5月の篠原演芸場、劇団美山副座長である里美京馬の誕生日公演の日。劇場を取り巻くほどの長蛇の列に、当日の自由席を求めて(なぜなら前月の予約開始の日に、電話がつながった時点ですでに予約席が取れなかったから)並んでくれていた相棒のカルダモン康子からLINEがやってきた。二人連れの女性とおしゃべり。長年の美山ファンであるお二人は、当然、もう千秋楽まで席は予約済み。連日劇場に通っていて「この人、劇場に席はあるけど、会社にはもう席がないかもしれんのよ」と笑いあっているという。さすが劇団美山はお客さんまで面白いです、とあった。長い列に並ぶ間、退屈しないですんだらしい。千秋楽はさらに、その列がとぐろを巻くほどになった。
それまで平日は夜の部のみだった篠原演芸場が、連日昼夜公演となったのは今年の4月からで、この時節がら、週末にお客さんが集中しないようにという配慮でもあろうが、ふたを開けてみれば連日が週末のようだった(もちろん席数は本来より減らしているのだけれど)。しかも週末は昼夜演目替えというフルラインナップ。
「いつまた幕が開かなくなるとも限りません。いまやれることは全部詰め込んでます! 僕らもヘトヘトですけど、お客さんもヘトヘトだと思います!」と里美たかし総座長が、途中何度も口上挨拶で叫んだとおり、舞台は連日「祭り」づくし。京馬祭り、祐樹祭り、たかし・こうた祭り、こうた・花太郎祭り、たかし・こうた・京馬祭りと、あらゆる組み合わせで毎日がスペシャルデー。あれもこれも観たいから、通うほうも必死である。
この「祭り」は、中心となる役者がその日の舞台をつくる。もちろん芝居の主役であり、舞踊の主役で、これでもかというほど出ずっぱりになる。そして、座員が主役の日は、総座長、座長であろうとも脇に徹する。それをやって連日これほど集客できるところが、劇団美山の面白さであり強さだ。
しかし、劇団は一日にして成らず、だ。総座長里美たかし、座長里美こうた、副座長里美京馬、後見里美祐樹、花形里美花太郎。新体制となった今年1月の浅草木馬館から、5カ月間の怒涛の関東公演を観るにつけ、いかにして劇団美山は、いまの劇団美山になったのか。知りたい気持ちがむくむくと湧いてくる。
三度目の緊急事態宣言により、土日の公演が休みになると聞き及び(註・のちに通常営業)、6月大阪・梅田呉服座で公演中の総座長に取材を申し込んだ。そして、せっかく舞台が大阪ならば、本誌で執筆をお願いしている山根演芸社の山根大社長との対談を目論んだ。
対談当日。劇場に現れた山根さんは、ライラック色のシャツにジャケット、襟にはスワロフスキーのふくろうが光っている。終演後、「舞台の打ち合わせをしてからでいいですか?」という総座長を、楽屋で待たせていただくことに。大荷物だろうにピシッと片付いた楽屋に入ると、なんとカワイイ猫が! これがインスタグラムにも登場していた、中村美嘉さんの飼い猫だろうか。なでくりまわしたい衝動をおさえつつ眺めていると、動物が苦手なカルダモン康子のほうに近寄っていく。何かケモノのにおいがするのだろうか。
「お待たせしました」とダークグレイのバスローブに身を包み、素顔にマスクの総座長が登場。「このままでいいですか?」というので、そのままがいいですとお願いして、場所を劇場の座席に移して対談の開演となった。
助走をつけながら場があたたまり出したころ、山根さんが「いまの劇団美山を語るには、2019年11月の神戸新開地劇場の話はさけて通れないから、あえてするんやけど。家族の物語があったわけや。里美こうたと里美京馬がいなくなったという物語」と切り出したときには、劇場がいきなりリングになったような気がした。見えないロープが張られ、総座長のバスローブがボクサーのガウンに見えてきた。舞台の大道具をたたくカナヅチの音が、ゴングに聞こえる。
山根 大(以下、山根) あのとき、11月に新開地が終わって、そのあと岡山、年明け1月が東京やったろ?
