どんな役でもドンと来いの、いまの役者ぶりからは意外だが、笑川美佳は、昔は舞台に出ることが苦手だったという。父・浪花三之介が率いる浪花劇団が、行く先々の劇場をいっぱいにしてお客さんを沸かせていた、1980年代のことだ。
「劇団で生活してたわけでもなくて、普通に家から学校に通う生活してました。土曜日にお父さんが出てる劇場行って、日曜日に家に帰るっていう感じ。中学まではそうでした。子役で出てたんですけど、ある程度の年齢になって、めだか(従姉妹の浪花めだか)に子役が移っていって。なんかこう、子ども心に舞台に立って、大きい大人が刀ふりまわしてるのがすごく怖くて。怖いし、出たら怒られるし、いやでいやで仕方なかった。女の子やし、父もそこまで期待してなかったんちゃうんかと。兄は、20代前半まで役者やってたんですけど、僕には合わへんって、結局、継がなかったです。劇団の生活はスピードが速いから。お兄ちゃん、案外おっとりしたタイプなんで。父も、いっぺんやって自分に合わへんいうんやったら仕方ないと思ってたとおもいます。『二人のブルース』(前回参照)を上演した日に、兄が劇場に来てたんですよ。遠目に見ると、客席の奥の暗がりで顔半分ライトが当たってる姿が父にそっくりでした」
「わたしは兄と比べて、甘やかされてたんではないかと周りから聞きます。そんな風にはちっとも思わないんですけど。父は芝居に対しては、子どもだからって容赦しない感じでしたからね。ちゃんとできなかったら舞台から袖に入ったとたん、叩かれたりとか、怒られたりとか、ありましたね。いまだったら幼児虐待やろって言われそうですけど、でも、それがあったからいまがあるんかなっていうのはあります。芸能の世界なんで、厳しいことは当たり前でした」
しかし本当は、厳しいばかりの父ではなかった。
「小学1年か2年のころですね。熊本に『ひのくにランド』っていう、 健康センターがあって、子役を使わないといけないっていう仕事で、そのときだけ、熊本の方の学校に行ったんですけどね。学校ごとに進めてる勉強ってバラバラじゃないですか。その熊本の学校は、水泳にすごく力を入れてたみたいで。水泳の授業が毎日あったんですよ。でも、わたしはちっちゃいころにプールに行ったこともないし、 泳いだこともない。幼稚園にも行ってないので、もう顔に水をつけるのも怖い状態で。初めてのプールですよ。それを心配した父が、学校のプールの柵越しに毎日、私を見に来てたと。あとから聞きました」
毎日の公演の隙間を縫って、小学校の金網越しに密かに娘を見守る父の姿。切ないほどの親心が伝わってくるではないか。
「いまやったら通報されちゃいそうですけどね(笑)」
母もまた、役者だった。
「月隆子という役者で、市川おもちゃ劇団にいました。父と結婚してからは、舞台に女優が足りなくなったら出る。父は楽屋に女房がちょろちょろするな、子どもがちょろちょろするなっていうタイプの亭主関白。そういう世代ですよね。だから母は、裏のことは、お客さんに見えないように、隠れて隠れてやってました。ごはんつくったり、着物を着せたりして、終わったらスッと帰って。母はたぶん、わたしには普通の一般の人と結婚してほしかったと思うし、役者になってほしいとも思ってなかったと思います」
それでも役者になったのは、劇団の人手が足りなくなったから、というのが大きなきっかけだったという。
