第3回 「さぶちゃん」と呼ばないで! 里美たかし×山根 大

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 すわ、劇団崩壊か!? の危機も乗り越えて、いま飛ぶ鳥を落とす勢いの劇団美山。男女問わず、メンバーのひとりひとりが強くありたいという。座長の力一本で、劇団全体を引っ張ってきた時期をへて、座員それぞれを主役にすえた「祭り」をしまくるいまが楽しい、それが、大衆演劇の世界を、生き残っていく道だと考える。

 生まれたときから役者の子、役者人生はすなわち座長として生きることだった。親の代でいったん降ろした劇団の旗を、たかし12歳でふたたび揚げることになったのはなぜか? 里美たかしの名前に込められたものとは? 劇団美山の公演には、必ず飾られている「江味三郎」のタペストリーの意味も、解き明かされます。

山根 親の代の話に遡るけど、お父さんの美山昇二郎さんの時代に、山根演芸社はいっとき離れてた時期があって。その理由が、僕はわかるようでわからなかった。僕にとっても親父の代のことやったから。

里美 僕も、詳しくは聞いてないです。お前には関係ないと言われていて。そういうタイプの父親だったんです。

山根 そのあたりのこと、先日、お母さん(中村㐂代子太夫元)に聞いてね。いかにも大衆演劇界独特の話やった。座長大会で台詞の入ってない若い役者を、年かさの役者がさんざんいじめたことがあって、美山昇二郎さんが止めに入ったと。それを面白く思わんかったその年かさの役者が、うちの親父に美山さんのことを悪く言うたらしい。うちの親父も、聞いた話だけで「美山さん、それは具合悪かったんやないか」言うたら、美山さんが、かたっぽの話だけを聞いてそれはないやろ、っていうので。そっからエスカレートしていって、うちはもともと九州の劇団やから、大阪から離れさせてもらいます、というので離れていったと。

里美 僕が劇団を旗揚げしたときに親父から「自分も若いころにはやんちゃくれな部分もあったから、いろいろやったことはあるけど、そこはお前とオレは別だからと。ただ、そのことでお前になんかあったらごめんな」くらいしか聞いてないです。

山根 美山昇二郎は、もともと二代目江味三郎といって、九州の大看板のひとりやったし、美里英二を育てたのが江味三郎劇団やから、山根演芸社とは切っても切れない縁ではあったろうと思うけれど。広島の清水劇場ができたとき、二番目の興行をやってる。そんとき総座長はいくつくらい?

里美 生まれてるか、いないかくらいだと思うんです。清水劇場に行ってたと聞いてはいるんですけど、記憶にはまったくないです。

 二番興行を任すくらいやから、うちの親父も美山昇二郎を信任してたと思うんやけど、そういうコースがなくなってしまって、ずっと縁がなくて。その間の話もお母さんに聞いてんけども。九州に戻ってから、ちっちゃいとこで公演してて、間に入ったとこがええ加減なことをしたんやろうけど、その場所がなくなってしまって、次に行ったのが熊本県の菊池温泉。

里美 そうです、そうです。そこはもう僕も記憶にあります。小学校に上がったときだったんで。

山根 行ってみたら劇場の人間が誰もいない。ドロンしてしまって、いなかったと。どないしたらええんやろといったら、あなたがやってくれませんか? って話になって。結局そこで、1年間、常打ちしたと。

里美 劇場であり温泉センターでありみたいなとこです。いまは健康センターっていうと、スーパー銭湯みたいなとこをイメージをすると思うんですけど、いうたら民宿のような、温泉街にぽつんとあるようなところだったんですよね。裏に滝が流れてて。経営者の方々が、夜逃げみたいなことだったらしく。なんじゃそりゃ? っていう。

山根 そこで劇場を経営するなかで、1年間ずっと公演されてて、お客さんも入ったり入らんかったりで、入らんかったときに、3人しかいないお客さんのひとりが、この劇団すごい、いいですよ、って新聞社に話したらしい。それが取り上げられて、そこからお客さんが来るようになったと。そしたら、熊本のほかの劇場に客が入らんようになってしまって、ここからは半分オフレコみたいな話やから詳しいことは言えんけど、さるところから「やめてもらえませんか」ということになって。お父さんはそういう性格やから、ゴタゴタ言わないけれど、言いたいことは言って、結局、そこでいったん辞めるということになって、劇団を閉じる形になった。

里美 それが僕が、小学校1年生の終わりくらいのときです。

山根 それで、お母さんは博多に働きに行かれ、お父さんは家で踊りの生徒さんを取って教えておられたと。それがずーっと続くんやけど、なぜか小学校6年生のときに、役者するって言い出した。なんで?