里美たかし(以下、里美) はい。
山根 まず、東京の篠原さんたち(註・篠原演劇企画)が、まあ、あせって。このまま舞台にのせるのは大変や、ということになって。たぶん、あのまま、こうた、京馬が戻ってきぃひんかったら、いまごろ劇団として、あとかたもなくなってたと思うわ。でも、そうじゃなかった。ここんところが、ただの「いい劇団」やった劇団美山が、「すごい劇団」になった物語。あの翌年の、1月、2月を過ぎたあとの大阪で、あれはもしかしたら狂言(ヤラセ)やったん違うか? って、うわさになった。
里美 それはよう、言われました。
山根 ふたりが帰ってきてから、ごっつ客入ったよねって話になった。それくらい東京でグッとよくなったんやけども、オレはそこの段階で、いまの劇団美山の原型ができたと思ってる。それをすごい感じたのが、去年(2020年)10月の浪速クラブ。あの一体感というか、それはすさまじかった。ほかの劇団にはない世界に突入したなっていう。いい劇団から、すごい劇団になるには、あの2019年秋のドラマは必要やったんやと思った。
里美 そうですね。
山根 旅芝居っていうのは、舞台のすぐ後ろが家や。家のありようが舞台に出る。あの騒動のあとで、里美たかしが腹をくくって、総座長という看板になることで、脇にまわるということも、あえてするようになった。たとえば今日の舞踊ショーもそうやったけど、チューブの曲で群舞を踊りました、途中で総座長がチャチャ入れてました、そのあとで、こうたがひとりで出てきて黒田節を踊るっていうのは、こうたにとってはすごいプレッシャーのはずや。それを仕切るこうたの力量はすごいんやけど、その前にああいうチャラチャラした場面をつくることと、そのひとりとして総座長がいるっていうのがこの劇団のすごさやねん。5月にうちの妹が、美山版の「女殺油地獄」を東京まで観に行ったんで、最後どんな演出やった? って聞いたら、最後、ハシゴを2階にかけて主役の京馬がそこを駆け上がるんやけど、そのハシゴを総座長が支えとった、っていうのを聞いて、こいつほんまにすごいなと思った。
里美 ほんとですか?(笑)
山根 だから、2019年秋の物語のあとからの、それまでもスマートで才能のある役者だった里美たかしが、人間として成長した1年間というのがあったんやということを、ものすごい感じた。
里美 あの一件は、狂言でも何でもなくて、お話するのも恥ずかしいような、内輪の出来事でした。ほんと、それまでうちの劇団、何もなかったんですよ、もめ事が。でも、それがおかしかったんだと、あのとき思ったんです。子どものときからそれぞれが成長して、成長していくと知恵もつけば、思いもあるし、我も出てくる。でも、うちはそもそもほんとに仲がよかった。その仲のよさが重荷になるっていうか。そういうことだったんだろうと……。わかります? たとえば、ちょっとイヤやな、と思うことがあっても、これを言ったら、このいい空気が壊れるかもしれないから我慢しよう。あれ? と思うことがあっても、オレが我慢すればいい、わたしが我慢すればいい、っていうのが、積もり積もって、積もり積もって、ドン! と来たっていうか、もうやってられん! ってことになった。そうとしか説明のしようがないのが、ほんとのところです。
大衆演劇ナビ(以下、ナビ) 具体的にはどういう状況だったんですか?
里美 忘れもしない、その日の朝、僕が歯を磨いてたら、中村美嘉が「座長、こうたがいません」「え、何で?」「京馬もいません」「え?」。ほんと、そんなでした。僕も腹も立ちましたよ。そのとき、山根社長がすぐ来てくださって、かけてくれた言葉を覚えてますけど「あのふたりのことをどう思う?」って。
山根 そやったな。
里美 僕は「受け入れます」って言いました。そしたら社長が「そう言ってくれてよかった」って。「頑張りますんで、よろしくお願いします」と言ったら「わしに任せとけ」って言ってくださったんですけど。そこからのことは、自分でもビックリですよ。あのとき僕としては、あ、ひとつ時代が終わったなって、ほんとに肚を決めたんで。
ナビ 「受け入れる」というお気持ちは、その状況のすべてを、という意味だったんですか?
