それが樋口独特の殺伐とした構図の中でえも言われぬ艶を醸し出すのだ。

広島・清水劇場の名物支配人であった高田博氏は、旅芝居の世界で今につながる様々な企画を打ち出し、興行難所だった広島に、清水ありとの名声を確立した人だが、キャリアの末期、樋口に「一人芝居・関の弥太っぺ」を依頼したことがある。

私もそれを実地で見せてもらったが、非常に印象の深いものになった(これが記録されずに、記憶の中だけで生きる。これまた、旅芝居の醍醐味だろう。残念なことだが…)。

この芝居での樋口の殺陣は、圧巻の一語に尽きる。

これを誰も受け継いでいないとは、余りに悲しいことだ。

翻って、純弥の演じた襲刀公演だが、これは長谷川伸の原作に忠実に展開する。多少長くはなるが、公演の趣旨を考えるならそれが正しいに違いない。

純弥の弥太郎は、森介と兄弟の契りを結んで、共に吉野宿を去る。

芝居のメイン・トーンは、渡世の世界に生きる男たちの心模様と言えよう。

立ち回りは、無論それなりにある。しかし、実を言うと、あまりはっきり憶えていない。

憶えているのは幕切れだ。

舞台七三にかかる弥太郎を森介が呼び止め、ひとつの合羽を二人で被るようにして、足並みを揃えて花道に入る。

これは森介を演じる者の力量も問われるところだが、この時の森介は二代目・恋川純だったから、息の合わせ方も申し分なく、ま、一言にすれば「(しび)れた」。

所作・表情で心の(うち)を伝える。

純弥がいかに卓越した役柄への理解力と、表現力を持ち合わせているかが如実に示された場面であったと思う。

芝居をかみ砕いてものにし、それを的確に表現する。

これぞ役者の力量ではないか。

もう一つ例を挙げることにしよう。

劇団・華の現在の座長である市川たかひろが襲名する際に、私は「市川たかひろ五番勝負」を企画した。会場は、大阪・新世界の浪速クラブである。

座長襲名の餞に、当代のトップ五人に日替わりで登場してもらい、その力量を体験してもらおうと思ったのだ。

その皮切りが、純弥だった。

私は純弥に

「たかひろに、一手教えてやってくれ」

とお願いをした(「一手」はもちろん、立ち回りについて言っている)。

芝居は「遊侠三代」。

九州の劇団を中心に遍く知られている芸題である。タイトルは様々に替えられているが、幼くして生き別れた兄弟が、弟は侠客、兄は人斬り稼業の男となって対峙することになる内容は同じだ。

クライマックスは雪降る中での二人の立ち回りになる。

かなり長尺だったと思うが、純弥はまず、BGMを全く使わなかった。

そうすることにより、舞台上の動きが長くなるに連れ、たかひろの息遣いだけが大きく聞こえるようになる。立ち回りの(もたら)す緊張感がなせる業だろうが、余計な音が入ってくれば、それは決して伝わらない。立ち回りにおいて、何を伝えるべきか知り尽くしている純弥ならではの演出だった。

やがて、兄の純弥はわざと弟のたかひろに斬られる。兄は弟にそれまで素性を隠していた。

最後に至り、兄はそれを明かして弟に告げる。

「大きくなったな」、と。

有り体に言ってしまえば「遊侠三代」はあまりに手垢のついた芝居だ。

筋立ては皆が知っているし、演じる劇団によって、そこで何を見たいのか、観客も前もって予想のつくようなところがある。

私は無知であるがゆえ、この時の純弥の演出を初めて見た(劇団・華の座長市川かずひろは「うちではこの一言はない」と言っていた)が、それだけに感動的だった。

誰でも知っている芝居が、全く別物になった。

大げさに言えば、ありものの仏に魂が入ったのだ。

これまた、純弥の凄さであろう。

加えて、もう一つ、純弥ならではの特質を挙げておかなければならない。

それは「二の線」で押し通せる役者だということだ。

つまり、本物の二枚目役者なのである。

これは、私自身の願望なのだが、本人が出来るとしても、純弥の三枚目は見たくない。

似つかわしくない。

そんな想いを抱かせる役者はそうそういないだろう。

純弥の「二枚目ぶり」を伝えるのは芝居そのものではないかも知れない。

例えば、こんなことがあった。

博多新劇座での公演だったと記憶する。

舞踊ショウに入る前の口上で、純弥はこう言った。

「今日の舞踊は気を入れておりますので、ご祝儀はご遠慮下さい」

と。

言葉は正確ではないと思うが、そのようなことを舞台上で言ったのだ。

私は我が耳を疑った。旅芝居の役者が自ら祝儀(はな)の受け取りを拒んだ。かつて玄海竜二は舞踊で贈られる祝儀を受け取らないことをポリシーにしていたと思うが、それにしてもそんなことを「宣言」する役者は寡聞にして知らなかった。多分、その後もそんなことをする者はいないのではないかと思う。

旅役者に限らない。

役者たる者、舞台人たる者、芸能に携わる者は、これ全て観て下さる方のため、お客様のためにある、と私は思う。無人島で一人歌い、踊り、演じて、それを観る者がなく、記録にも残らないとすれば、それは芸能と呼べるのか?

断じて違う。

芸能は受け手がいて初めて成立するからだ。

では、己のやり方を受け入れることを観客に求めた純弥は、傲慢であるに過ぎないのか?

