現代である。
ことに性差に関わるような話題につき、言挙げすること自体はばかられるし、よくよく突き詰めて考えた訳でもないのに、軽々と言いだすと、どんな矢が背中に向かってくるか分かったものではない。
もの言えば唇寒いどころか、いつ斬り付けられるかという世間だ。
そのただ中で、思いつきを書くことにする。
それでも、これは未だにしばしばあることなのだが、
「お好きなタイプはどんな方ですか?例えば女優さんとかタレントだと…」
といった設問は許されているように思う。
私の場合は、異性については、それに答えることにとまどってしまう。好み、というものがうまく形を結んでいないからだ。
逆に言うと、同性では気になる、というか、「良いな」と思う存在は少なからずいる。
これは大きく二つの型に分けられる(ちなみに、その中には小説や劇映画のキャラクターも含まれる)。
「自分がそのようになりたい」=ロール・モデルとしたいような男、がその一つ。
もう一つは、「コイツにはとても敵わない」という男、だ。
前者、これは沢山いる。本音はそれの良いとこ取りをして、まとめあげたい、というところだ。
後者、これはそれほどいる訳ではない(と言うと、アンタ、どんなに思い上がった人間なんや、となりそうだが…)が、確実にいる。
その代表は、「キング・オブ・クール」と二つ名のついた俳優、スティーヴ・マックイーンだ。
もちろん、彼の実像というよりは、出演映画で演じた役柄から想像した姿なのだが。
彼についての評言にこんなものがある。
「男は誰もが憧れ、女は誰もが抱かれたいと思う」(それにしても、政治的に正しくないな、これは)。
今回の拙文はどんどん浅薄な方へ行ってしまっているが、更にもう少し行くとすると、一体どういう男に対して、人はそのような感慨を抱くことになるのだろう?
無駄のない体躯、精悍な身のこなし、言葉少なく行動で語る…まぁ色々とあるが、これを極端に端折って一言にする方法もないではない。
「クルマの運転が巧くて、喧嘩が強い」(…いやはや、底が浅いぞ、これは…)。
そこに、不屈とか、些事に左右されないという精神的な背景が張り付くと、これはもう鉄板だ。
マックイーンには(と、言うか彼の演じる男には)そういう気配がある。
そして、その気配を感じる時、男としてそのように呼ばれることが本望である、という評価の生まれる可能性がある。
それは
「危険な男」
と表現されることになる、というのが私見だ。
さて、ここから漸くにして本題に近づくのであるが、この「危険」の内容をどう考えるか。
さっき、「喧嘩が強い」と書いたけれど、その尺度だと上には上がいるとしか言いようがなく、所詮比較の問題ではない。ということは実際の腕っぷしが問題なのではない。おそらくは、「不屈」が表に現れた感じとして「強そう」というのがあるのだ。いや、違うな。「負けなさそう」か。「挫けなさそう」か「曲がらなさそう」か。
「下手に触ると火傷をするゼ」みたいな感じ。
それも、自分からは発信しない。傍(はた)が見ていてそう感じる。
あるいは、人間関係の形だとすると、不用意に関わると深みにはまりそうであり、それが自分を損なうことになる、と分かっていても、その関係を解消することができない。だから、「危険」。
別なアプローチを試みると、雰囲気として「非日常」を纏っているのだが、その非日常に、ダークな感じがあり、それが、不気味というよりカッコいい。
役者たるもの、「非日常」をその身に纏うことは絶対条件でなければならない。
それはそうだろう、旅芝居とは日常に仕掛けられた祭であり、役者はその祭司なのだから。
ずば抜けて美しい。
とてつもなく楽しい。
何だか分からないけど凄い。
全て非日常の在り様だ。
その在り様のひとつに「危険な感じ」がある。
あからさまにそれを目指す役者もいる。
もう他界しているのを良いことに、またも二代目樋口次郎のことを持ち出すのだが、まさに典型的にそうであろう。樋口は、おそらく誰よりもそういう世界の現出を望んだ。それ故、代表的な芝居演目になると、両側切り立った崖の上をバランス取りつつ歩いているような危うさがあり、歩き切って、それが決まったときにはえも言われぬ魅力を醸し出した。しかし、時にやりすぎる。すると、崖の上から落ちるのである。場合によって滑稽に見えることもあるのだが、それも含めての樋口マジックだった。
あとは誰が…?
