一見劇団の若手リーダーという肩書きを持つ美苑隆太は、現在37歳。劇団の芝居には、なくてはならないバイプレイヤーとして活躍する。劇団座長一見好太郎、古都乃竜也にとっては甥にあたり、昨年(2022年)10月に亡くなった紅葉子太夫元の孫たちのなかでは、一番の年長者である。母は劇団女優の瞳マチ子。そして劇団唯一の子役、ベビーひなかの父親でもある。
「みんなは太夫元のことを、おばあちゃまのちゃまから取って、ちゃーちゃんって呼ぶんですけど、僕は子どものころからずっと、『おかあちゃん』って呼んで、なにかあれば頼ってました。母親のことは『マッちゃん』とか呼んでます。お客さんの前とかだったらおかんって言ってますけど、はい。太夫元は母親代わりに、僕を育ててくれたんです」
「だからすごく、うん、まだ、さびしい。うちの娘もずっと太夫元のそばにいたから、なんかの瞬間に『おかあちゃん』って。ひなかにとっては、ひーばーちゃんなんですけどね。これは太夫元から教えてもらったことなんですけど、亡くなった人のことを思い出してさびしいと思ったら、その人が後ろ髪引かれるから、そんなこと思っちゃいけないって。でもね、後ろ髪引くなって怒られてもいい、会いたい気持ちは、うん、まだ、消えないですね」
「太夫元がいないぶん、座長たちががんばってるので、座長の足を引っ張らないように。支えてるとか大げさなことは言えないんで、足を引っ張らないようについていくしかないです。太夫元に対しては、僕、イエスマンだったんですよ。おかあちゃん好きやったし、誤解されて怒られても、自分が悪くないと思ってても、すいませんって謝る。御年召されてるんで、なるべくやったらあんまり怒らせないように、悩ませないように、って考えてたんで。いま考えると、もっとぶつかっていけばよかった。もっと怒られとけばよかったなと。なんでも、はいはい答えてしまうんで。うちのおかんにも僕、怒ってましたからね。親子ゲンカしたりするから、80過ぎた人に苦労をかけてどうする、やめてくれっちゅうて。いまでも信じられないですね。絶対に復活すると思ってました」
美苑隆太は淡々と話す。けれど、本当は人一倍強い感受性と、強い屈託を内側に秘めているように感じられる。淡々と語る人生は、静かに波乱万丈だ。
生まれたころ、劇団は父が座長をつとめていたという。
「初舞台は2歳です。全然、覚えてないですけど、気がついたら舞台に立ってました。親が主役をやってましたから。だけど、父親とがっちり一緒に舞台に立った記憶はほとんどないです。父親が現役のときは、僕は斬られ役専門。立ち回りも苦手だったから、音響入っておきなさいとかそんな感じだった。長男、次男で比べられるんですよ。こっちは才能ないけど、金之介(弟の紅金之介)は才能ある、っていう区別をしてたように感じてました。親といたくなくて、12歳くらいから劇団のなかの男の子の部屋で寝起きしてたので、家族でいたという記憶があんまりないです。僕が14くらいだったかな、母親と離婚して父親は劇団を去っていきました。それでも、そのころまでは自分としても好きで舞台をやってたと思うんですけど、心にも甘えがあったんでしょうね。役者として、スタイルとか気にしてなかったんですよ。そしたら太りまして、体重重すぎて体も壊して。20歳くらいのときに椎間板ヘルニアの手術しました。当時、120キロあったんです。いま65キロくらいと思います。だから正直、舞台に出たくない時期もありました」
気持ちがうつむいていった時期に、もう一度、舞台をがんばってみようと思わせてくれる役に出会う。
「芝居のことは父から教わりました、とか言えばきれいにまとまるんでしょうけど、点数稼ぐわけじゃなくて、最初に芝居を教えてくれたのは、古都乃座長かもしれないですね。役者って、役がないとしょげてくるもので、そんなときにポンと役をつけてくれたのが、当時花形だった古都乃座長だったんですよ。僕が18くらいのときかな? 『遊侠三代』の政吉という役です。諸先輩がいっぱいいたのに。篠原演芸場で。そこからですね、細かいしぐさとか、役について考えて演じるようになったのは。最後、政吉が傘持って出てくるところとか、細かく教えてもらって。あそこが、政吉の一番いいところだからと。そこからちょこちょこ、芝居で役がついて、大きい役じゃないですけど、清水次郎長で小政の役をやらせてもらったり。それまでは、ほんとに、毎日斬られ役でした」
美苑隆太は老け役も多い。
