第1回 兄貴には逆らうな

2420

剣戟はる駒座の弟座長津川祀武憙は、1995年生まれ。昨年の6月30日で「28歳になりました」という。高音なのにハスキーという独特な声、おそらく子どものころから変わらないだろう陽気な気配と、年齢不詳な落ち着き。初見で読める人はたぶんひとりもいないからこそ、一度見たら忘れない祀武憙(しぶき)という名前同様、クセの強い顔立ち。そして、人なつこい笑顔。2019年、兄に続いて座長になって今年(2024年)で5年目を迎える。

今回のインタビューは、剣戟はる駒座が横浜の三吉演芸場で公演中、昼の部に向けて準備が始まろうかという午前中にお願いした。朝のシンとした空気が少しずつ動き始める時間帯だ。家族との居室が化粧前でもあり楽屋も兼ねていて手狭だからと、「ここでもいいですか?」と用意してくれた場所は、舞台袖に置いてある畳敷きの「二重」の上。芝居でよく、親分の家の座敷になっている一段高い台のことだ。大事な大道具の上で、小道具の座布団をすすめられ、恐縮しながらインタビューがスタートする。しばらくすると、少し眠そうな目をこすりながら、子どもたちが入れ替わり立ち代わり、なんとなく様子をうかがいに来る。

生後7カ月の次男・津川八大くんと口上挨拶。すでに子役として芝居でも活躍。

剣戟はる駒座は、劇団全体で総勢20人ほどというメンバーのうち、子役が7人。兄である津川鵣汀座長の子どもたちが3人、祀武憙座長の子どもたちが4人。最年少は、生後まだ1歳に満たない祀武憙座長の次男・津川八大(えいと)。劇団の長老は、大衆演劇界の長(おさ)とも言える勝龍治で、御歳81という、四世代に渡るなんとも頼もしい人口分布の劇団なのだ。母は、勝の娘である晃大洋(こうだいはるか)、父は、勝の弟・二代目小泉のぼるを師と仰いだ津川竜(2020年逝去)。津川祀武憙もまた、生まれたときから役者の大人とその子どもたちに囲まれて育った。

「自分が子どもやったときは、子どもがキライやったんですよ」

真面目な顔で言うのでつい笑ってしまった。

「子どもって、寝癖で髪の毛ピッとはねてたりするでしょ?

あれがキライやったんですよね。だらしないわー、って思ってて(笑)。自分が小学校低学年くらいから、子どもが好きになりました。お弟子さんどうしが結婚されて、お子さんが産まれて、劇団に子どもが増えてきてからですね。大人が舞台に出てる最中に、めんどうみてや、っておかんに言われたりとかで。最初はイヤイヤでしたけど、みてるうちにかわいいなーとか思うようになったんじゃないですかね。だから自分の子が生まれたときも、最初の子のときからおむつも普通に替えられましたし、服も着せられました」

いまでも十分若い祀武憙座長だが、若いころから、結婚したら子どもは4人か5人ほしいと思っていたという。念願かなって、現在、2男2女の父親となった。いつもにぎやかななかで暮らしてきたからか、ひとりで居るのは苦手という。

「基本的に、ひとり飯とか嫌いです。もの言わんでええけど、同じ空間に誰かいてほしいんです」

自分の子どもたちがみな、いま舞台に立っているように、津川祀武憙も物心ついたころには舞台に立っていた。剣戟はる駒座は、父・津川竜が27歳のときに、母・晃大洋と1997年に旗揚げした劇団で、当時、4歳の津川鵣汀、2歳の津川祀武憙、総勢4人で始まったという。一番古い記憶は3歳のときだ。

「その前から出てたんでしょうけど、3歳くらいからしか正直、覚えてないんですよ。踊りの記憶です。踊りを習ったのは、最初はたぶん、おとうさん、おかあさんからでしょうね。先生についたのは、小学校2年か3年のとき。古典の先生に初めて習いました。きっかけですか? 親に、先生についてお稽古やるか? って聞かれて。うちはほんま厳しかったんで、やるか?って聞かれて、やるって言ったら、その授業料を自分で払わなあかんのですよ」

小学校2年生で?

「そうです、そうです。舞台でいただいたご祝儀で、自分で払いなさいと。携帯電話もそやったんですよ。ほしいって言ったら、ぜんぜん持たしてあげるし、どんな機種選んでもええけど、携帯代自分で払えよって。親父から言い渡される。それは自分の欲やからって。めっちゃ厳しかったんですよ、その部分に関しては。親父はめっちゃやさしくて、めっちゃいい人やったんですけど、お金に関してというか、子どもといえど自分の欲に関しては、自分で責任取れというか。自立心を叩き込まれたというか。親父自身が厳しい幼少期を生きてきたからやと思うんですけど、18になったら絶対、家を出なあかんっていう感じやったし。兄貴が18のときに、僕も一緒に隣のマンションに移動して、家、出ましたから。家賃はふたりで払えと。はんぶんこずつ。そういうのは小さいころから言われました」

