第4回 どこまでもおちょんこ

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「あの時分、おとうちゃん達者やったな」

「大阪嫌い物語」で、主人公のおとぼんが、仲直りしたおかあさんとふたりきりで昔を懐かしむ場面。この台詞にいつもじんわり泣かされる。おそらく会場にいる誰もが、亡くなった自分のつれあいや親や子や、懐かしい誰かが元気で、血気さかんだったころのことを思い出すだろう。自分もまた若くて、家もにぎやかだった。ひとりになって、こんなふうに昔を思い出す時間が人生におとずれることなど、若いころには想像もしなかったーー。つかの間、舞台と客席の境が溶けていくような感覚になる。

「大阪嫌い物語」「へちまの花」、ほかにも、「花の六兵衛」「村は祭りで大騒ぎ」「上州土産百両首」など、いわゆる藤山寛美ものの人情喜劇は、一見好太郎の役者としての腕のたしかさを味わえるジャンルのひとつだ。

これらの演目は、大衆演劇ではよく上演され人気が高い。物語そのものがよくできているのだが、しかしこの寛美ものの芝居の難しいところは、主人公が単なる三枚目ではなく、いまなら発達障害と括られてしまうかもしれない青年や少女であることだ。芝居のなかでいうところの「風変わりな」人物の、「風変わりな」演技のさじ加減を間違えると、笑えない。さらに中途半端だと、演じている役者の素が役の人格との間に見え隠れして、分離した水羊羹のようでいただけない。そこを違和感なく役に徹して、しかも面白くかわいらしいという点において、一見好太郎は群を抜いている。誤解を恐れずに言えば、藤山寛美がいないいま、藤山寛美ものを演じて日本一ではないかとさえ思うことがある。

おとぼけだけれど鼻が効く特殊能力を持つ六兵衛が、その鼻のおかげで思わぬ大活躍をするという痛快人情喜劇「花の六兵衛」。

一見好太郎は、これらの芝居を演じるにあたり、最初はDVDを参考にしたという。

「オレね、悪いクセなんだろうけど、見たまんまやっちゃうの。自分の個性がないからダメだと言われたらそれまでなんだけど、なりきりたいの、その人に。なりきりたいっていうのが、すっごい強い。藤山寛美さんがやってる、その人になりたい」

何度も何度も、なりきりたい、と強調した。

たしかに、台詞の言い方、しぐさなど、藤山寛美の演じかたと、一見好太郎のそれはよく似ている。「まんま」といえばそうなのしれないが、形だけなぞっても「その人」として観客には伝わらない。一見好太郎が言う「まんま」は、そのもっと先にあるはずだ。

実際には、自分のなかで役をつくり、毎回、演じながら試行錯誤してみるという。

「たとえば、『へちまの花』のおちょんこが、この言葉にこの言葉を返していいのかなって思うこともある。もっとちんぷんかんぷんな返答をしたほうがいいのかなって。でもそれを急に変えちゃうと、相手がハッとなって間があいちゃうから、極力変えないようにはしてる。たまにやってみるけどね。台詞はそんなに変えられないから、普通の子とはちょっと違う感じを仕草でしてみたり」

おちょんこが、兄やんにきれいなかんざしを挿してもらう場面、いつも迫力満点のおちょんこが満面の笑顔になって、少女らしい一面をみせる。

「そういうところで、子どもっぽさを出したりね。こういうキラキラして花が揺れてるようなのが好きなんだな、かわいいとこあるやんっていうのを見せたい。子どもの心のまんま、大人になったんやなっていう感じ。でも言葉は強気、みたいな」

嫁入りのために上京する場面では、毎回、持っている荷物が違う。風呂敷に包んだ手づくりのぼたもちだけのときもあれば、家財道具一式をデカい唐草模様の風呂敷に包んで背負って出てきたこともあった。

「嫁いで来てるのに、荷物持ってないのはおかしいよね? って思って。あの時代に配達とかないし。だけど、それが揃う劇場もあるし、通れる花道があるかどうかでも違うし。通るのにお客さんの頭にぶつけちゃうと困るし……とか、そのときどきで変えてみたりする」

「大阪嫌い物語」にしろ「へちまの花」にしろ、人情喜劇であると同時に、実は社会派ドラマである。「風変わりな」主人公は、いってみれば世間では落ちこぼれと言われたり、仲間外れにされたり、いじめられたりしてしまいかねない存在である。もっといえば、生まれ持った宿命や、ままならなさを抱えて生きなければならない境遇、そこから抜けられない人生すべての象徴が、おちょんこであり、おとぼんである。