里美 状況も受け入れます、もし仮にふたりが戻ってきたとしても、という意味で。もちろん、ことと次第によりますけど。何もかも受け入れる、ってことですよ。あのとき、それ以外のメンバーが嬉しい言葉をいっぱいかけてくれました。あのふたりとはまた違った物語が、僕は彼たち彼女たちとありますから。いわば僕にしてみれば両腕を削がれたようなものです、一夜にして。美嘉が「座長、頑張らないでください。頑張ってるの、わたしたちわかってますから」って。祐樹が「あのふたりほどの力はないけど、オレがやりますから。一生、かつぎますから」って。花太郎が、ボロボロ泣いて僕に「すみません」って謝りに来たんです。何で謝るの? って聞いたら「情けない」って。何が? 「あのふたりがおらんくなって、支えられてない自分が情けない。だから座長、オレはあのふたりがいなくてもやりますよ」って。
ナビ (泣)
里美 嬉しかったですよ。守らないかんって。僕、変な性格で、メンタルが強いんですよ。自分で言うのもなんですけど。極端な話、今日梅田呉服座にのってます、明日からみんないなくなりました、どこかわからないとこにのらないけません、ってなっても、全然苦じゃないんですよ。み、と、けっ!って思うほうですから。そうやっていままで僕ら、やってきましたから。ふたりが帰って来たとしても、来なかったとしても、座長としては舞台をやり続ける責任がありますから、いろんなとこに頭下げましたよ。そしたら、ふたりとも数週間で帰ってきて。朝起きたらおるし。「すいませんでした」って。すぐ帰ってくるなら出て行くな!(笑)ですよ。そのために動いてくれた人もいて、すぐに連絡はついたんですけど。怒りもありました。もし帰ってきたときには、変な言い方ですけど、ただではすまさんぞ、という気持ちもありました。それがどんな形の答になるかはわからないけど、帰ってきて、そうか、また明日から頑張れよっていう気持ちにはならないというのもありました。でも結局、頑張ろうなってなったのは、みんなの思いが、自分のなかで消化できたからなんですよ。
ナビ なぜ出て行ったのか、戻ってきたのか、おふたりと話しましたか?
里美 もちろん。僕たちはこう思います、こんなことを思ってました。ああ、そうか、オレのなかではこういう思いだけどな。ああ、そうだったんですかと。僕も勉強になりましたけど、それぞれが僕ひとりに対して、恨みつらみがあるというのであれば、解決はめちゃくちゃ簡単なんです。僕との関係だけのことだから。ところがそう簡単ではなくて、それぞれがみんなこじれてる。ちょっと待てよって。ほんと、内輪の話だったんです。
山根 抱える悩みはそれぞれやろうしな。
里美 受け取り方も、それぞれですから。いまうちを離れてフリーで頑張ってる、笑窪という子がいるんですけど、あの子はあのとき、最後まで新開地劇場の公演をつとめた。公演が終わって、いろんなことが僕もわかってきて、笑窪とも話をしました。そのなかで、彼女は彼女なりの考えもあって、辞めていきました。あの子はべつに、不義理をしたわけでもないし、いうたらドロンしたわけでもない。でも大衆演劇界には、辞めた人間を使わないでくださいねって根回しするような慣習もあったりして、役者仲間から、いいのかと聞かれることもありました。
山根 昔は、回状を回したん。
