子どものころから役者になりたかった。なにがきっかけだったか思い出せないくらい、それは自然なことだった。息をするのと同じように、芝居の世界が身近にあって、気がついたら、「好きでしゃあない」ものになっていたという。
「最初の記憶にあるのは浪速クラブが満タンで、こぼれるほど人がおってっていう。表の扉開けちゃうからお金払ってない人も見ちゃうんですよね。見えちゃう。それくらいパンパン。当時は15日公演やから、荷物も少ないんやけど、いまみたいに広くないから楽屋もパンパン。わたしら子どもはおるとこないんですよ」
1970年生まれの晃大洋(こうだいはるか)が幼かったころ、父の勝龍治は、弟(二代目小泉のぼる)と立ち上げた嵐劇団の太夫元であり、大看板役者だった。西でも東でも、行く先々の劇場を観客であふれかえらせた。
「学校あがる前はそんな状態で。母親はもう役者をやめてたので、幼稚園から高校まで、学校は全部、家から通いましたけど、幼稚園から帰ってくると、おとうさん大阪で公演中やから、じゃあ今日はちょっと行こかっていって連れてかれるのは芝居小屋でしょ。子どもは楽屋におったら邪魔になるから、客席に行って見てこいって言われるけど、大人があふれるほどおるから見えないんですよ。同じような状況が木馬館にもあって、両脇の扉を全部あけて、外の階段まで人があふれてて。劇場もいまみたいにきれいな袖幕がかかってなくて、やぶれてたりするんです。その間にハンモックみたいにポトンと座って、ぐりぐりぐりーと回って足で止めてると、椅子みたいになるから、その状態で横から見てたりとか。当時、舞台で寝る役者さんが、布団を花道の奥に積んでるんですけど、その布団と布団の間に入ってこう、顔だけ出してみてたり。あー、びっくりした!とかって驚かれるんですけど。邪魔にならないでしょ」
布団にはさまって舞台をみている幼い晃大洋は、さぞかしかわいかっただろうと想像する。邪魔だと言われながらも、子どもは手が足りなければ借り出される戦力でもある。ひとたび仕事を任せられれば、子ども扱いはしてくれない。本気で舞台に取り組む忙しくて理不尽な大人に囲まれて、芝居以外のあれこれも、いつの間にか身に付けた。そして、満場の観客を沸かせる父や叔父たちの姿に、役者への憧れをつのらせた。
「お芝居とか踊りのときに、おばあちゃんがツケを打つんですよね。ツケ教えて、っていまのうちの孫らみたいに言うんですけど、『後ろにおったらええがな』って言うんですよ。後ろにおって見とけと。でまあ、手で打つ場所ないから、足で、こうしておばあちゃんがやってるのを真似して、調子取ったりしてるじゃないですか。普段、道具は触ったら怒られるけど、おばあちゃんが終わってから、こっそりちょっと触ったりとかしてると、これはこうすんねんとか、教えてもらったりして」
夏休みなど学校が長期の休みのときは、父の公演先に滞在するのが常だった。
「中学校あがったら、真ん中の叔父が具合わるなって、叔母が付き添わないといけないから、音響がいなくなっちゃった。夏休み、お前、音響やっとけと。当時、レコードなんですよ。レコード、ピタッと針を置くのってすごい難しくて。でもおばあちゃんたちは、この台詞を言うたら、ここのタイミングで、ふんって入らなあかん、絶対にはずしたらあかんって言う。その難しいのを、たまたま遊びに来たわたしにせえ言うんですよ。弟子でもなんでもないし、役者でもなんでもないけど。でも、できひんかったら、ものすごい怒られるんです。でね、自分に聞こえるように、音量ものすごいあげるでしょ、そうするとおばあちゃんが、あんなね、曲を高くかけられんでも、わたしはお客さんを泣かせると。そやからあんな音はいらん、もっと下げろ、もっと下げろって。毎日、もっと下げろばっかりで。そんなことをなんべんも繰り返して覚えていったんですね。投光がいてないから、投光してこいとかね。ちょっとずつ覚えていったんです」
さらに、大阪という街に生まれて育ったことも、芝居好きに拍車をかけた。