「老けはねえ、24歳くらいかなあ。初の老けをした芝居が『雪の渡り鳥』で、親父の五兵衛の役です。前から決まってたわけじゃなくて、開演30分前にやることに決まったんです。この芝居は、僕がヘルニアの手術で入院してたころに、大門力也兄さんに立てていただいたというのは聞いてました。台本稽古で、僕は下田港でケンカする色男の岩門の多治郎の役をもらって、台詞を習ってたんですよ。五兵衛は南條明さん。ところが、南條さんが台本の文字がこますぎて(細かすぎて)めまいがしちゃったって、本番前に舞台に出られなくなって。でももう、演目貼り出してるし、舞台もつくってると。どうしようかっていうことになって、岩門の多治郎と五兵衛って、会わないじゃないですか。つまり舞台に同時に出ないから、それで、僕が五兵衛もやることになった。それが初の老け役です。最初はもう、全然、筋しか追えなかったですよ」
いまや美苑隆太は「喧嘩屋五郎兵衛」の八百屋藤助、「明治一代女」の箱屋巳之吉といった、重要な脇役を担う。あるときから、「明治一代女」の箱屋の台詞を少し変えてみたという。たしかに、それまでより、芝居の筋がよりはっきり見えるようになったと感じたことがある。演じているうちに疑問に思うところがあり、原作を読んでみたという。
「うちの芝居では、箱屋がなんであそこまでお梅にしてあげるのか、しつこく自分の田舎に一緒に帰ってくれと言うのかっていうのが、いまひとつわかりづらいと思ったんですよ。そこの物語がないから。原作には、箱屋のお梅に対する恋心とか、自分の身の上のこととか、どんな思いをして金を工面したかがちゃんと描かれてる。お梅だって、二千円つくってくれたら、お前さんと一緒になるみたいなことをはっきり言うんですよね。それは本心じゃないんだけれども。決して箱屋の早合点や思い込みだけで、あんな刃傷沙汰になったわけではなくて。あのままじゃ箱屋さん、ちょっとかわいそうだなと思って。自分の解釈で、巳之吉の身の上のこととか、藤枝に帰ったら芸者にだまされてるんじゃないかと言われたこととか、台詞に入れたんです。こまごまと全部言うてしまうと、一見劇団の『明治一代女』がずれると思うんで、流れは変えない程度にです。これも大門兄さんに立ててもらったお芝居なので、壊したらいけないし。お梅をやってる好太郎座長には、今日、少しやり方を変えるからと、ちょちょっとだけ言いますけど、決まったことをピシッとする人なんで、お芝居の邪魔にならないように。お梅の気持ちをどう解釈して演じているかを、座長に確認したりはしません。ほかの芝居でもそうです。座長がこちらに対して、こうしてほしい、ああやってくれと言われることはあっても、座長に対して、問答みたいなことは絶対にしないです」
美苑隆太が箱屋の台詞を変えた最初の大阪公演のとき、一見好太郎が珍しく、「今日の箱屋はよかった」と芝居のあとの口上で褒めた。観ていても、大いにそれは感じることができた。ケンケンガクガク、芝居の解釈について議論を戦わせたり、変えた台詞で事前に稽古をやり直すわけでもない。各自の裁量の範囲で考え演じるなかで、目に見えない相乗効果が幾重にもなっていく。演出家を持たない大衆演劇のおもしろさのひとつだ。
美苑隆太が好きな芝居のひとつに、「三浦屋孫次郎」がある。
「『三浦屋孫次郎』は、子どもの頃からの憧れもあったし、いつかやりたいっていう夢もあった芝居です。やり始めたのいつやろ。いうても5、6年前ですね。僕がやりたくて上演するようになりました。太夫元に『お前が持ってきた芝居だから、人にさせるんじゃなくて自分で演じなさい』って言ってもらった。だからこれは、大事にしたいお芝居のひとつです。最初にこの芝居を観たときに、義理と人情の板挟みで陰腹突いて死んでいく孫次郎が切なくて、ああいいなって。演じてみたいなって。そっからですね。あとはもう自分で脚色して、いろいろと変えちゃってますけど」
この芝居には、陰腹を突いてから孫次郎がひとりで長い台詞をしゃべる場面がある。
「腹突いてからも、ある程度、お客さんに聞こえやすく台詞は言います。腹突いて、苦しいのわかってる。苦しくて言葉が出ないのはわかってるけど、お客さんには聞いてもらいたい。ある程度、リアルなところもないといけないけど、いわゆる大衆演劇的な強弱をつけてます。ある役者さんに、この芝居は最後にぐわっとくるから、強弱をつけてしゃべらないと、一人の長い台詞だから舞台が暗く沈んでいっちゃうよとアドバイスをいただいて。初回のときは、僕もそういうトーンだったかもしれないです。どうやったら、お客さんの気持ちを途切れさせないで、ノンストップで見てくれるだろうっていう考えでやってます。これがいいのか悪いのかわからないですけど。たどりつくのに2年くらいかかったのかな」
一見劇団では、座長の一見好太郎が孫次郎を演じることもあり、その場合はまた違った演出になっている。長い台詞は30分近くに及ぶこともあるが、美苑隆太は15分ほどにおさめている。そして、その長い台詞のクライマックスともいえる場面、自分が死んだら誰も身寄りのいなくなる幼い妹の行く末を案じて、自ら手にかけたことを告白するくだりがある。西方浄土に行けるように、西を向いて手を合わせろという孫次郎、そのとき妹がつぶやく「西ってどっち?」という台詞を、一見好太郎は自分の語りで聞かせる。美苑隆太は、回想シーンのように、幼い女の子の声を陰の声として流して聞かせる。
