舞台の上で誰よりはじける、いまの一見好太郎からは意外な気がするが、舞台を好きになったのは偶然みたいなきっかけだったという。「小さいころは3人でいっつも遊びに行ってた。当時は舞台に全然興味がなかったから」
3人とは、すぐ上の兄・太紅友希(たいこうともき)と、現在、二枚看板で座長をつとめる弟の古都乃竜也。「本人がやりたくないのに舞台に出すな。お客さんに失礼だから」というのが父・初代人見多佳雄の方針だった。だから父が亡くなったあとも、劇団を引き継いだ母や兄弟たちと一緒に旅を続けながらも、好太郎少年が初舞台を踏んだのは意外に遅い。物心つく前に亡くなった父の舞台も、ほとんど記憶にないという。
「たまたまね、友希兄ちゃんが照明かけてて、横で見てたの。そのときに、当時の座長さんにむちゃくちゃお花がついた。この人につくなら、オレにもつくなって思って(笑)」
そんな動機で、舞台に興味を持った。一曲の舞踊をみっちり1カ月猛特訓。12歳のとき、三吉演芸場で初舞台を踏んだ。「頭のなかが真っ白になった」という。
兄と弟も、このとき一緒にデビュー。月太郎(友希)、雪太郎(好太郎)、花太郎(竜也)の芸名で舞台に立った。
「でもやってみたら、すごい楽しかった。こんな楽しいことがあるかって思った(笑)。芝居に出て、斬られて袖に入っても、楽屋に戻って化粧落とすとかってしないで、袖からずーっと舞台観てた」
一見好太郎は8人兄弟の7番目。当時、すでに上の姉や兄たちは役者として舞台に立っていた。
「三女のまちこねえ(瞳マチ子)のだんなさんの二代目さん(二代目人見多佳雄 故・みやま昇吾)が座長やってて、長男の中村光伸、四女の花岡希匠(長月喜京)、花岡さんのだんなさん(故・紅蝶二)、まちこねえ、もうひとり上のお姉ちゃんがいて。6人で固められたら、オレなんて出る幕ないよね。だいたい月にやる演目って、ほぼほぼ一緒だから、観てれば動きもわかるし、台詞も頭に入る。だんだん、役やりたい、役やりたいって、火がついて。それが14歳くらいかな。15歳のときに、初めてついたのが、『天竜しぶき笠』の天竜丸の正太郎っていう役。斬られて死ぬ役を、初めて二代目さんにつけてもらった。殺されるんだけど台詞を言う役で、『この役やれば、敵(かたき)役のときにも活きる。二枚目にも活きる。どういう意味かわかるか? 死ぬとき苦しいだろ? 苦しくなったら腹の底から声出すだろ? でも痛いから、だんだん声が弱くなる。弱くなるところは二枚目に活きる。腹から声出そうとするところは、敵役に活きる』って。教えてくれたのは、唯一それだけかな(笑)。いろいろ大変な二代目さんだったけど、芝居のうまい人だった。その役がついたとき、すーごく嬉しかった」
「それからだよね、もうみんなが芝居やってるとき、すんごいイライラして、俺も出たいって。正直、誰か倒れないかな、長期で入院しないかな? って思ってた時期があった。そのうち、二代目さんがいなくなって、たっちゃん(古都乃竜也)が外に修行に出ることになって、これから劇団座長不在でやっていくってなって、おかあちゃんが、『主役、お前やれ』って。『わかりました』って、すぐできたのは、観てて覚えてたから。その点はなんも苦労はなかったかな」
一見好太郎が一見劇団の座長になったのは、21歳のとき。いまから22年前のことだ。座長不在のまま広島の海田温泉で2カ月間の公演中のことだった。
「舞踊ショーの幕が開きました、司会はおかあちゃんがやってます、オレの出番です、さあ出ようと思ったら『変わるステージ、劇団座長、一見好太郎!』って。そこで決まっちゃった」
本人も寝耳に水の、まさかの座長就任だったという。気づいたら、チラシみたいなポスターが3、4枚刷られていた。「お客さんから、この劇団は誰が座長なんだと言われて。オレは座長はやらないって言ってたのに。器じゃないって」
気持ちが沈んで、それからしばらく舞台からお客さんの顔が見られなくなったという。
「客席の畳ばっかり見てた。芝居は好きだったけど、座長はまたぜんぜん別のこと。当時の自分にとっては、座長なんて雲の上の人だと思ってたから。そしたら送り出しでお客さんに『誰でも最初から座長になれるわけじゃないんだから、お客さんに育ててもらえばいい。ちゃんと顔あげて、舞台をやりなさい』って言われて、そのひとことで救われた」
関東に来たのはその翌年、2001(平成13)年のこと。九州を中心に回っていた若き座長を据えた劇団は、関東で花開く。1年後の12月には、初めてのった浅草木馬館で札止めを出し、そこから年々力をつけていった。篠原演芸場の正月公演を2006(平成18)年から11年連続で、浅草木馬館の4月公演を2011(平成23)年から8年連続でつとめた。
一見劇団が、関東で快進撃を繰り広げていく背景には、芝居をしたくてうずうずしていた10代の一見好太郎の、マグマのように溜め込んだ時間とエネルギーがあったはずだ。劇団としては、背水の陣の関東進出だったのかもしれないが、末から2番目の芝居好きの息子という最後の切り札に賭けた紅葉子の采配に、一見好太郎は結果で応えた。
関東に来て人気が出たなと実感したのは、どういうときかと聞くと、「やっぱ、物が増えてきたからね」と、どこか他人事みたいな答えが返ってきた。
「いまこういうプラスチックのケースに着物とか入れてるけど、当時、茶箱だったの。それが、オレ、全部で6個しかなかった。ところが、関東に来て1年くらい経ったころから、どんどんどんどん物が増えて。お客さんがすごい祝儀をつけてくれたから。理由? 自分じゃわからない。まだゲッソリ痩せてたころの話ね」と、20年近い歳月でいささか恰幅のよくなったお腹をさすりながら笑った。
一度だけ、役者以外の仕事に憧れたことがあるという。まだ座長になる前、10代のほんのいっときのことだ。
「競艇選手になりたかった(笑)。いまは年齢制限がアップしてるけど、当時はもっと若くて、行ける年齢まで悩んでた。でも学歴がないからね、と自分で思ってやめた」
役者を辞めないでくれてよかったと思うけれど、おそらく競艇選手になってもよい成績を収めたのではないかと思わせる、運動神経のよさと勝負強さが一見好太郎にはある。そして、どこまでも旅を続ける役者の人生も、長い長い、耐久レースのようにも見える。
第3回につづく!
(2022年2月9日・18日 立川けやき座)
取材・文 佐野由佳