現役で何人か名指すことができそうだが、私にとってその第一が、この度のお題である
勝龍治(かつ・りゅうじ。本当は、先生、と呼ばないと居心地が悪くて仕方ないのだが、敬称略、とさせて戴く)
なのだ。
しかも、それは、意識して醸し出そうとする雰囲気なのではない。
ご本人と対面すると、先方は全くの自然体なのだが、こちらが緊張してしまうところがあり、それがこの稼業に四十年近く身を置こうかという私にしてそうなってしまう。
長い経験の中で、楽屋にお邪魔をして気易く話しかけられない、と感じる役者さんは幾人かいる。
例えば、亡き美里英二がそうだった。
楽屋に入ると、沢山贔屓さんがおいでになっていて、それが皆さん美里先生(と、呼んでしまうなぁ)と等距離を保って正座している。誰か一人が前に出ることは憚られるような雰囲気だ。
これは美里英二が壁を設けているのではなく、その折り目の正しい気配が結界のごときものを作り出して、そこを無神経に突破することができないようになっているのだろう、と、初心の私は感じた。
手垢に塗れて、あまり使いたくはない表現なのだが、敢えて言うなら、オーラ、というやつがそこにあるのかも知れない。
勝龍治にもオーラがある、と私は感じる。
この人に簡単に話しかけてはならない、それは自分が、この人に語り掛けるほどの言葉を持っているかどうか、自問することになるからだ。
だから未だに、その前に出ると緊張するのだが、実は自分で火の車を作っているだけのことで、勝龍治は何もしていない。
これは不思議な感覚だ。
先入観もあるのだろうか。
かつて、私の親父が実質的な旗振りの一人だった、「大衆演劇親交会」の第一回歳忘れ座長大会の際、私にフライヤーをデザインする役が回ってきた。
その時に、全体の後見として、親父は大日方満、美里英二、樋口次郎とともに勝龍治の名を上げ、その四人の名を大きく出すように指示した。
この時、まだ私は劇界的には「ごまめ」である。右も左も分からない。それでも、前回の原稿である大日方満の時に触れた通り、大日方、美里、樋口の凄さは知っていた。それに伍して名前の上がる人は一体どんな存在なのか。
しかし、その時すでに勝龍治が責任者だった「嵐劇団」の舞台は勝小龍、即ち、のちの二代小泉のぼるの独壇場となっていた。
そして、ご本人が持ったる奥ゆかしさも関わってのことであろうと思うが、表立って舞台の中央にいない以上、座長大会や、それに類する催事にもお出ましにはならない。
だから、私は勝龍治の全盛時の舞台をきちんと見ていない、ということになる。
私にとっての「幻の名優」、それが勝龍治なのだ。
それだけに、幻想は膨らみまくり、旗揚げ当初から親しく付き合うことになった「剣戟はる駒座」の「太夫元先生」としての勝龍治は、既に近くて遠い存在になっていた。
その幻想に輪をかけるのが、先達たちの証言だ。
私の仕事の大きな部分の一つは、劇団の公演中に楽屋を訪問して状況をチェックすることだ。
秘中の秘(というほど大げさでもなんでもない、実は普通のことなのだが)をカミングアウトすると、その際に長居しやすい楽屋とそうでない楽屋がある。
長居しやすい楽屋では、世間話も出たりして、そこでのコミュニケーションが自分にとって貴重な「資源」ともなるわけだが、それには条件があって、楽屋内が明るく、リラックスしていないと難しい。と、いうことは興行そのものが、大入り続きとはいかないまでも、大過なく進んでいることが基本条件だ。
その逆。
これはやはり長居しにくい。正確には、居づらいことが多くなるのは致し方あるまい。
私が楽屋に顔出しする時刻で多いのは、「一回バレ」(昼の部終演後)だ。劇団にとっては休憩時間でもあるが、わずかに余裕もあり、用件を片付けるのには丁度良いからだが、すぐに夜の部の開演時刻になるタイミングでもある。
ある一回バレに、楽屋で座長と話していた。そこへ劇団の若い衆が、客席の様子を見て報告しに来る。
「何人おいでですか?」と座長が尋ねる。
「三人です」と若い衆が答える。「そのうち二人は昼からのお客様です」。
この問答を聞いて、長居できるものではない。
表方に回ると、小屋主さんが気を揉んでいる。開演するのかしないのか、不安なのだ。呼び柝が打たれるのが聞こえて「…良かった」と思わず口から洩れるという、そんな場面に遭遇したこともある。
私の長い知り合いに、小劇場演劇の座長をしている人がいて、この方は旅芝居の劇団にいた経験もあり、観客としても劇場によく足を運んでいた。
その人から、極端にお客様の少ない夜の部での勝龍治の舞台について聞いたことがある。
「あの芝居は凄かった。お客がほとんどいない客席を前にして、勝龍治の本気を見た」
芝居の演目も、勝龍治の役柄も分からない。
しかし私には、その表情や舞台調子が一瞬に現前するような気がしたことを思い出す。