里美 いま思うと、単純なことでもあるんですけど。親父が踊りの先生をやっていたときに、生徒さんで来る人たちは、踊りを教えてもらいたいのと、一方に、美山昇二郎に教えてもらえるというファン心理で来る方もおられるんです。つまり大衆演劇が大好きな方々がたくさんいて。僕はまあ、その息子ですから、かわいがっていただくじゃないですか。ご飯食べに行こう、遊びに行こう、お風呂入りに行こうって連れていっていただくのが、バーパスやバーデンハウス(註・かつて小倉にあったセンター)や、花月劇場(註・福岡にあった劇場)なんです。大衆演劇を辞めたつもりなんやけど、大衆演劇にからまってしまうわけですよ。で、舞台を観てるとやりたくなってしまう。不思議なもので。ほんと、それだけですよ。

大衆演劇ナビ(以下、ナビ) 子役のころ、舞台は好きでしたか?

里美 嫌いではなかったですけど、出るのが好きだったかっていうと、そんな好きではなかったんですよ。そういう役者さん、多いと思います。化粧して出るのは抵抗もありましたし。ただ、観るのは好き、芝居も好き、踊りも好き。だから12歳のそのときに、やろうと思った心理はいまとなってはよくわからないですけど、僕のなかでは、師匠である父親が全てでしたから、役者の父を持つ息子たちっていうのはみなさんそうだと思うんですけど、その背中を追いかけていくっていうのがあるし、このまま潰したくないっていうのが正直あったのかもしれないですね。いまみたいにしっかりした考えがあるかっていうと、そんなことはなかったですけど、漠然と、もう一回やりたい、っていう思いですよね。

山根 それで旗揚げするとなったとき、いきなり座長という看板になったわけだ。

里美 親父から「じゃあ、お前、座長でやるか?」って言われて、ウーっと詰まったんですよ。でもやるって言ったからには、頑張りますって。でもそれはもう、大反対だったと思いますよ。あとから聞くと、うちのおかんも、おやじと喧嘩するくらい反対したらしいですよね。そんなん無理や、いうて。でも、こいつがやるいうたんやから、って。どうせ座長になるんなら早めに苦労せいっていうのが親父の考えやったんですよね。とはいっても、何にもわからない座長ですから、結局は親父が芝居で主役して、相手役を母がして、僕はまだ12歳でしたから、娘役とかちょこっとした三枚目とかやって。形だけの座長ですよ。

山根 そのときからすでに、名前は里美たかしだった?

里美 そうです。名前のことは、また不思議な話があって。うちの親父が美山昇二郎と二代目江味三郎と両方使ってたわけですよね。一番最初に、僕が子役で舞台に立つときに、名前何にする? ってなるじゃないですか。僕、本名が中村たかしなので、江味たかし、ってなんか、じいさんみたいだなって。いや、ほんとこんな会話だったんですよ。覚えてますから。うちのルーツである初代の江味三郎先生の奥様が、まだお元気でおられてですね、里美順子さんという方だったんですよ。おふたりには子どもがなくて、うちの父親のことを子どもみたいにかわいがってくださって、二代目を渡したという形になるんです。僕は、その里美順子さんを、「せんせばあば」とずっと呼んでいて、孫みたいにかわいがっていただいた。そのせんせばあばは、僕に三代目江味三郎を継がせるっていうのが夢だったんです。

