瞳マチ子第1回 母・紅葉子を語る

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劇団の母である紅葉子太夫元の一周忌の追善興行ともいえる、関西公演が佳境を迎える一見劇団。両座長のインタビュー連載に続き、座員である子や孫へのインタビューを通して、紅葉子追悼企画を続ける。戦前生まれの太夫元が、女手ひとつで育てた劇団に残したものは何だったのか。しばしおつきあいください。

大衆演劇を観ていると、大家族であることのわずらわしさと、心強さについてよく考える。家族を基本にしている劇団という組織は、家父長制や徒弟制度があった時代の「家」とよく似ている。

一見劇団の、いってみれば家長だった紅葉子太夫元が82歳で亡くなったと聞いたとき、最期まで大家族のなかで暮らした生涯を、少しうらやましく思った。子、孫、ひ孫、四世代総勢20人近くに囲まれた暮らしなど、現代の日本の日常には、もはやほぼありえない。しかも、紅葉子にとって生活の場は仕事の場である。同世代の高齢者がひとりぽつんと日がな一日テレビの前に座っているか、デイサービスに通ったりしている間、紅葉子は舞台の袖から座長や座員である息子や娘たちにゲキを飛ばし続けた。最期まで、劇団という「家」の真ん中に居場所があった。

大衆演劇の魅力のひとつは、いまはもうない「家」の、大家族であることの心強さみたいなものを、つかの間、感じることにあるのかもしれない。現実には、大家族であることはわずらわしく、不自由なことのほうが多いのかもしれない。しかし、そのわずらわしさと引き換えに手に入れた自由もまた、苦しいことに変わりはないことに、多くの人は気づいている。その自由と孤独の苦しさにため息をつきながら、しばし現実を忘れるために劇場に足を運ぶのかもしれない。

追悼公演では、似顔絵を描いた背景幕の前で舞踊ショー。

一見劇団の女優であり、紅葉子の娘である瞳マチ子は、今年、還暦を迎える。8人兄弟の上から三番目。劇団のなかでは長女であり、劇団座長一見好太郎、古都乃竜也にとっては歳の離れた姉である。ここしばらくは舞台の第一線からは退いて、裏方として劇団に関わってきたが、紅葉子亡きあと再び舞台に復帰して、その怪演ぶりは劇団ファンの度肝を抜いている。

いまでも、母がいなくなったことは信じられない、似顔絵を描いたタペストリーを見ても、まだ元気でいそうな気がするという。

「朝起きたら、仏壇はもちろんですけど、開場の30分くらい前に舞台の脇にかけてあるタペストリーの前に行って、今日もお客さん入りますように、おかあちゃん見ててね、ってひとりごと言って。亡くなった気がしないんですよね」

そして、いまほど兄弟が多いことを感謝したことはないという。

「どういうのかな、みんなが寂しくないように、おかあさんがこんなに兄弟を残してくれたのかなって。昔は、喧嘩してもわたしのせいじゃないのに、わたしが怒られるみたいなことがよくあって。姉だから。兄弟多いのヤダなぁと思ったこともあるけど、いざおかあさんがいなくなっちゃったら、みんなが支えてくれる、助けてくれる。ありがたいですよ」

紅葉子太夫元が亡くなってから、舞台の脇に設けられている祭壇。

「兄弟のなかでは、おかあさんと一番長くいられたのはわたしだと思います。結婚しましたけど、お婿さんもらったから外には出てないし、59年の人生うち、おかあさんと離れたのは3年くらいしかないんじゃないですか。あとはずっと一緒にいたから。寝るところも、ご飯も、お風呂も。コロナになる前はパチンコも一緒に行ったし。おかあさん、ボート(競艇)も好きだったけど、わたしはボートはわからないから、一緒に行ったのはもっぱらパチンコ。おかあさんは欲がないから出るんですよね、座った台が。いくら負けてても、最後は勝って帰るんです。玉は現金に換えてた。わたしは欲が強いから出ないんですよ」

