「大衆演劇の革命児」近江飛龍 文・山根演芸社社長 山根 大

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私は自分の稼業を

 「旅芝居 公演 仲立ち」

 と称している。

 このサイトも「大衆演劇ナビ」というタイトルになっている訳で、一般に知られる呼称もまた「大衆演劇」が一般的なのに、どうしてそのようにするのか?

 些かの拘りがあるからだ。

 私にとって演芸は全て大衆のためのものである。

 貴族がバッハを捕まえて、ナイトキャップ代わりの変奏曲を発注した19世紀なら兎にも角、対価を求めて行う芸術活動はライヴであれ作品であれ、全て大衆のものであるに決まっている。

 歌舞伎もオペラも人形浄瑠璃も、劇映画も商業演劇も小劇場演劇も、等しく大衆のためのものだ。

 かつて、ミステリ小説の大家であるレイモンド・チャンドラーは「簡単な殺人法」というエッセイの中で「哲学も娯楽である」という意味のことを言っている。まさしく卓見と言うべし。

 そもそも、哲学書を読んでいるから知的であるとか、歌舞伎の愛好者だから上品であるとか、オペラを楽しむから高級であるといった雰囲気を、そうしたものを受容する方々御自ら醸し出しておられるようなところこそが何とも大衆的ではないか。

 真に知的であり、また見巧者であり、聴く耳を持った方々はそういうスノビズムの腐ったような姿勢はお持ちでない。彼らの基準はどこにでも適用できるもののはずだ。即ち、一流か、さにあらざるものか。

 ジャンルは関係ないのである。

 然るに、我々は自らを「大衆演劇」と称して得々とし、それを疑問とも思わない。

 そのくせ、既に上位概念としてカテゴライズされたものを「大舞台(おおぶたい)」と呼ぶコンプレックスを隠さない一方「いや、ウデはこっちの方があるから」なんてことを言ったりする。

 …どっちやねん?

 俺たちは、自分の属する世界にもっと誇りを持ちたいよな。

 と、いうようなことを、私は年齢にして一回り下になる一人の役者と話し続けて来たような気がする。

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