岡山後楽座には開場前から小さな行列ができていた。
劇場の扉の前で出迎えるのは、カジュアルなスーツ姿の里見要次郎総座長(里見劇団進明座)である。


「遠くからありがとうね」
ひとりひとりと握手を交わす。
着物にカツラをつけた役者のこしらえではない総座長を見て「あら、珍しい」と声をかけるファンの一群に、
「僕、今日、休みだから」とニコニコ冗談を言う。
「えーーー⁉︎」
「ウソウソ」
「やだー、もー、要ちゃん出ないんだったら帰るわ!」と、半分本気で怒り出しそうな勢いである。到着するなり、ジャケットの裾に祝儀袋をピンで留めているファンの姿も。
「まだ始まってないよ」と総座長もタジタジの笑顔。
「このところ介護、介護で。今日だけは空けてきた」
など、みんなこの日を楽しみに駆けつけているウキウキした雰囲気が、劇場のロビーから外の広場にまで溢れ出していた。



昔からのファンも多いが、「大阪で観てめっちゃおもしろくてドハマりして。岡山まできちゃった」
という新しいファンも。関西はもちろん、広島や関東からも駆けつける。
「古い人は30年、40年、応援してくれてます」
最高齢は、御歳105歳の女性ファン。おひとりでタクシーに乗って劇場まで来られたという。
「ご自分の足で歩いてきてくださるんですよ。素晴らしいでしょう?」
元気の秘訣は、もちろん「要ちゃん」だ。



さん嬉しいだろうと考えて、お米にしました」と、さすがの心
配り。口上挨拶で「三合入ってます。二号さんは2人います、
お米は三合入ってます!」。
毎年4月17日は、里見要次郎が主催して後楽座の周年記念公演が開かれる。毎年のことだから、この日だけはと一年前から予定を立てて、詰めかけるファンも少なくない。年間、舞台に立つ日数が限られている里見要次郎に、この日ならば確実に会うことができるからだ。そう、舞台を観に行くことは、すなわち「要ちゃんに会いに行く」ことだ。

岡山後楽座は元は映画館だった場所で、使われなくなっていたのを里見要次郎がオーナーとなって改装、2011年に大衆演劇専用の劇場としてリニューアルオープンした。開館して今年で14年になる。開場から10年間は毎年座長大会を開催していたという。

た。てっぺんの看板も、自ら屋上にのぼって付けたという。



この日は、1カ月後楽座で舞台をつとめる劇団昴星(座長大和みずほ)に、里見劇団進明座から里見要次郎総座長、里見祐貴副座長、里見ひかり花形がゲスト出演という形で記念公演を開催。舞台の口上挨拶で里見要次郎いわく「なんとか14年、やってまいりました。東日本大震災の年でございました。3月のオープン予定を、4月にずらしまして、あれから14年。この劇場、手づくりでつくらせていただきました。椅子から、壁から、天井から、僕がつくりました。トイレもつくりました。提灯は提灯やさんがつくりました」

したり。

。

り反映されたカレンダーがかかる。


、日本赤十字社への寄付などを行っている。そうした社会貢献
への取り組みや活動報告もロビーで。

念公演」。「日にちはまだ決まってませんが、8月21日、どう
ぞよろしく」。
冗談ではなく、手弁当、手づくりの劇場なのだという。
「映像も残してますけど、ここもうほんとにボロボロで。天井も全部落ちてて。そこを僕らが直して、椅子をつけて、エアコンつけて、3階に上がる階段もつくって。今日、舞台で使った三段だけの階段、あれもつくったんですよ」
工業高校出身の経歴が、ここでも生きているという。
「僕が行ったのは機械科ですけどね」


名残りのショーウィンドウに常設展示。なんだかファッショナ
ブル。飾ることで、作業着は衣裳となり、施工もまたイベント
になる。劇場をつくるところから舞台は始まっているという、
ライブ感が伝わる。
里見要次郎は、これまでにも劇場を何軒かつくり、自身の会社で運営してきた。
「大阪では3軒、ちっちゃいですけど、九条笑楽座、此花演劇館、瓢箪山劇場、もうひとつ増える予定です。ここ(後楽座)がちゃんとした劇場で、せめて最低限のものが揃った劇場をつくったんですよ。今日は使いませんでしたけど、すっぽんもあります」



