第2回 こんな太った座長はおらん

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今年、芸道60周年という里見要次郎は、1963(昭和38)年8月6日、広島に生まれて育った。ものの本に出身地は福岡県と書かれていることも多いが、「劇団のルーツは九州ですけど、僕自身は広島です」という。父は初代里見要次郎、母は美富士啓子。歌手・里見要次郎の大ヒット曲「つれ舞い人生」のモデルになった母である。

生後10 日目。母・美富士啓子に抱かれて。
1996 年に役者生活15 周年記念で刊行した写真集「里見要次郎の全て
芝居人生春夏秋冬」より(以下同)。資料提供=里見劇団進明座
1 歳。すでにしてアイドルの片鱗。

すでにして総座長の貫禄。

さらに遡れば、劇団(里見劇団進明座)の創設は1916(大正5)年、父方の祖父の代に行き当たる。

「正確にいうと、本当のお祖父さんのお兄さん、大叔父さんが劇団創設者です。そこに父親が、子どもの頃に事情があってもらわれてるので。その大叔父というか祖父が、浪曲師だったんです。桃中軒雲右衛門という浪曲界の大師匠がいて、そこの二番弟子の、桃中軒雲童がお祖父ちゃん。当時、浪曲ってすごいブームだったそうです。鹿児島で女歌舞伎をやってた劇団と合同公演をして、お祖父ちゃんとその座長さんが仲良くなってつくったのが、うちの劇団です。その当時は、進明会といってたらしいんですけど。60人ぐらいいたんじゃないかな。昔は、劇団って50人、60人が当たり前でしたから。当時は、たくさん九州に劇団があって。川筋という言葉、ご存知ですか? 福岡の遠賀川(おんががわ)の川筋ね。川筋もんっていうのは気が荒い。その川筋にはたくさん芝居小屋があって、いまみたいに1カ月公演ではなくて、5日公演であちこち移動して。そんなことをしながら、九州をずっと回ってたというのがうちの劇団のルーツ。親に聞いてもよく知らないというので、調べてわかったことですけどね。劇団の創設から数えれば、今年で108年目。初代座長は山村桃艶(ももいろ)・山村桃太郎。親父は桃之井里見という名で14歳で座長になって、1960(昭和35)年に初代里見要次郎に改名してるんです。その後、母が座長だった時代もあったりして、僕で17人目の座長かな? そりゃ108年ですから、座長もいっぱいいます」

父であり師匠である、初代里見要次郎。

「創立当時の劇団が上演してたのは節劇(ふしげき)、すなわち浪曲劇です。歌舞伎の義太夫みたいに舞台袖で演奏しながら、それに合わせて芝居をする。うちの劇団は、親父の代までこの節劇を舞台でやってました。お祖父ちゃんが生きてたころに、僕も子役で出たことがあります。演奏に合わせて役者は動かないといけないから大変なんですよ。人形浄瑠璃を人形じゃなくて人間がやるみたいなもんです。役者は語らず、語りながら弾く演奏に合わせて動いて演じる。大衆演劇でもかつてはよくやったらしいですけど、いまはやらないですからね。僕が唯一、節劇の最後の子役なんじゃないかな」

きょうだいは、姉ふたりの末っ子長男。長姉は役者の舞
智香。のちに黒潮次郎の妻に。次姉(写真中央)は現在、劇場の切り盛りなど、力
を合わせ弟を支える。写真左は座員の娘さん。最近まで役者として、「永
く劇団に力を貸してくれました」という。

舞踊ショーのルーツは、もしかしたら節劇なのだろうか。音源を流して踊る現在のスタイルになる前は、生バンド時代があったというのはよく聞くが、実はその前段があって、それが節劇かもしれないと勝手な想像をしてみる。

いまでも三波春夫が歌う「大利根無情」に合わせて、平手酒造と妙心が踊ったり、「俵星玄蕃」を演じながら踊るなどは、舞踊でありながら歌に合わせた芝居の要素もある。節劇の名残を感じるではないか。

3 歳。昭和30 年代生まれの子どもの大定番「シェー」。体幹ができあ
がっている。ちょうどこのころ、忙しい両親に代わって面倒を見てく
れていた、劇団の「おたまばあちゃん」が亡くなる。かなしみにくれ
ていた要次郎少年に向かって母が「ばあちゃんやなくて、じいちゃん
やったんやけどな。ほんまは」とひとこと。子ども心にとてもびっく
りしたことを覚えているという。

里見要次郎はヒット曲をたくさん持っている歌手でもあるが、楽器も得意とする。歌や演奏という芸を、父親である初代里見要次郎から教えられたのかと思いきや。

「僕は教わったことはないんです。お三味線もギターも、最初は弾けなかったんですけど、やらないと親父に怒られるから。めちゃめちゃ怖かったんですよ。ギターもドラムもキーボードも、ベースも自分で練習して弾けるようになりました。すごいんですよ、うちの親父。テレビつけて、ギター弾いてる人を見ながら、『俺があいつを殴ったら、ピュッと赤い血が出るだろ? お前も赤い血が出るんだから、あいつと同じや。あいつがギター弾けるんやったら、同じお前もギターを弾け』っていう考えだから。小学生のときですよ。ええ―――!どうしよって、『あなたも弾き語り』っていう教本を500円で買ってきて、ボロボロのギターで音合わせながら、なんとか弾けるようになりました。三味線も習ったことないけど、ずっとカセットテープ聞きながら、あ、これかこれかって押さえるところ覚えて、弾けるようになりました。カラオケがない時代で、生バンドだったので。弾けないと話にならなかったんです」