私はそうは思わない。

純弥はそうすることが「観客にとって一番の捧げものだと考えた」に違いないからだ。

観客の嗜好を風向きの如くに読み取り、その望むものを的確に差し出すことが出来るなら、これ間違いなくエンターテイメントである。それが出来る旅役者は、私見、少なからずいる、と思う。一流の旅役者たちだ。凄いことである。

しかし、例えばミロのヴィーナスやモナリザは、観る者に合わせてそこにある訳ではない。その在り()(よう)で観る者を惹き付けてやまないのだ。それらを鑑賞する者は、ヴィーナスやモナリザにかくあれかしとは要求しない。ただ、それがヴィーナスであり、モナリザであれば良いのである。

純弥の舞台とは、そういうものだ。

迎合することなく、高めに高めた己を差し出し、もって観客を魅了してみせる。

これが「二の線」の中身だ。

純弥が育った桐龍座恋川は、そもそも小さな劇団だった。

初代・恋川純とその夫人である鈴川真子、子供たちである純弥・桃子と、家族を核にして、そこに人が出入りする。二代目・恋川純の成長には十年以上の時日を要した。

子役として、先に人気を博したのは、実は桃子だった。

純弥は先んじた妹の背中を見ながら、稽古ごとに怠りなく、徐々に力を付けて行く。

そこは持ち前であろうが、先述したように妥協を許さない性情が、舞踊、三味線、立ち回りの修練に結実した。従って、その歩みには誤魔化(ごまか)しやショートカットがない。だから「ホンモノ」なのだ。

座長襲名と同時に人気が爆発し、同世代のトップに立つ。

しかし、あろうことか、人気の絶頂で自ら座長を下りてしまった。

その折の衝撃については、二代目・恋川純についての稿と重なるので繰り返さない。

ただ、我々にとっては、「劇団を率いる純弥」が容易に見られなくなる、という事実は残念と言うしかなかった。

個人的に、何が何でも純弥を劇界に引き留めようと考えて、無い知恵を絞ったことを思い出す。

なぜ純弥がそのような決断をしたのか、それについては想像を巡らせるしかない。

ただ、それには、間違いなく旅芝居公演に絡まる構造的な問題が関わっているだろうと思う。

私は、純弥が掲げる、ショウのためのバックドロップに書かれた文言が好きだった。

「弱肉強食お役者稼業」。

そう言い切る純弥に依頼心や甘えといったものはないだろう。

その純弥が、旅芝居の日々の公演が困難である、と感じる事情は明白に二つある。

一つ、純弥のように完成度を求める者にとっては「演目日替わり」に無理がある。

二つ、純弥のように舞台にコストを掛ける者にとっては、入場料金が折り合わない。

しかし、思えば、この二点は「大衆演劇」の定義に関わる部分でもある。

毎日演目を替えて、それを低料金で提供し、お客様に何度も足を運んでもらって興行を成立させる。

それが旅芝居=大衆演劇、だからだ。

では、純弥の舞台(舞台装置や衣装・道具も含め)が入場料1,500円ということで相応なのだろうか?

そして、敷衍するなら、それは純弥一人の問題ではない。

意欲的な役者たち、特に近年の若手座長たちは、皆、同じジレンマを抱えて舞台に立っているはずだ。

これを変えて行くには、演者、興行を行う「受け元」、そして観客の三者の意識の変換が必要になる。

個人的に言えば、敢えて変換はしなくても良い。

「選択肢を増やして、色んな形の公演が実施できるようになれば良い」と考えるからだ。

演者にも受け元にも、公演形態と入場料金の見直しにはリスクが伴うとの固定観念が根強くある。そして、それは観客の求めることだからだ、という理由づけもはっきりしている。

従来のやり方にも良さはあり、それがあればこそ、旅芝居というジャンルは維持されて来た。

けれども、もはや、その方法一辺倒では「公演のレベルが維持できない」だろうし、純弥のような役者にとって、公演形態と入場料金に合わせる形で舞台に立ち続けろ、と要求することは根本的に間違っている、と私は考える。

例えば、入場料金3,000円、演目は一週間同じ、といったような公演も「選択肢として容認する」ことは出来ないか?

それが興行サイドに携わる者の一人として、積年のテーマだ。

未だ果たせないでいることだが、何とかしなくてはならない。

そうしないことには、大切な才能をあたら疲弊させることになってしまい、ひいては、旅芝居の土壌を痩せさせることになってしまいかねない。

こういう風に書いてくると、恋川純弥はもはや旅芝居ではなく、所謂商業演劇などに道を求めるべきなのではないか?という人もいるかも知れない。

確かに、公演の形態と入場料金を考え合わせると、それもあながち無理筋とは言えないだろう。

しかし、恋川純弥は、どうあっても旅芝居の役者であってほしい。

何処に出ても引けを取ることのない純弥の舞台が、我々旅芝居に生き、また、それを愛する者にとっての誇りだからだ。

私は思う。

舞台がなければ生きていけない、そうであるに違いない役者から、舞台を取り上げないでくれ、と。

そういう役者が、安んじて芸道に邁進できる旅芝居であってくれ、と。

そのために、何が出来るか考え、微力を尽くさなくてはならない。

なぜなら、舞台に己の生きる道を求める恋川純弥こそ、旅芝居のかけがえない宝であるからだ。

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