仕込んであり、色が変わる仕掛け。
岡山にはもともと、大衆演劇を観られる温泉センターがピークの時期には6、7軒あったという。しかし、徐々に減り、劇場としては岡山千日劇場が2007年に閉鎖。さびしい状態が続いていた。
「岡山にももう一度、ちゃんと大衆演劇のお芝居が観られる劇場があるといいなということで、いろいろ模索しながら、3年かけてここをつくりました」



日本三名園のひとつに数えられる、岡山後楽園にちなんで後楽座と命名。路面電車が走る駅前の大通りから、気持ちのよい緑道公園を抜けた先の繁華街のなかに後楽座はある。駅からは少し歩くが、裏には銭湯、その先には酒屋と居酒屋という、ある意味好立地。しかし、駅からのアクセスも含めて、もっと誰もが足を運びやすい環境を整えたいという。



2.4km続く緑道公園。花と緑、光と水の街にというスローガン
のもと、昭和49年から57年にかけて市が整備した。
里見要次郎は、後楽座のオーナーになってから、岡山西ライオンズクラブの会長をつとめたり、商工会や地区連合会など地元の商店主や事業主との交流も深めている。この日も、劇場の前を通りかかった商店主仲間に「あれ、今日はどうしたの?」と声をかけられ、しばし世間話。ブログなどで、岡山でのライオンズクラブの例会や年次総会のことで忙しい様子が時々綴られており、それがどうにも役者里見要次郎と結び付かなかったのだが、実はそれもまた、劇場オーナーとして大衆演劇の延長にある活動のひとつであるらしい。大衆演劇を盛り立てたい、イメージアップをはかりたいという思いから、舞台に立つだけでなく各地に劇場をつくってきた。「あっちこっちに劇場ができて、楽しんでもらえたら」という。そして、劇場をつくるだけでなく、永く愛される場所として続けていくためには、大衆演劇の外にいる人たちを巻き込み、街を巻き込む仕組みづくりもまた、大事な仕事なのだ。






里見要次郎は、いま、里見劇団進明座総座長であり、関西大衆演劇親交会会長であり、岡山後楽座オーナーであり、自身が経営する会社社長であり、少し前まで岡山西ライオンズクラブ会長でもあった。長がつく肩書きをたくさん持っていて、舞台に会議に東奔西走している。里見要次郎が実は何人もいるのではないかと思うほどの、マルチタレントぶりである。
しかし一番すごいと思うのは、その長のつく肩書きのどれもが、里見要次郎の肩に乗っかるとウサンくさく見えるところである。ほめているように聞こえないかもしれないが、思い切りほめている。どこか浮世を茶にする風情が里見要次郎にはあって、そのことが還暦を過ぎてもなお、役者里見要次郎を古びさせない魅力になっている。万難を排して、要ちゃんに会いたいと思わせる。
以前、大衆演劇を見始めて間もないころ、(主役の役者の名前を忘れてしまったのだが)襲名周年記念公演で、名だたる会長・座長ばかりがゲストに集まった舞台を観た。全員が黒紋付の羽織袴に短髪黒髪のカツラで居並ぶなか、里見要次郎はひとり黒紋付の羽織袴にワンレンソバージュのカツラをかぶって舞台に並んでいた。笑ってはいけない厳粛な空気が流れるなか、そのソバージュのカツラをさりげなく触っている里見要次郎に、笑いをこらえるのに必死になった思い出だけが強烈に残っている。
もちろん、目立ちたいがための悪ふざけではない。主役である座長と打ち合わせ済みのパフォーマンスだろうが、里見要次郎だから、記念公演の口上でふざけた格好をして、その異物感で笑わすことができるのだ。
大衆演劇の舞台であればこそ、まじめなことを、まじめにやってしまうことの恥ずかしさやつまらなさを、里見要次郎は知っている。そのセンスを持ち込んで、寝ている客の前に突きつけたことが、里見要次郎最大の功績なのではないか。
かつて両親に、「自分の好きなようにやる」と宣言して役者の道に戻ってきた10代の青年は、果たして還暦を過ぎたいまも、その心意気を貫いている。里見要次郎の舞台が、多くのファンだけでなく、後輩世代の役者からも支持を得てきたのは、その心意気への共感と羨望なのではないだろうか。


おしまい
(2025年4月17日 岡山後楽座)
取材・文 佐野由佳