独学で楽器をマスターするなんて、すごいですねと感心していると「こいつは習っても弾けないんですから」と流れ弾をくらったのは、インタビュー中、そばにいた弟子の里見ひかり花形である。カラオケが普通になったいまでも、劇団では生バンドで演奏することがあるという。

5 歳。父と。

とっかん小僧・豆タンクの名で、初舞台は2歳半。しかし子役時代はそんなに永くはなかったという。

「小学校に入るころには、舞台にはほとんど出てなかったですね」

それはご両親の方針ですか?と聞くと、まさかの意外な答えが返ってきた。

「いや、僕がデカかったからでしょ」

というのだ。

5 歳。母と。

10 歳。ラクダと。

「大人と変わらないぐらいの大きさありましたから。小学校3年の時にはもう100キロ近くあったんです。親父が相撲やれ、相撲やれって、巡業中の高砂一門の相撲部屋に連れて行かれて弟子にさせられたりとか」

ええっ? 相撲部屋ですか!?

「逃げ出しましたけど、相撲は。だからいまでも、お相撲さんと仲いいんですよ。その当時から知ってるから。断髪式にも行ってます。千代の富士、いまの八角理事長(北勝海)、貴乃花、栃東……5、6人行ったかな。断髪式のあとのパーティーで踊るんです。栃東関のときは、北の富士親方が、村田英雄さんの『男の土俵』を踊ってくれというので、聞いたことしかなかったですけど踊りました。千代の富士関の国民栄誉賞の受賞パーティーでも、全日空ホテルで2万人の前で踊りましたね、女形で。テレビ局が追っかけてきてたんで、映像残ってるんですけど。僕なんかはしがらみがないから重宝がられるんですけど、大衆演劇の諸先輩からは、お前はいったい何をやってるんだと小言を言われました」

まさか相撲部屋に行かされたことがあったとは、予想もしなかったエピソードだが、その体験を今日まで人脈という形でつないでいるところに、里見要次郎の人間力が感じられる。

「里見要次郎 芸道 60 周年記念公演」で玉ノ井親方(元大関栃東)
からお祝いのお花。(2025 年3 月21 日 明石ほんまち三白館)

吉本新喜劇の役者とも、若い頃からのつながりでいまでも親交がある。

「16歳ぐらいの時に、親父の関係で吉本系列の事務所にいたんです。それで、吉本新喜劇に出さしてもらった時期があって。朝日放送の『花の駐在さん』とかね。平参平の息子役で出たりしてました。横山やすしきよしさんの司会でやってた『モーレツ!!しごき教室』とか。やっさんも子供ときから知ってるんで。だからいまでも吉本の人と仲いいです。一緒に旅行に行ったりする。そういう付き合いはありますね」

大の阪神ファンでもあり、阪神の選手との交流もある。役者生活15周年を記念して、30歳のときに発売した写真集「里見要次郎のすべて 芝居人生春夏秋冬」では、江夏豊、山田スミ子(吉本新喜劇を代表する女優)との鼎談を収録している。

子役時代以来、離れていた家業の劇団に戻ったのは18歳のとき。父の名を継いで二代目里見要次郎となり、座長を襲名した。母親から3年間、二十歳になるまで劇団に戻ってほしいと言われたことがきっかけだったというが、そこからが大変だった。

「もう無茶でしょ。親父がこんな太った座長はおらんっていうから、マックス132キロあった体重を3年で57キロに落としたんですよ。めっちゃくちゃ痩せましたよ。どうやって? それはもう、力石徹の世界。一日りんご一個で我慢して」

三年越しの努力が実り、写真集「二代目 里見要次郎」(1984 年祥文
社刊)を発売した頃(以下、同)。「この写真、評判良かったんですよ」。
資料提供=里見劇団進明座

座長をつとめながら、3年間は師匠となった父の鞄持ちをやった。

「僕はそんなわけで役者の子ではありましたけど、楽屋で育った幕内の子ではなかったので、世間の方を先に知ってしまった。戻ってみたら、役者ってこんなに厳しいの? っていう。親父だからって同じ部屋には入れない。いいぞって言われるまで外で待ってるとかね。衣装からカツラから、言われる前に渡せるように全部揃えて用意しておくとか。針仕事も全部やりました。当時はそれが当たり前でしたから。僕はいま、弟子にはそうしろとは言いません。はい、もうフレンドリーですよ(笑)」

1984 年発売の写真集表紙。大胆なレイアウトがむしろ新鮮。
里見要次郎は、15 周年、30 周年にも写真集を発売している。

3年という約束だったが、結局そのまま劇団を継いだ。21歳のとき、父親が亡くなったことも大きかったという。

「父親が亡くなって、同時に10何人いた座員がみんなバタバタ辞めていってしまう。父親の代わりを色々やってくれるかと思ったら、もうお前みたいな若造についていけないって。ああ、人間ってそうなんやと。そこで僕は、クソっと思って、残った座員は6、7人しかいなかったんですけど、頑張ろうって。頑張りました」

当時(1980年代)の大衆演劇界は、ひとまわり上の世代が座長として沸かせていた時代だった。

「僕より上で一番若かったのは、新川博之さんかな。次が森川長二郎(梅沢秀峰)さん、初代恋川純さん。僕よりだいぶ上の世代でバリバリの座長だったのが、関西では浪花三之介、美里英二、大日方満、このお三方で。あと樋口次郎、先代の沢村千代丸。すっごいお客さん入るんだなと思いましたもん。よし、絶対追い越してみせるぞ、って。頑張りました」

世代交代の引導を渡した存在にもなった。80年代、90年代の里見要次郎の快進撃は次回から!

 (インタビュー 2025年4月17日 岡山後楽座)

取材・文 佐野由佳

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