山根 なるほどなあ。

初代(左)、二代目(右)と、代々の江味三郎に敬意を表したタペストリー。必ず公演地に掲げている。

里美 だから、江味たかし、も候補になったんですけど、いや、ダメ、じじくさいと。美山昇二郎という名前もあったから、美山たかし、これも演歌歌手みたいやと。本名の中村たかし、そんなもん、中坊みたいやと。それで、わたしの里美をやると。何で里美かというと、これまた単純で。せんせばあばは犬が好きで、ほんとに8匹犬を飼ってたんです。で、初代の先生が、せんせばあばに、「里見八犬伝」からとって里美。見を美に変えたのは、お前は女やから見やなくて美やということで、里美順子にしたんですって。それがうちの里美のルーツですね。結構、うち、簡単に決まってるんです(笑)。ほんで、里美たかし、一番しっくりくるやないか! と。その当時、うちのなかに里美を名のる人はいなかったんですよ。せんせばあばは、僕のことを一番かわいがってくれてたから、この子に名前をやると。いずれ、江味三郎をこの子が継いでくれるんや、という思いをこめて、里美をくれたんだと思うんですよ。

ナビ そのままずっと、里美たかしなんですね。

里美 そこです。ほんと、ただそれだけの単純な理由でつけた名前なんですけど、あらためて旗揚げするときに、4、5人の名だたる姓名判断の先生にみていただいたら、誰がつけたんやこの名前、って。みんな言わはったんですよ。これはよっぽどの人が考えた名前なんだろう、っていうくらい、とんでもなく僕に合っていて、とんでもなく成功するいい名前らしいんですよ。だから変えちゃダメと。で、そのときに、全員に江味三郎を継いだらダメだ、と言われたんですよ。江味三郎を名のったら早死にするよって。それと家族に不幸をもたらす。そんな名前いりません!って(笑)。役者は名前大事じゃないですか。

山根 そらそうや。

里美 そんな名前、あえて背負う必要ないじゃないですか。でもそれが、せんせばあばが生きてるうちの、親父とおかんの最大の悩みだったと思います。そんなこと伝えてませんから、いつになったら継ぐんやと。親父も、ちょっと待ってくれと、おかんも、せんせちょっと待っとってね、いずれいずれと先延ばししてるうちに亡くなってしまったんで。亡くなってしまったあとで、親父が心配すんな、お前はもう江味三郎は継ぐなと。うちの三代目であることに変わりはないわけだから、初代を重んじる気持ちだけ持っとってくれたらそれでいい、そんな早死にするような名前は継がせられないと。僕も、これはほんとバチあたりですけど、江味三郎は、ちょっとイヤだなあと思ってたんです。「さぶちゃん」とは呼ばれたくないじゃないですか(笑)。

山根 難しい名前やしなあ。

里美 大衆演劇のなかでは、大きな名前なんですよ。そう言っていただけるんですけど、さぶちゃんはちょっと、とずっと思ってたら、親父が、あの世に行って初代の先生にオレが頭を下げとくと。

山根 ものすごい歳取って、太夫元になってから継いだら?

里美 そう、歳取ったら、江味三郎もしっくりきそうな気がするんですよ。そんなわけで、里美たかしでやってます。

山根 里美たかしを看板にして新しく旗揚げしたときは、先代とお母さんと、せんせばあばと4人だけだったと。

里美 そうです。

山根 その4人で最初に出たのが、四日市のユーユー・カイカン?

里美 そうです。そうです。

山根 九州に里美たかしがいるぞ、というのが聞こえてきたのが、たぶん総座長が18歳くらいのときかな。

里美 そうですね。

山根 里美たかしの劇団という形になって、一番最初にのった、劇場らしい劇場ってどこやったん?

里美 東京の大勝館(註・浅草にあった劇場)です。

山根 じゃあ、それは野間口さん(註・九州の興行師、福正企画社長)が持っていってるんや。

里美 そうです。それが一番最初です。その次に、劇場と名のつく場所にのせてもらったのは、岡山の千秋座(註・倉敷にあった劇場)です。

山根 あった、千秋座! 

里美 大勝館、千秋座、それと名古屋の鈴蘭南座(註・市内北区にあった劇場)。そこから関西でお世話になれるようになって、っていう流れですね。

山根 倉敷の千秋座はいい劇場やったなあ。

里美 きれいな劇場でした。

山根 でも短命やった。惜しかったけど。そのあと南座か。鈴蘭南座は蔵を改装した劇場でね。そのあとが、関西?

里美 博多です。博多新劇座。

山根 このへんからだんだん劇団としてのボリュームが出てきたんやな。大阪へ来たのは、23、24歳のころ?

里美 そうですね。

ナビ いよいよ、攻めのぼっていくわけですね。

(2021年6月11日 梅田呉服座にて)

文・構成 佐野由佳

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