舞台に関する衣装やカツラも同様だったという。

「多少、(おさがりを)おろしてくれましたけど、新しいのほしいって言ったら、自分で買えばええやんみたいな。だから大事に長持ちさせるのも扱い悪くするのも、全部自分の責任やからっていう感じやったんですよ。もちろん、こんな扱い方しちゃダメよとか、それはちゃんと教えてくれます。晩年になってからですよ、自分の着物やカツラをくれたり、使わせてくれるようになったのは。変な話、病気になってからです。それまでは、この役をするから、それにぴったりやから、このカツラ貸してくれって言っても、イヤやって。絶対、貸してくれなかったです。ほんまに。だから、おかあさんが、うちは三人兄弟みたいやってよく言ってたんですよ。パパは三人兄弟の長男やからって」

たとえ息子であっても着物やカツラは貸さない父の気持ちは、いまはわかりますか? と聞いてみると、

「いや、僕はめっちゃかぶられてるんで(笑)。子どもとか奥さん(晃永樹里杏)に。僕はめっちゃ貸すんですよ。注文して、できてきた次の日くらいの僕のカツラを、世羅(せいら・長女7歳)とかがかぶってるんで」

そこは気にならないですか?

「ぜんぜん。反動なのか、親父ほどにはね。その血は兄貴が受け継いでます。人に貸さないですね。貸してもかなりシブります。ただ、僕と兄貴はね、頭のデカさがそもそも違うんですよ。僕はめちゃめちゃ大きくて、兄貴が小さいんで。そもそも兄貴のカツラは僕はかぶれない。かぶれたら貸してくれるのか? 着物も、兄貴の着物は僕が着ると袖が短くなっちゃうんで、それは僕もイヤやしってなるんで、立証できてないんですけど。食べるものに関しても、ひと口ちょうだい、が兄貴は絶対イヤなんですよ。僕はシェア、ぜんぜん大丈夫です。親父は食べるものに関してはどうだったかなあ」

いま舞台に燃えているという長女・津川世羅と。

崖からわが子を、ちゃんと突き落としていた父・津川竜は、兄と弟のこともきっちり区別していたという。

「とにかく親父からは、兄貴は兄貴やから、兄貴には逆らうなって言われてました。たぶん、親父は兄弟がおらんかったから、絵に描いたような兄弟のありかたを思い描いてたのかもしれないですね。だから、もし目の前で長男、次男が溺れていたらどちらを助けますか? みたいな、昔、究極の選択がはやったじゃないですか。親父は、迷わず兄貴って即答してましたから(笑)。お前とお兄ちゃんだったら、過ごした年数が違うって言ってました、ほんまに」

あんまりな答えのようにも聞こえるが、それを目の前で言えるのが、祀武憙という次男坊だったのだろう。自力で這い上がってくるたくましさを、ちゃんと身につけられるように育てている自負もあっただろう。

そして実際、いまも津川祀武憙は舞台の口上などで、兄・津川鵣汀によくいじられて、というかやり込められているが、どんなにやり込められても、基本、逆らわず、ほどよいところでかわして笑いにしている。

「逆らったらマジギレしますもん、あの人、マジで怒るから。めんどくさいじゃないですか(笑)。ほんまに兄弟喧嘩になるから。向こうが百言って、僕が2、3発返すぶんにはいいんですよ。向こうも笑とってくれるんですけど。それがほんまに返しだすと、兄弟喧嘩みたいになってくるから。それでうちのおかあさん、お客さんに怒られたことがあるんですよ。もうだいぶ前ですけど、僕がちょっといつもより多めに返したときに、兄貴が機嫌をそこねはって。わかるんですね、ファンの方に。おかあさんにメール届いて、兄弟喧嘩は見たくないです、って(笑)。別に兄弟喧嘩じゃないんですけどね、すぐ怒るんで」

「ひと口ちょうだい」は絶対イヤ、な兄貴と。

そんな負けん気の強い兄のことを、弟は「まさに、ザ・兄貴」と評する。

「ほんまに。ザ・兄貴、ザ・長男やと思います。自分が絶対一番みたいな。それが良くも悪くも、芸に出ていてええと思いますよ。僕にはないとこです。僕、癖でポッと引いちゃうとこがあるんで。最近あかんな思って前に出るようにしてますけど。兄貴は昔から、生まれながらの座長さんというか、アーティストというかね。だから、繊細なとこがあるし、すぐ怒るし、みたいな。そういうとこはあるんですけど、ほんま自分中心を貫き通しますから」

一歩引きがちな次男坊はしかし、10代のころ、前に出たくても出られない劇団の状況に、このままでは埋没してしまうと焦った時期があるという。

次回へ続く!

(2023年11月26日 三吉演芸場)

取材・文 佐野由佳

関連記事