近江飛龍 取材後記

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三吉演芸場で夜の部を見終わってから、近くの居酒屋で軽く食事をして、横浜橋商店街を駅に向かって歩いていた。昼間の人通りが、ウソみたいに静かなアーケードのなかのパチンコ屋の前に、小さな人溜まりができていた。行列というほどではないにしろ、年配の男女が数人並んでいる景色が不思議で、相棒のカルダモン康子と「飛龍の出待ちかな?」(出待ちではないのだが)と、冗談を言いながら通り過ぎたそのとき。「おつかれさまです」と後ろから追い抜きざまに声がして、振り返ると近江飛龍と妻の美佳さんが連れ立って歩いていた。

びっくりして直立不動になり、「舞台楽しかったです。明日も行きます!」と、頭を下げた。「ありがとう」と笑顔で去っていくふたりの後ろ姿を見送りながら、「まさかご本人が……。しかも、呼び捨てにしてしまったよ」と、しばし呆然とした。

8月に取材でお会いしているとはいえ、そのときもわれわれはマスクをしていたし、この夜もマスクした顔をストールにうずめたようないでたちだったから、誰かはわからなかったはずだ。おそらく、「飛龍の出待ち」という声を聞いて、われわれが劇場帰りの客とわかって声をかけてくれたのだろう。そう思ったのは後からで、名乗りもせずに重ねて失礼をしてしまった。それくらい驚いたし、いちファンとしては偶然会えて嬉しかった。

たまさか同じ方向に向かう格好になったが、後をつけてるみたいな近さで歩くのは気が引けて、少しゆっくり距離を取るうち、ふたりの後ろ姿はぐんぐん遠くなった。われわれが大通りに出るころには、二車線の中央にある二つ目の信号を、通りの向こうに渡ろうとするシルエットだけが小さく見えた。見るとはなしに見送っていると、ふたりは突然くるりと振り返り、大きく手を振ってくれたのだ。またもやびっくりして、こちらも飛び跳ねながら、ちぎれんばかりに振り返した。

あんなに遠くなっても、わたしたちが後ろ姿を見送っているかもしれないことを気遣って、手を振る近江飛龍に感動していた。人気稼業を走り続けるとはこういうことかと思ったし、それ以前に、大通りの向こうからでも伝わってくるあたたかい手触りこそが、近江飛龍の魅力なのだとあらためて思った。この半年近くの間、17LIVEの画面から受け取り続けていたものの正体に、触れたような気がした。

 そんなことがあった2020年10月24日は、三吉演芸場で公演中の不動倭座長率いる賀美座(よろこびざ)の舞台に、近江飛龍が二日間だけゲスト出演する初日だった。折しも近江飛龍にとっては座長になって28周年目の日でもあり、6年ぶりの関東の舞台という。実は、チーム大衆演劇ナビとしても、ふたり揃って初めて観る近江飛龍の生の舞台とあって、喜び勇んで出かけて行ったのだった。

生の舞台を観るより先に、インタビューをお願いするという、普通なら無謀とも無礼ともいえる手順で取材を進めてきたのは、近江飛龍を本気で見始めたきっかけが、ネットのライブ配信サイト17LIVEだったからだ。春の外出自粛期間中、特に5月に入ってからは毎日のように、昼にも夜にも配信されるライブにどんどんはまりこんだ。その顛末は、「トピックス」で書いたとおりだ(2020年7月16日掲載)。【スマホの画面右上、三本線のところを押すと「トピックス」が出てきます】

いまも配信は二日とあけずに続いており、予告なしに小一時間行うゲリラ配信もあり、スマホの充電に気を抜けない毎日だ。

名前しか知らなかった近江飛龍の17LIVEにそこまでのめり込んだきっかけは、5月に入ってすぐのころ、シュシュ組という17LIVE内の近江飛龍のファンクラブ(グループLINEのような形式)のなかで「ゲロちゃん、ハワイで止められてたね」というような会話がかわされていたことだ。

(ゲロちゃんって誰?)と思い、近江飛龍のインスタグラムを見てみたら、着物を着た丁稚風の少年(?)が写っている。どうやら彼がゲロちゃんらしい。そして「おはようございます! 近江飛龍です。ゲロちゃんから電話がありました。昨日からハワイの税関で止められているみたいです。何でも超大量のシュシュを持ち出そうとして怪しまれているみたいです。彼の帰国をしばらくお待ちください」という飛龍のコメント。