この違いについて、以前、一見好太郎は「そこは絶対、自分で言いたい。自分自身でお客さんを泣かせたい。こんな感情で言いましたよ、西ってどっち? 西も東もわからない頭の弱い妹、この手で首しめて殺しましたって。そんな気持ちで殺したのかって、お客さんも息詰まるし、こっちの感情も表せる」と言った。一方、美苑隆太は「自分がしゃべるよりも、陰の声を入れるほうが僕自身が泣けてくる。そのほうが伝わるのかなって思う」という。
どちらがいいか悪いかではなく、同じ演目を、同じ劇団で、違う味わいで観ることができるのは、観客にとってはぜいたくな楽しみだ。力のある役者が揃っていればこそといえる。
この幼い妹の声が流れる場面、実生活で子どもが生まれてから、美苑隆太自身が泣けるようになったのだという。
「初めは泣けなかったんですよ。何度かやるうちになんですけど、子どもができてから、変わってきました。涙が出るんですよ。僕、芝居で泣くのは苦手なんです。でも、自然と涙が出てくる。やっぱり、この5年間の変化です。それまではもう、ただやってるだけでしたから。子どもが生まれたときね、うれしさで涙が出てきたんですよ」
ベビーひなかは、ただいま5歳。ここぞという演目のときには、子役として舞台に立ってきた。3年前に妻とは離婚。男手ひとつで……ではなく、大事な一粒種は、劇団総出で育てている。
「僕のことはおとうさんって呼ぶんですけど、最初に覚えたのは、ジイジとバアバ。ジイジは好太郎座長で、バアバはうちのおかんです。まだハイハイもできないころに、好太郎座長の化粧前の横に寝かせといたんで、泣いたら好太郎座長がよしよししよるから。ジイジは覚えるの早かったですね。なんでやねんっていう(笑)。休みの日とか、ア太郎や銀乃嬢や妹たちが、ひなかを遊びに連れてってくれたり、助けてもらってます」
「僕、自分が結婚するとも思ってなかったし。結婚してひなかが生まれて、離婚して、この子のためにちゃんと生きなきゃって思うようになったんですよ。性格的にもね、なんていうかな、明るくなったし丸くなったかな。前ならカッときてたようなことも、そうだよね、って言えるようになりましたから。そもそも、こんなインタビューでしゃべれる性格じゃなかったんですよ。暗くて。正直まだ、精一杯ですけど(笑)」
基本はひとりでいるのが好きだ。だからもう再婚することはないが、元気で役者を続けて、娘を育てていきたいという。
「10代のころ、僕、なんにもできなかったんですよ。役者が楽しくなったのが、23、24歳くらいからで、いまはこれしかないと思う。心で感じてます。これでなんとか娘を育てていくしかない。娘を役者にしたいか、ですか? うん、したいといえばしたいかな。いまカツラをつくるのも、ゆくゆくは娘がかぶれるように、とかって考えます。13、14歳で役者として芝居に出るんだったら、それまでにある程度の用意はしてあげたいなと思って。でもまあ、小学校に行って、中学校に行って、どう心が変わるかはわからんから」
若手リーダーという呼び方は、紅葉子太夫元による。いつのころからか、そう呼ばれるようになった。正式に看板などにも書くようになったのは、5年前、古都乃竜也が16年つとめた花形から、二枚看板で座長になったときから。このとき、若い世代から新たな花形が3人誕生した。
「最初は、舞踊ショーで僕が踊るときに、太夫元が若手リーダーって言ってたんですよ。で、5年前に新体制になるときに、僕は若手花形には入ってないから、まあそもそも、花形って20代のもんやし、僕はそのときもう30代だし子ども生まれてたし。そのまんま、自分は変わらないんだなーと思ってたら、あとから聞いたら、若手リーダーって若手花形をまとめる役だったと。勉強になります(笑)。お披露目の公演で、口上の場にも引っ張り出されて、どうしていいかわからなかったですよ」
7年ほど前、一見劇団の舞台を見始めたころ、美苑隆太はいつも、どこかおびえたような目をしていて、観ているこちらが不安になった。けれど、観るたびに芝居のなかで存在感を増し、コミカルなおばあさんから憎らしい親分まで、幅広く座長の相手役をつとめるようになった。そして、特別な日の舞台の司会進行など、マイクを握っても頼もしく、まさにリーダー、なのだ。
それでも、いまでもときどき、美苑隆太の目はおびえることがある。役から一瞬、心が離れて、遠いどこかを見ているような瞬間がある。それはどこから来るのだろうか。なんにもできなかったという10代のころの不安が、頭をもちあげるのだろうか。けれども、娘が誕生した瞬間に、うれしくて泣くことを思い出したみたいに、これから先の美苑隆太の人生に起こる「まさか」な出来事が、おびえた心をまた少しずつ、変えていくのかもしれないと思う。
(2022年2月18日立川けやき座)
取材・文 佐野由佳