パチンコは、無言の仲直りのきっかけでもあったという。

「何十年も一緒にいたから、おかあさんの気性はわかるんですよね。まず、怒り出すとものを言わなくなる。他の人としゃべっててもわたしとは口をきかない。なんか怒ってるんだろうなって、たとえ勘違いからそうなってたとしても、説明なんかしてもしょうがないから、最後はもう『おかあちゃん、パチンコ行かない?』って言うと『ああ、ああ』言いながらパチンコ一緒に行って。そうすると本人は楽しいから。付いてくほうは大変なこともありますけどね。座ったとたんに水買ってこいや、トイレどこや〜って。初めて行くところは、あちこち台を変わるからいなくなっちゃうんですよね。一生懸命探して、『おかあちゃん、ご飯食べた?』『食べてない』『食べ行くか?』『うん』って、いつの間にか口きくようになって。みんなが仕事しているさなかに申し訳ないけど、2人でパチンコ行ってるときが多かったです。おかあちゃんと一緒だったら、誰も文句言わない」

紅葉子は、太夫元としては珍しく、劇場の入り口などに姿を見せることが多かった。暑い日には、自ら飲み物プレゼントなどでお出迎え。

家長の力は絶大である。そして、外の人に対しても、母を隠れ蓑(みの)にしていたところがあるという。

「正直言って、道を歩いていてお客さんにばったり会ったりしても、おかあさんが挨拶してくれればいい、知らない顔しててもいいやって思ってました。でもいまはね、自分から率先して挨拶しないと、って思ってます」

かつて一見劇団の受付で、ひっそり静かにもぎりをしていた瞳マチ子は、いま威勢のいい挨拶で客を迎えている。小さな体からは意外なほどに張りのあるその声に、役者の血が感じられる。

瞳マチ子は、もの心つくかつかないかのころから、子役として舞台に立った。舞台のあれこれを教えたのは、父・初代人見多佳雄である。

「亡くなった父からからよく言われてたんです。踊りから入ると芝居ができなくなる。芝居で頑張れば、芝居の台詞どおり、踊りも理解して踊れるようになるから、まず芝居を覚えろと。それはほんとにそうだと思う。踊りだけできればいいと思ってたら、芝居は絶対できるようにならない。ただ、わたしは芝居は好きだけど、踊りはイマイチ好きになれないんですよね」

普段は温厚な父は、舞台に関しては厳しかったという。

「三吉演芸場って昔はお風呂屋さんの上にあって、煙突があったでしょう。昔、『白浪五人男』のあの長い台詞を覚えるのに、みんなはカンニングペーパーを傘に仕込んでるのに、お前は覚えろって父が言うんですよ。どうやって覚えようかなあと思ってたら、ここに登ったらすぐ覚えられるからって。煙突を指差すわけですよ。登ったのはいいけど、梯子をもってかれちゃって。朝上がって、夜の部しかなかったから、3時ころにまた父が来て、覚えたか? ハイ、って言って。言ってみろっていうから、屋根の上で弁天小僧菊之助の台詞を言ったんですけど、ひとつかんだら、もう一回やり直しって」

好き嫌いを考えるひまはなかった。次々覚えることに必死だった。本当のことをいえば、いまも舞台はそんなに得意ではないという。

「でも、次にこれをやってと言われれば、一生懸命やる。まじめに自分なりに稽古もします。わたしはおかあさんから、家のことも何も教わらなかったから。舞台しかできることがないんです。いまはね、台詞はお風呂で覚える。サウナで。動きはやらないけど、台詞だけね。覚えるまで出ないと決めて必死で覚える。おとうさんに言われて心がけてることは、舞台であがったり台詞につまったりしたらイヤだから、言えない言葉は何度でも練習します。舞台に出るときは絶対に人に飲まれないように。人という字を三度書いて飲み込んで、手を合わせて舞台に出ます。いまでもやります。でも緊張はします。出るだんびに緊張する」という。