おそらくゲロちゃんは近江飛龍が演じているキャラクターであるらしいが……と、それすら半信半疑のまま、その夜の17LIVEの配信のときに「ゲロちゃん、ハワイに行ってるんですか?」とコメントを書いて送ってみた。すると飛龍が笑いながら「そうやねん。シュシュ組のためにシュシュの買い付けに行ったんやけど」と説明をする。そこにまた別の視聴者から「ゲロちゃん、大丈夫かなあ」とか「すごいなあ、ゲロちゃん8歳なのに(註・そういう設定である)」とか「シュシュ、楽しみー」などとコメントが飛び交って話が広がる。そのころは緊急事態宣言による外出自粛期間中で、現実にはハワイになんて行けないことは誰もが百も承知で、しかもゲロちゃんは近江飛龍が演じる少年であることも大前提で、みんなが架空の物語に乗っかっている。自分もそこに加わりワイワイできたことが、とても楽しかった。リモートなのに、直接会っているわけではないのに、しかもこちらは文字しか送ってないのに、飛龍やそこに集まっている人たちと、しゃべったみたいな気持ちになった。

結局、ゲロちゃんはその後、帰国しようとして飛行機を乗り間違え、フランス、イタリア、オランダを経由して帰国、という物語がインスタのなかの短い動画を通して展開する。それは17LIVEのなかでもしばしば話題になり、ゲロちゃんは帰国してから、17LIVEにリモート出演を果たす。あらかじめ撮影した近江飛龍演じるゲロちゃんのコメント動画をパソコンに写し、17LIVEのカメラを通して見せることで、近江飛龍と共演、しかもコロナだからリモートでね、と手の混んだ演出。そして、ゲロちゃんが買い付けた(設定の)シュシュは、実際にシュシュ組限定のグッズとして販売されるという、虚実ないまぜの仕掛けが繰り広げられる。

さらに、ゲロちゃんがハワイに行った映像を、自宅の倉庫で撮影したときのメイキング映像も配信。近江飛龍は2年近く前から「V-ROG」(ブイログ)という、日常のあれこれを写した日記風の動画もYouTubeで配信しており、外出自粛期間中は、17LIVEとは別にこの「V-ROG」も毎日のように制作しては配信を続けていた。

 Insta、17LIVE、YouTube、それぞれのステージを立体的につなぐかのように、化粧をした表舞台の役者としての顔だけでなく、素顔で現れては、日常という楽屋裏まで視聴者と共有するシナリオをつくり、近江飛龍はSNSのなかを縦横無尽にかけまわる。

夕暮れ時のひとりの部屋で、スマホ片手に大笑いした衝撃を、わたしはこの先も忘れることはないだろう。ひとりなんだけど、ひとりじゃない。SNSを介して、こんな気持ちを味わうことができるとは、思ってもみなかった。

 近江飛龍は、客を笑わせることに命をかけている。17LIVEの視聴者からのコメントを読み上げて笑い、さらにそこから話を広げて笑わせる。雑談のように語る自身の身の上話さえも、すべて笑いに変える。

 小学校6年生のときに亡くなった父親(近江二郎)の葬儀で、お経を読んでいる間に足がしびれた住職が、立ち上がったとたんに倒れて祭壇に突っ込んだ話。カニを食べるのに夢中で舞台なんか観ちゃいない客だらけのセンターで、「あのカニに負けたらあかんで〜」と、母親(近江竜子)にハッパをかけられて舞台に立った話。その母親が、飛龍26歳で亡くなって自分が太夫元(経営者)になり、劇団の経営だけでなく借金も一緒に相続、10年間は月に75万円も返済していた話。次々くりだされるエピソードの数々は、冷静に考えるとなかなかシビアな状況だったはずなのに、すべては笑い話になっている。