客席を常に気に掛けながら、舞台を作るのも役者なら、客席がどうであろうと、芝居に入り込んでしまう凄みもまた役者であろう。
勝龍治を簡単に見られない中で、このエピソードは私に強い印象を残した。
そして、舞台上の友として、これも勝龍治とは長い付き合いである大日方満の証言がある。
それは、遥か昔の座長大会でのことだったそうだ。会場は、1980年代はじめの閉館に至るまで、関西圏で最も大きな常設館だった、兵庫県尼崎市杭瀬の「寿座」である。
「いさやん(大日方は勝龍治を当時の芸名であった「小泉いさを」から「いさやん」と呼びならわしており、勝龍治も当時の芸名「大日方章彦(あきひこ)」から大日方を「あきやん」と呼ぶ、そんな間柄である)は舞踊ショウになったら若い衆を何人か連れてやってきて、それを絡みに使うて、パッパッパーとやって、終わったらシュっと帰りよった」
つまり、一人舞台が基本で、そうすることが肝腎の見せ場でもある座長大会の舞踊で、人を使った立ち回り仕立ての一幕を見せた、ということだ。
人一倍、舞台の「粋」に拘る大日方にして、その手法は斬新で水際立ったものに感じられたのだろう。以来、大日方から近づくようにして親交を結んだのだという。
「あの」大日方満が一目置いた勝龍治。
これまた、私の中で「伝説」を作り上げる材料となった。
この逸話を、舞台上のトークショウで大日方が披露したのは、2017年の3月に、神戸の新開地劇場にて開催された勝龍治の「芸能生活古希」を記念する特別公演、「極付 伊達勝龍錦絵」でのことだったが、私にとっては、遅きに失しているとは言え、公演の仕切りを手掛ける立場ながら、勝龍治が中心になった舞台を近しく見られる好機でもあった。
公演には勝龍治の縁につながる者が大挙出演しており、現役トップの一人で、実の甥でもある小泉たつみはもちろんのこと、盟友・大日方満に加え、やはり古い交流の美影愛、弟子筋にあたる者たちも顔を揃えた。
その一人が、「尼崎の団十郎」こと浅井正二郎だった。
私が二階席で勝龍治の舞踊を見ていると、横に立って
「次はこうですよ」
と言いながら右の腕をすっと上げて見せる。
勝龍治がそのように動くと、私の顔を見てニヤっとした。浅井はもともと嵐劇団にいた時期が長い。その昔からこの舞踊の「型」は変わらないのだろう。旅芝居の舞踊は、その時その時の流れに支配されることも多いから、良く言えば融通無碍だが、決まった振りはないことの方が多いと思う。そこで、作り上げた「型」をゆるがせにしない。芸の、芯、のようなものを感じる。
芝居は十八番にしている「伊達男 武蔵屋〆五郎」だったが、嵐一門ならではの「割り台詞」の見事さなど見所満載で、そして、その中央には勝龍治がいた。
存在感。
他の者では、その代わりが果たせないように思える何か。
当日の舞台上、話す機会を与えられた私は、それを感じてこう言った。
「千両役者、という言葉があります。お客様が毎日舞台を見たくなり、芝居小屋に千両もたらす役者のことでしょうか。勝龍治はまさに千両役者です」加えて、「それに比べると、今のトップ所は百両くらいかなぁ」。
今、時代の主役となり、お客様を沸かせる役者たちは、これから長い時間をかけて、このように語られる存在となって欲しい。
この日の公演の、大御所と言える出演者の舞台調子(台詞の出し方)にも、それぞれ独特のものがある。
大日方は「歌う」。
美影は「語る」。
そして勝龍治は「絞る」。
余人を以て、代えがたいものがある。それこそが、千両役者のシグネチュアだ、と私は思うのだ。
そして、拙稿の最初に戻って考える。
勝龍治が纏った「危険」な香りの正体は何なのか、と。
その答えを、おそらく私は、舞台上で七十年を生きたという、勝龍治のこの日の姿に見つけた。
それは
「艶(つや)」
である。
仕組むものでは決してないが、こぼれる様に滲む色気=艶。
当たり前なら、老境と申しても失礼ではないはずの年齢に至り、なお、誘い込むような魔力を持つ特別な役者がいる。
それが、勝龍治なのだ。
今、勝龍治が総裁という名で精神的な支柱となっている「剣戟はる駒座」は、その愛娘である晃大洋(こうだい・はるか)を知恵袋に得て、孫にあたる津川鶫汀(らいちょう)、津川祀武憙(しぶき)の兄弟が二枚看板を勤める。
彼らはまさに宝物を受け継ぐ立場にある、と思う。
台詞であり、所作であり、舞台の捌きであり、役者としての構えであり…そして、言葉で言い表すことの難しい「艶」を、その全てを。
旅芝居とは父から子へ、子から孫へと受け継がれる、と語られるものだ。
その、受け継がれるべきものを体現する、「役者の中の役者」が、今なお現場に立つことを目撃できる幸福。
旅芝居を観る者全てが、勝龍治をその眼に焼き付けておくことを、願わずにはいられないのである。