里美 たとえば世間一般でも、辞めた次の日から、ライバル会社に出社しますって言われたら、人間ですから気持ちの問題もあるとは思います。でも僕は、それは別にいいと思うんですよ。ただしこれが、いなくなったふたりやったら別ですよ。ドロンした人間が、何をよそに出ようとしてるんやって話ですよ。これはまた、別の話です。
山根 舞台に穴あけてるわけやからね。
里美 だから正面切って辞めた人間が、フリーで動くことには僕は何の異目もないです。ひとりでやっていくと決めた以上、それは自分で生きてく道を選んだんだからそれでいいと思う。逆にいなくなったメンバーは、戻ってきました、じゃあ、すぐに関係がよくなったかっていったら、ならないですよ。ギクシャクもしました。劇団員ともいろいろありました。あのとき、歯を食いしばった子たちもいるわけですから。そりゃ、戻ってくるとなったら、こっちも会議ですよね。祐樹は「僕はイヤです。でも、あのふたりが帰ってきたら、先生、楽になりますよね。そこまで力がない自分が悔しいけども」って。オレ、涙がボロボロ出ましたよ。その一件以来、ずーっと僕、舞台の口上挨拶で、連日謝ってたわけですけど、状況を説明せなあかんから。いうたら、わたくしごとですからね。結局、祐樹が言ってくれたのは「二度とあのふたりのことで、先生、舞台で頭を下げんでください。下げんでおってくれたら、戻ってきていいですよ」って。「頭を下げる姿を見ると、そのたびに腹が立って、それが憎しみに変わる」と。もう、いろんな物語があるんですよ。それも全部、帰ってきた二人にも話しました。去年、1回目の緊急事態宣言のときに、いやほんとに大変な時期でしたけど、でも、ちょっと立ち止まってみんなで話す機会ができたんです。解決してちょっと時間がたったときやから、もう一回、腹を割って話せたんですよね。
山根 看板を大きく変えたのも、それと関係ある?
里美 いや、いまの体制は、その前から考えてたことです。いろんなビジョンがあってですね、ほんとは、問題が起きた11月の次の正月が浅草木馬館で、あんなことがなければ、そこで発表するつもりやったんです。もうそれぞれに、責任持たせようと。僕、勝手に5年周期でものごとを考えていて。なぜかというと、僕がいま35歳、京馬が30歳、祐樹が40歳、こうたが25歳、花太郎が20歳、並びが最高なんですよ。だからオレがいっこ上がって総座長、こうたが座長。こうたは入ってきたときから、副座長になるのがずっと夢やったんです。でも僕は、自分に息子がおるわけでもないし、あいつを座長にするのが夢やったんです。で、2020年の正月、木馬館の幕が開いたら発表して、2021年の正月から彼たちに看板を任せます、それにふさわしい男になれるかどうか、この1年修行してください、って渡そうと思ってたんですよ。それがあの一件で、僕のなかで流れた。出て行って戻ってきてすぐにそんなことやったら、世間から、彼らを逃したくないから里美は看板やったんやろって、絶対に言われるってわかってたんで。そこまでオレも、男を落とせんな、と思ったから、それは腹のなかに飲み込んで。誰にも言わないで、サプライズでやろうと思ってました。僕のなかでは、去年10月の浪速クラブが、最終試験やったんです。だから社長、去年の浪速クラブのときに、オレ、異常な予定立ててたでしょ?
山根 異常やった。ほんまに、明日なき戦いやった。
里美 でしょ? ほんまにボロボロになるくらい。もう毎日、ぜんっぶに詰め込んでたんで。
ナビ 今年の関東公演よりもですか?