「昔はカッコつけてた時期もあったんやけど、そういうのは自分でもなんか違う気がして、やめた。どんなときでも、みんな笑いたいやん」と、笑い話と同じトーンで語る。

 近江飛龍は子どものころ、舞台に立つのが嫌だったとインタビューで語っている(インタビュー第一回掲載)。

物心つくかつかないかのころに、浪速クラブから逃げ出して天王寺動物園にかけ込んだ話は、両親ともに大衆演劇界では名の通った役者だった出自を考えると意外な気もした。しかし当時の浪速クラブは、隣接したドヤ街の男たちであふれかえり、いろんなものをたぎらせた客と役者が殴り合いの喧嘩をしていることも日常茶飯事だったと、これまた配信のなかで笑い話として語ったことと考え合わせると、納得がいくような気もする。舞台に立つことが嫌だったのではなく、当時の自分が置かれた世界に、違和感があったのではないか。

ここでいう「当時」とは、近江飛龍5歳と仮定すれば、1978(昭和53)年。テレビのなかではピンクレディーがヒット曲を次々飛ばし、サザンオールスターズが「勝手にシンドバット」でデビューした年だ。しかし自分を取り巻く世界は、そんな時代の空気とは少しずれている。

テレビの普及で、生活のなかの娯楽が大きく変わっていく渦中にあった60年代、70年代は、いまよりもっと大衆演劇は、前時代的な空気をまとった芸能として存在していただろうと想像する。よくいえば郷愁をたたえた場所として、悪くいえば古臭いものとして。そこに集う屈託を抱えた大人たちをじっと観察しているような子どもだった飛龍が、自分のいまいる場所が、どこか時代から取り残されていて、自分のセンスとしっくりこない、本能的に、そう感じていたとしても不思議ではない。だから飛び出した。自分の居場所は自分でつくるーーそこに、近江飛龍の、近江飛龍たる片鱗が、すでに見え隠れしている。

父親の死をきっかけに、母親とともに劇団に戻り役者になったものの、ミュージシャンに憧れて家出をしたことも、やがて「大衆演劇の革命児(by山根大)」(9月30日掲載)の異名を取ることも、そしていまこうして、SNSの世界を縦横無尽にかけまわっていることも、劇場を飛び出して天王寺動物園にかけ込んだ少年飛龍とどこかつながっている。

本能に忠実に反応する俊敏な心と体を、5歳児のときと変わらないテンションで、近江飛龍はいまも持ち続けている。

 そして同時に、大衆演劇の役者である両親のもとに生まれて、大衆演劇の役者であり続けてきたからこそ、いまの近江飛龍があるのも事実だ。

 前時代的であったがゆえに、大衆演劇は、テレビという新しい文明の利器が切り捨ててしてしまった芸能の役割を、温存し続けることができたともいえる。

 それは、生きる疲れを洗い流す場所としての役割だ。そこに出かけて行きさえすれば、物語に涙して、隣に座った客どうし、声をあげて笑い合い、日頃の憂さを束の間忘れることができる。テレビの画面から流れてくる映像を、一方通行で受信するだけでは生まれない、歓声や笑い声が(ときには怒鳴り声すらも)そこにはあって、役者と観客が一緒になって初めて生まれる目に見えないエネルギーを浴びて、明日も頑張るか、という気持ちになれる。大衆演劇は、ずっとずっと昔から、そうやって人の暮らしをはげまし続けてきた。

 そしてそれは、このコロナ禍の半年間、近江飛龍が17LIVEのなかでやってきたこと、そのものであるように思う。

 近江飛龍のなかには、革命児と呼ばれるアバンギャルドな一面と、ずっと昔の時代を知っているような懐かしい優しさがある。

そのことは、現在47歳の近江飛龍の年齢にしては、両親の生まれ年が古いこととも無関係ではないように思う。父・近江二郎は大正14年生まれ、母・近江竜子は昭和12年生まれ。大衆演劇だけが、生活のなかの唯一の娯楽だった客たちが詰めかけていた劇場で、人生を過ごした世代の役者だ。昭和48年生まれの飛龍のなかには、両親から知らぬまに受け継いだ、そういう時代の情感が染み付いているのではないか。

化粧配信、素顔配信、背景をハワイの海にしてみたりホワイトハウスにしてみたり、頭にかぼちゃのクッションを巻きつけてみたり、ビジュアルの楽しさも手を替え品を替え飽きさせないが、近江飛龍の17LIVEは、スマホの画面が見られない場所にいる人が、イヤホンで音声だけ聞いていたとしても楽しめるように工夫されている。バリトンのいい声も、魅力のひとつだ。