「当時、黄金時代ですよ。大阪って、週末になったら舞台中継やってたんです。土曜日の12時くらいに学校終わって帰ってきたら、昼過ぎから吉本新喜劇やってて、家の用事しながらそれをみる。友達と遊びに行くよりそっちのほうがおもしろかったから。で、夕方になると宝塚歌劇が始まるんですよ。それを見てから、隣のそろばん塾へ行く。日曜は、お昼くらいから松竹新喜劇。藤山寛美さんね。それも生中継やったと思うんです。夕方くらいになったら、また吉本が始まる。夜、NHKでなんかよくわからない分野の芝居やってたし。それが楽しくてね。もう週末はずっと、そんなん見て、泣いたりわろたりしてたんでね」
「ちっさいときはね、藤山寛美さんイコールおとうさんと勘違いしてたんです。家の向かいが布団やさんでね、奥でおばちゃんが藤山寛美さん見てるんですね。『あ、たけみちゃーん(本名)』って呼ばれて入ってくでしょ。わたし、そのテレビ指差して、おとうさん出てるって。『え? おとうさんどこに出てんのー?』って。冗談やなくて。もうほんとに、うちのおとうさんやと思い込んどったんですよ。普段、会えないから。カツラつけて、芝居やって、三枚目して、おもしろくて。うちのおとうさんもそやったから。高田次郎先生も大好きでした」
後年、そんな憧れの高田次郎から、松竹新喜劇に来ないかと誘われることにもなるのだから、人生なにが起こるかわからない(その話はまたのちほど)。
そうやって鍛えた審美眼は子どもながらにゆるぎなく、テレビを観ながら若い役者を、「こいつはうまい、こいつは下手」とジャッジしていたというからおそれ入る。その最たるエピソードが、中学時代に熱をあげたアイドル、マッチこと近藤真彦の舞台だった。
「大好きやったから、マッチが新歌舞伎座で初めて舞台公演するとなったときには、なにがあっても行く!と。しかも『森の石松』をすると。叔父さん(二代目小泉のぼる)の『森の石松』がわたしの石松だったから、これはもう、観たいーっ! てなって。おかあさんに頼みこんで、友達と一緒に行ったわけですよ。すんごい期待して行ったのに、パッと出てきたら、石松じゃないんですよ。石松やけど石松じゃない。わたしの観てきた石松じゃない。なに、この人? こんな石松、知らん!ってなって。次郎長は梅宮辰夫さんらがやってたはずなんですけど。こんな次郎長はいらん!とか。もう、マッチ、ヘタクソすぎる!って。子ども心に。そのあとショーやったはずなんやけど、もう怒ってるから、ぜんっぜん覚えてなくて。楽しくなくて。一緒に行った幼なじみがいまでも『たけみちゃん怒ってたよねー』って。でも、たぶん、そのときに、こいつが舞台に出れるんやったら、わたしも出れるかなって気持ちになったんですよ(笑)。それまで、マッチマッチマッチやったのが、部屋のポスターとかぜんぶはずして。もうマッチなんか、ヘタクソーってなって。なんか、それからですかね。本気で役者やりたいと思い始めたのは」
まさかのアイドルへの失望が、役者の血に火をつけようとは(マッチだけに……)。しかし、役者になることは、実は両親からは大反対されていたという。理由は「女の子だから」だった。
「もちろんマッチの一件だけやなくてね。なろうと思うたのは、だいぶちっさいときやと思うんです。わたし何が好き? ってなったら、役者!って思うてたんです。でもダメって言われてて。ずーっと。母からも『あんたを役者にするために、こないして、普通に仕事してるわけやない』とか、『女の子で生まれてきたからにはあきらめなさい』って。そんなんいっぱい言われてきて。親戚の子は、みなよう舞台に出されとったんですよ、子役に。わたしより歳上の人ですけど。うちのおとうさんのいとこが、わたしらと同い年やったんで。その子らが子役で使われてて。わたしは楽団の歌のときとかくらいで。3歳くらいのときに舞踊ショーで、座頭市をやらされたことはあるんですけどね。白目がむけたんですよ。刀持って。子どもが座頭市をやるっていうのがウケたんでしょうね」