「ちょうど父たちが、関東の公演――篠原と木馬と立川と、回ったときなんですけど。女優がいなくなって、ちょっとお前来てくれって言われて仕方なしに。専門学校に行ってたときかな。わたし、美容師の専門学校に行ったんですけど、その途中で舞台に出ることになって。2、3カ月休むとぜんぜん追いつけなくて、学校は途中でやめました。女優さんもおったり、おらんかったりしてて。長い間、お父さんの相手役をやっていた明石秀雄さんという女優さんがなかなかの腕の方で。新川劇団さんの太夫元さんのお姉さんです。めだかも私もその方を目標にやってました。ところが急に劇団を退団するっていうことになりまして。その方の役が全部、私に来たんです。そのときに、父にちょっと聞いていいかって言ったら、聞いたらいかんって。なんでそんな過酷なって思ったんですけど、 聞いたらいかん、自分の肌で感じて覚えなさいって。手取り足取り教えられるとコピーになってしまうと。役をするにあたって、大衆演劇の役者さんじゃなくても、映画俳優さんでも、この役柄はどの役者さんが似合うかなっていうのを1回思い出せって言われました。たとえばこの役やったら、樹木希林さんやなとか、そういう風に思ったら、その人の雰囲気を想像して、その役に入りなさい。理想的な役者さんを思い描けと。生の舞台なんだから、DVDじゃないんやから、コピーじゃないんやから、ということを言いたかったんやと思います」
長い目で見たときに、ちゃんと身につくことを教えてくれたといまになれば思えるが、当時は素直に受け止められず、心のなかでいつも反発していたという。
「もう、わたしはこの人の子どもじゃないんじゃないかと思ってましたから、厳しすぎて。それくらい厳しかった。でも、なんかこう、結婚してこっち(近江飛龍劇団)に嫁いで離れてみると、どうやったかな、こういうふうに言うてたな、こういうふうにしてたなっていうのを思い出しますし、言ってたことがわかることがいっぱいありました」
「いま、台本のある芝居も多いですけど、台本どおりいかんでいいと。本のとおりやれ言うてんのとちゃう。相手がこういうふうに持ってきたら、向こうが返しやすいように返す。理屈じゃなくて、身体で覚えなさい。教えたとおりにしようと思わなくていいと。そういうことを教えたかったんですね。台本があると勉強にならないでしょう。いや、台本もいいんですけど、そこから入ってしまうと、結果、若い子が育たない。舞台で怒られたり、ヘタ打ったりして、どういうふうにやったらできるのか考えて、それでみんなちょっとずつ大きなっていくんじゃないかなあ。それを全部、台本通り、段取り、段取りってやってしまうと、DVD見てるのと同じ。それはちょっと違う。同じ芝居でも、違う人がやれば全部違うわけで。お父さんが昔、芝居がもう終わるっていうころに、時間がだいぶん余っちゃったことがあって。そこで死んだらあかんのに、いきなりわたしが持ってた刀をバーッて取って、お腹突いて死んだんです。なんで?! なんでここで死のうとすんの?! って思うたんですけど、そこからずーっとお父さんが長台詞言うて、もたせたんです。それは、台本を忠実に再現する舞台やったらできない。それだけ役者の引き出しがあるということで。圧巻、でした。カッコいい~~って思って。終わってから、なんで死ぬん?!って、言いましたけど(笑)。そしたら時間あったやろ。お前が時間もたせへんから、俺が死ななあかんねん!って」
そんな笑川美佳にも、20代で劇団を飛び出した過去があるという。
「22か23のころ、劇団からおらんようになって。浪花劇団から。逃げました。役者がいやで、もうおりたくなかった。はい、ドロンです。やめたいっていうのを母親に話したら、引き留められるのもわかってたし、その引き留められんのもいやで」
半年ほど、福井の方へ旅に出た。ひとりではなかった。
「ふたりで(笑)」
青春の逃避行とでも言おうか。しかし一緒に逃げた相手とは破局。半年経って、戻ってきた。
「親には、下げんでもいい頭を下げさしたんやろうなって。いい恥をかかせてしまもうたなといまは思いますけど、当時は、とりあえず逃げたかった」
そんな青春時代を経てもなお、役者を辞めずに続けてきたのはなぜなのか? 今日に至っている理由について聞いてみると、意外な答えが返ってきた。
「おもしろくなったのは飛龍座長と結婚してからです。結婚して、いろんな役もらって、なんかおもしろいなと思うようになりました」
運命の出会いはいかにして訪れたのか。
次回へ続く!
(2024年7月15日)
取材・文 佐野由佳