家事の合間に、移動の途中に、職場の片隅で、生活のなかのいろんな場所で、配信を観て聞いているだろう誰ひとりも取りこぼすことなく楽しめるように。きっとそんな風に思っているのではないだろうか。

その優しさは、近江飛龍自身が、多くの視聴者と同じ生活者である自分を、大事にしているからこそ生まれてくるのだと思う。

今回の取材で「普通の生活に憧れない大衆演劇の役者はいない」(インタビュー第10回掲載)と語ったことは、とても印象に残った。ずっと自分の家が欲しいと思っていたと言い、それは「小学校の6年間、母親と過ごした和歌山の家での普通の生活が忘れらなかった」からだと話した。あまりにきっぱりとしたその口調に、旅を続ける役者生活の過酷さをあらためて思ったし、飛龍のなかにある、ひとつ処に根を下ろす暮らしへの憧れの強さが迫ってきて、つと胸を突かれる思いがした。

旅役者の子に生まれながら、子どものころから、いつも自分の居場所を外から見ているような視点を持ち合わせていたのはなぜなのか。想像の域を出ないが、それは母親から受け継いだものかもしれないと思う。

母・近江竜子は九州で隆盛を極めた人気座長・初代鹿島順一の次女にあたる。しかし生まれてすぐ大阪に養子に出され、自分の父親が鹿島順一だと知ったのは8歳のときだったという。終戦直後の混乱期に養父母が行方不明になり、九州の実父の元に戻る。そこから旅役者としての生活が始まる。それまでとあまりに違う生活に、「異次元の空間にまぎれこんだ小動物のように、ビクビクしながら旅芝居の生活にとけこんでいった」という(参考資料:『晴れ姿!旅役者街道』橋本正樹著 現代書館刊)。近江竜子のなかにもあったかもしれない、大衆演劇の外の生活者の視点が、近江飛龍の複眼を生んだのではないか。

勉強も好きだったという飛龍は、父親が亡くなって劇団での生活が始まってから「オレは高校に行きたい、できることなら大学にも行きたい」と言ったことがあるという。そんな息子の言葉に、母・近江竜子は背中を向けたまま「もう遅い」と答えたという。

いろんな偶然や巡り合わせのうえに、たくさんの覚悟が積み重なって、いまの近江飛龍がある。しかし勉強好きで、やりたいことに向かってまっしぐらな性格は、いま存分に発揮されている。17LIVEのなかで、欧米の視聴者には英語で挨拶をかわし、中国からの視聴者が増えたと感じるや、中国語を習い始める。配信用の機材を組み立て更新し、カメラワークや画面構成に工夫を凝らす。

いつも働く背中ばかりを見ていたという母親から「上手い役者ではなく、いい役者になれ」と言われたという(インタビュー第四回掲載)。いい役者とは、お客さんが見たいものを、見たいようにできること。「自分が客になって楽しいものをやったらいい」と。

 気がつけばその言葉通り、近江飛龍はいま、自分が見たい役者・近江飛龍を、自らプロデュースしているのだと話す。

6年前に脳出血で倒れてから、それまでのように一年中旅をしながら舞台を続ける生活をやめて、大阪の堺市にある自宅を拠点に活動を始めた。劇団としての舞台は年に3カ月ほど、それ以外は単発の舞台や、新たに立ち上げた会社の社長業もこなす。

誰も予想していなかった、新型コロナウィルスの蔓延で、人が集うことを止められ劇場が封鎖されたとき、大衆演劇の役者では一番最初に、近江飛龍は17LIVEという新しい場所に飛び込んだ。

 劇場がないなら、新しい場所をつくればいいーー本能的に選んだのかもしれない17LIVEという場所で、近江飛龍は見事に大衆演劇的な場をつくってみせた。すでに、自分自身の「働き方改革」をしていたことを思えば、自然な流れだったのかもしれない。

 そして、この半年ほどSNSをかけめぐっていた近江飛龍はいま、そこで出会った観客を、再開した舞台へといざなっている。17LIVEでファンになって生の舞台を観に来た人たちから「飛龍さん、ほんとにこの世に存在してたんですね〜」と言われると笑う。

 早く生の舞台が観たいとうずうずしていたわたしも、10月13日に、「心斎橋角座ジャック公演」でその念願を果たした。松竹芸能とのコラボ企画で、芝居の演目は「遠山金四郎外伝 ゲロ松おせん」。なんと、あのゲロちゃんが主役の、近江飛龍劇団ではなじみの演目という。