しいたげられ、排除されてしまうのが現実だったとしても、芝居のなかの登場人物は、そんな彼らをちょっとめんどくさいなと思ったり、手を焼かされたりしながらも、決して排除したりしない。むしろ彼らに大切な何かを気づかされ、救われていく。泣いて笑って、人生捨てたもんじゃない、と思わせてくれる。

いじめはよくない、弱い人には優しく接してあげましょうねといった、弱者とそれを取り巻く健常者の、薄っぺらい関係を描いているのではない。いってみれば、誰もがおちょこんでありおとぼんであり、お互いさまでいられることの豊かさ、共同体としてのひとつのユートピアを描く。藤山寛美ものの喜劇が、不朽の名作たるゆえんである。

観客もまた、最初はおとぼけでわがままな三枚目の主人公と、彼にほんろうされる周りの人たちのやりとりを笑っているのだが、そのうち主人公のまっすぐさや一生懸命さに、ひきこまれていく。

おやえと結婚させてくれという要求をつきつけるために、俥引きになって親兄弟を困らせる「大阪嫌い物語」のおとぼんは、気がつくと、自分の要求はあとまわしにして、腹違いの姉や乳母が立場上、自分からは言い出せない要求を母に呑ませ、兄の望みも叶えられるよう叔父に談判する。「世間体ばかり気にして、頑張って勉強しているお兄さんのやりたいことをやらせてあげないおじさんは嫌い、この家も嫌い、船場も嫌い、大阪も嫌いや」といって泣くおとぼん。自分のことはすっかり忘れて、兄のために必死になって訴える。そこに損得勘定はいっさいない。

しかも、このおとぼんさんは、おとぼけでわがままなだけではなく、まわりの人や状況への観察眼が実は誰よりもするどい。ものごとの本質を見抜く目を持っている。

「おとぼんさんはしっかりしてはります」としきりと感心する、出入りの大工・大八に「いやいやそんなことはありません。人は自分と似ているものを見ているときは、気がつかないものなんですよ」とさらりと返す。つまり、自分が世間にどう見られているかも、ちゃんとわかっている。

ともすると薬臭い正論になりそうな、しごくまっとうな台詞が深い共感をもって伝わってくるのは、まっすぐすぎるストレートなもの言いの裏側に、幼いころから幾重にも折りたたんできた複雑な内面があるからだ。

そのことに説得力を持たせるためには、小手先の表現など通用しない。一見好太郎は最初にDVDでこの芝居を観たときから、本能的にそのことを感じ取ったはずだ。「観たまんま」を演じなければ伝わらないとは、そういうことだろう。それを「観たまんま」以上に再現できるカンのよさが、一見好太郎の腕のよさだ。

おとぼんはどこまでもおとぼんでなければ、おちょんこはどこまでもおちょんこでなければならない。役者の素が入る隙間は、一瞬でもあってはならない。だからこそ、一見好太郎おとぼんが放つ台詞は、痛いほど胸に刺さってくる。そして知らない間に、観客もその物語のなかで好太郎おとぼんに救われて、一緒に泣いて笑っている。

藤山寛美ものの喜劇だけでなく、お笑いを演じるときこそ、当人は大まじめでなければならないと一見好太郎はいう。

「三枚目が自分の台詞に笑っちゃったりしたら絶対ダメでしょ。笑わせるよっていうところを出しちゃったら、お客さんは笑わないから。三枚目なのに真剣にやってて、真顔だから面白い」

役になりきりたいのは、その物語の世界を崩したくないからだ。だから、観客のノリに合わせて、芝居を変えることも極力しないという。

「楽しい芝居だと特に、お客さんがのってきたな、もっとここで笑かそうかなとか思う気持ちはなくはないけど、それをやったら、よけいな台詞が増えてくでしょ。結局、何がやりたかったのか?ってなる。それはイヤだから。芝居のなかで、締めるところは締めなきゃいけない。自分ではその役になりきってるから、その場の空気で芝居を変えることはない」

役になりきっている一見好太郎の外側には、おそらく、そんな自分をさまざまな邪念や外敵からガードしているもうひとりの一見好太郎がいるのだろう。だから、役として思う存分、物語のなかを生きることができる。

昨年(2021年)10月7日に、劇団の太夫元であり母親である紅葉子が亡くなった。その2日後の、最初の週末に上演したのは、「へちまの花」だった。これまで何百回と演じてきただろう芝居だけれど、この日の「へちまの花」は特別だったはずだ。楽しいことが大好きだったおかあちゃんへの、はなむけだったに違いない。その日も、舞台の上にはいつものおちょんこが立っていて、一見好太郎はどこまでもおちょんこだった。だからよけいに、胸がいっぱいになった。

第5回へ続く!

(2022年2月9日・18日 立川けやき座)

取材・文 佐野由佳

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