「父は、なんでもできる役者でした。みんなが褒めてたのは侍もの。大岡越前みたいな、形がきっちりしたのは多佳雄ちゃんの右に出るものはいないって。青年座長って言われてましたね。若々しかったんじゃないですか。よくおかあさんと親子に間違われて、おかあさん、いつも怒ってた。おとうさんの母親役で舞台に出ることが多かったからね。お風呂なんかに行くと『今日、息子さんとのお芝居、よかったです』って(笑)。舞台を降りたら父はほんとに優しい人で、学校の行事なんかでも全部、おとうさんが来てくれました。入学式、卒業式、参観日も。おかあさんが外に出るのが嫌いな人だったから。ハチマキ巻いてなきゃいられない人だから。おかあさんが来てくれるほうが恥ずかしかったな。忘れもしない、小学校四年生のときに遠足が雨で流れて、自分が寝坊してるからお弁当届けてあげるって。下駄はいて学校まで来て、『すいませーん、村田マチ子(本名)の教室はどこですかー?』って、廊下中に響くような声で。すごいんだから」

最晩年まで、白いハチマキがトレードマークだった母・紅葉子。

豪快なおかあちゃんと、優しいおとうちゃん。にぎやかな家族の景色が変わったのは、瞳マチ子が22歳のとき。父が42歳の若さで急逝した。

「弟たちはまだ小さくて、小学校にもあがってない、兄弟ゲンカするような年ごろでしたから」

珍しくノーハチマキなおかあちゃん。

瞳マチ子からすれば、「男の子にはものすごく甘かった」という母のことを、一見好太郎はインタビューのなかで「若いころのおかちゃんは、めちゃくちゃこわかった」と話した。

「ほんっとこわかった。機嫌悪いときは、遠ざかってたもん。お湯が入ったままのポット、投げるからね。ビッシャーってもうお湯がぴゅーって。タバコも、火ついたまま投げてた。いつごろまでかなあ。オレが20代後半からはもう全然ないけど。孫たちが何人か増えてきたくらいからかなあ、ちょっと丸くなりすぎじゃない? みたいな。おれたちにはすんごい厳しかったから」

一見好太郎座長に何やら指示出しする紅葉子太夫元。

おそらく一見好太郎が見ていたのは、夫を亡くし、自らが太夫元として劇団を率い始めた時代の母だ。紅葉子は、夫を亡くし、二人三脚で切り盛りしてきた劇団の座長を失い、自らが家長となり、劇団の太夫元となって、命がけで劇団を、家族を守っていかなければと、文字通りハチマキを締め直したはずだ。おかあちゃんだけではいられない、ときにはおとうちゃんにもならなければと思ったはずだ。

瞳マチ子の回想のなかでは、弟たちが喧嘩をしそうになると、「おかあちゃんが、おりゃーーーって全力で止めてた。喧嘩は絶対に許さなかったから。わたしたちが子どものころなんて、女同士でつかみあいの喧嘩して、引っかき傷ができようとなにしようと知らん顔だったのに」

という。

子どもたちが成長していくなかで、紅葉子もまた、家長としてのふるまいを身につけて、必死で太夫元になろうとして、そしてなってきたのだろう。

「お母さんはすごい広い心で、絶対にみんなを見落とすことのない人だった。みんなに目配りしてたし、自分のところに入ってきた人は絶対何があってもかばってやる人だったから、どんなに間違った人でも。どんなに間違った人であっても助けてやる、親分肌の人だった。わたしもね、何度も救われました。若い頃、劇団から逃げたこともあったんです。そのたんびにお母さんが、そういうことしたらダメだからって、こっそり迎えに来てくれてたんですよね。1日経つと自分では帰れなくなるじゃないですか。それを察してお母さんが来てくれるんですよ。20代ですね、結婚してからのことです。夫婦でもめて、劇団に迷惑かけたりしても、私を怒っても旦那さんのことは怒らなかったから。お前が悪いからこういう喧嘩が始まるんだって。娘をかばうことはなかった」

それはすごいことだと思うと前置きしながら、しかしちょっと冷静になって考えると、

「親なんだから、自分の味方になってくれてもいいのにって、大いに思ってましたけどね」

最後、ちゃんとオチをつけてくれるあたり、笑いを大事にした母ゆずりだ。

第2回へ続く!

(2022年2月14日立川けやき座・3月12日川越湯遊ランド)

取材・文 佐野由佳

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