 小さなスマホの画面で出会ったゲロちゃんが、水先案内をして、角座の舞台にまで連れてきてくれた妖精みたいに思えた。等身大で舞台の上をかけまわるゲロ松は、想像以上に大きくて、かわいくて、くだらなくて、たまらなく面白かった。

 そして迎えた、10月24日、横浜・三吉演芸場。本来は賀美座にゲスト出演だった舞台は、「口上」(10月25日掲載)にあるように、不動倭座長が、大恩人であるという津川竜の葬儀に参列するため急遽大阪に行くことになり、近江飛龍が1日座長をつとめた。

 大衆演劇の観劇歴が浅い私は、残念ながら津川竜の舞台を観たことはなかった。そして、実は若き日の津川竜が近江竜子劇団に在籍していた時期があったことも、この日の口上で初めて知った。

 父親の死がきっかけで、何もわからないまま劇団に入ったばかりの12歳の近江飛龍にとって、16歳の津川竜と寝食を共にした日々は、その長さに関わらず、思い出深い時間だったのではないだろうか。大衆演劇界ではガラパゴスと呼ばれて、他劇団とはほとんど交流がないという近江飛龍だけれど、数少ない、仲のいい役者である不動倭の舞台にゲスト出演が決まっていたこの日に、津川竜を送ることになった偶然は、偶然とも思えないような気さえしてくる。

大衆演劇の役者の多くは、10代のころから、一年の350日は舞台に立ち続けている。まして座長として、看板を背負い続ける孤独と苦労は、その立場に立ったものでなければわからない。連綿と続く毎日のようでいて、昨日と同じ今日はない。その日、劇場に来るお客さんにとっても、それは特別な一日だ。楽しかったと言ってもらえるように、それだけを考えて舞台をつとめ続ける。

津川竜の訃報に接し、葬儀には行かず舞台をつとめると言った不動倭に、人との別れは最期に会っておかないと一生悔いが残る、こっちは大丈夫だからと近江飛龍は伝えたという。津川竜にしても、不動倭がお客さんを残して自分の葬儀に参列する心苦しさを、飛龍が引き受けてくれるのならば安心だと思ったことだろう。2020年10月24日の三吉演芸場の舞台を座長不在にしないように、お客さんにとって楽しい一日にできるように、津川竜、不動倭、近江飛龍、三座長の見事な連携プレイだった。

 この日の演目は「お祭り騒動」。町内の祭礼のために集金したお金をめぐる、ドタバタ喜劇だ。われわれの隣に座っていたのは、17LIVEで近江飛龍を知ってファンになったという女性で、ハンドルネームを聞いて「ああ!」と思わず歓声をあげてしまった。知り合いに会ったような気がした。新しいファンも、昔からのファンも、そして賀美座のファンも、劇場中が腹をかかえて大笑いした、楽しい舞台だった。

 翌25日、不動倭は、近江飛龍とかけあい漫才のごとき大爆笑の芝居を繰り広げたあとの口上で、昨日のお礼と報告を述べ「なんかやっぱり、大衆演劇っていいなと思った」としみじみ話し、そして「近江飛龍座長の芝居は優しい」と言った。いまの時代はそんなこともなくなったけれど、昔はつまらないあげ足を取ったり、客席から見ていてもわからないような嫌がらせを、舞台のうえでする先輩役者がたくさんいたという。そんな時代をよく知っているにもかかわらず、飛龍座長には、そういうところがまったくない。何をふっても、こちらがやりやすいように合わせてくれるのだと、話した。

大衆演劇の新しい形を模索しているという近江飛龍は、これからどこへ向かうのか。 

配信のなかでよく、何でも思いつくことが早すぎて、自分が一番最初にやったことを忘れられてしまうのだと笑う。先駆者は気持ちが先にあって、それに合う形を探しつくりあげていく複雑さがあるのに対し、後発になればなるほど、気持ちがなくても、できあがった形をなぞればいいだけだから、わかりやすいのだろう。

近江飛龍が革命児と呼ばれるのは、その発端になる気持ちのアンテナを、常に剥き身で持ち続けていることだ。

気持ちという柔らかいものに蓋をしない優しさと強さが、たくさんの人をはげましている。

(2020年11月24日)

文・佐野由佳

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