里美 もう全然。今年の木馬、篠原も詰め込みましたけど、その比じゃなかったです。僕の勝手ですけど、これでネをあげたら、看板はやれんと思ってたんです。あれをやり切ったんで。全員、愚痴ひとつ言わんかった。僕も楽しかった。あ、これは理想になったって思ったんで、そのあとの11月、新開地劇場の公演のときに発表したんです。はからずもですけど、ちょうど騒動から1年たっての新開地でした。
山根 あの浪速クラブはすごかった。だってオレが毎日観に行ったもん。スッゲーと思って。千秋楽の日に舞台に座らせてもらって「これはもう、てっぺん取るしかないよな」っていう話をしたんですよ。舞台で「よし、てっぺん取ったる」って言ってたしね。実際、お客さんの入りというか、熱気がすごかった。たいていの劇団は、内輪のことでゴタッとなったらダメになる。そこのところを、逆にこうなった劇団はいままで見たことない。
里美 僕もあのときは、ほんとに終わったと思いましたけどね。そのあとの大入りでしたから、そりゃ、ヤラセと言われますよ。
ナビ どうして、おふたりは戻ってきたんですか?
里美 どうして?(なぜそんな当たり前のことを聞くの?という表情で)どうしてって、僕のことが好きだからですよ。というか、僕といることが、じゃないですか。それは僕、自信を持って言えますよ。
山根 それはすごいな。劇団美山は、他人さんどうしが、子どものときからくっついて、ずっと歩いてきて家族になった劇団。総座長は、歳の離れたお兄ちゃんみたいな人として生きてきたわけや。家族であっても、腹に持って言えないことってたくさんある。澱(おり)になってたまっていって、いつか出てしまうねん。つまらんことで。ほかの劇団のもめごとって、そこまでいかない、もっとつまらんことだったりしますよ。そういう劇団はたいていダメになる。他人さんを引っ張り込んでいけるパワーがなくなってしまう。でも里美たかしには、その求心力があって、それはカリスマとしてのパワーじゃなくて、みんなで一緒に成長してきたから、それを見てきたからやと思う。
里美 そうかもしれないですね。
山根 里美たかし、そして中村たかし(註・本名)という人間としての成長があったから、すごい劇団ができあがったんやと思う。旅芝居は舞台の裏がすぐ家やという、その家の、いままでやったら師匠がいて、先生がいて、家父長みたいな人間がいて、それがまとめあげた世界なんやけど、そうやなくて、里美たかしは、自分のなかで暴れているもんを、なだめるか、殺すかして、そして、そこのところでぐっと大きくなったんやなっていうことを、オレは感じた。
(2021年6月11日 大阪・梅田呉服座)
文・構成 佐野由佳
【劇団美山 プロフィール】
明治36(1903)年に初代・江味三郎が「江味劇団」を創立。昭和32(1957)年に二代目・江味三郎があらたに「江味三郎劇団」として旗揚げ。二代目が松竹新喜劇に在籍中、藤山寛美から美山昇二郎の芸名をもらい、現在の「劇団美山」の由来となる。解散していた時期を経て、平成9(1997)年に美山昇二郎と中村㐂代子の長男である里美たかしが、12歳で座長に就任、再度の旗揚げとなる。平成30(2018)年、里美たかし劇団座長20周年を記念して大阪の新歌舞伎座で公演。
【劇団美山 役者プロフィール】
総座長 里美たかし(35)
古典から現代ものまで、パンキッシュでスタイリッシュな劇団のカラーを構築。12歳で座長に就任したワケは? そしてこれまでの人生を、今回の対談で激白します!
座長 里美こうた(25)
6歳で劇団に入団。子役のころから、端正な美貌と誠実な芸風で人気を博す。2021年1月から劇団四代目座長に就任。
副座長 里美京馬(30)
陽気な天然キャラを、寸出のところで二枚目に踏みとどまらせるスラリとした長身と甘いマスクで、幅広い役を演じる。
後見・里美祐樹(40)
劇団のマスコットおじさん(おばさん?)的な衣装や舞踊で、場をなごませる。関東公演中には骨折のアクシデントを乗り越えて、ダイエットにもはげむ。
花形 里美花太郎(20)
入団からは2年半だが、生まれたときから役者の子(実家は南ファミリー劇団)。総座長から、アゴをつかまれながらの鋭いツッコミにも、当意即妙に応えるカンのよさ。
中村美嘉(32)
14歳で入団。男前な看板女優として、悪女から老婆、大店の番頭まで多彩な役を演じる。