「そのときには出てたんですけど、芝居の子役に出るとかいうのはほぼなくて。おとうさんが、わたしを舞台に出すのがイヤやったんでしょうね。女の子やからですね、ただ単に。昔ながらの考えなんでしょう。女の子は縁の下の力持ちやからいうことやと思います。それもあるし、おとうさんが昔気質の役者なんで、当時は、もう、一歩外出たら、へんな話、タバコ係、肉係、化粧品係みたいな、ほんまそんな感じでズラーっとファンの方々がおるんですよ」
「肉係」に爆笑したが、要は、タバコを買ってくる人、美味しい食べ物を差し入れる人、化粧品を持ってくる人などなど、係別に女性ファンが列をなすほど、モテモテだったという。
「楽屋に順番にこう出ていったら、入ってきてみたいな。もちろん、お客さんらも、わたしのこと知ってて、たぶんこの子が(勝龍治の)子やなってわかってるから、だまって子どもだけ連れ出して、お金くれて、『龍治さんの子?』とかって聞かれたりするんですよ。言うたらあかんから、言うたらあかんねん、って、言うてるようなもんやけど(笑)。『いや、ほんまのこと言うてええよ、知ってるから』って。『おかあさんは?』来てない、来てない、とかね。そんなんやから、おとうさんにおとうさんて言えない家やったんですよ。もちろん家では、おとうさんて言えるし、パパって呼べるけんやど、楽屋では言うたらあかん、お客さんの前では興ざめするから言うたらあかんっておばあちゃんに言われてたから。自分の父親の部屋にお客さんが来てたら入れない。そういう世界にわたしが行っても邪魔になる、って言われたんですね。おかあさんに」
そう言われたところで、納得できるはずもなく。
「なんやろか、わたしにしたら、舞台の上のおとうさんとおじさんに憧れたんですよね。おばあちゃんが達者やった、ゆうのんと。亡くなったおじいちゃんがまた、めちゃくちゃ芝居がうまかったんですよ。すごいうまかったっていうのを覚えてて。そういうなかで育ってて、どこへいっても役者やのに、なんでわたしはダメなん? って。いとこととかもね、子どものときから役者にするみたいにして、おおきいされてるやないですか。なのにわたしは女の子だから、役者は論外だし、役者の嫁さんとかじゃなくて、どっかの社長の嫁さんなれとか、もっと偉い人の嫁さんなれ、みたいなこと言われるわけですよ。そんな人まわりにいないじゃないですか、役者しかいないのに(笑)。なにを言うてるんやろ、この人って。わたしはずっと、普通の暮らしをしてるから、たまに帰ってくる父親が、時代錯誤に思えてました」
とはいえ、大衆演劇界において、女優が舞台の真ん中に立てない現実は、いまよりもっと根深いものがたしかにあった。
「うちはおばあちゃんが女座長でやってた人やから。だからよけいに、なんで女だからダメなのか、納得できんかったけど、でもその初代のおばあちゃんが病に倒れてしまって、もう舞台には立てなかった。二代目辰巳龍子、のぼるさんの奥さんね、いまののぼる会会長も昔から舞台出てはるけど、座長の奥さんっていうポジションで。おじさんの相手役として、看板として舞台に出てはった。名花一輪っていう感じで。でも、その人でさえ、子どもを産んで、その子らが学校行くってなったら家帰らされた。その人でさえ、帰らされるんやと。わたしにしたら不思議でした。あとうちの母親も舞台出てなかったし、まんなかの叔父の奥さんも音響かけてたから、両方とも舞台に出てない。女優ゆうても、若衆がおるくらいで。その当時の女優のイメージが悪すぎましたね」
それでもすぐには納得できない。
「役者をするなと言われたときに、大衆演劇やからだめなん? と。いまさら大衆演劇の子が宝塚に入れるとも思うてないけど、どうしようかな、新喜劇入ろうかな? とか、いろいろ考えました。まわりの商店街の人たちが、あんたは新喜劇やね。吉本新喜劇に行けとか、松竹新喜劇が向いてるとか。でも、喜劇は好きやけど、わたしがやりたいのは喜劇じゃないというか、喜劇だけがやりたいわけじゃない。そんな感じで、あれも無理やなそれも無理やな。一番何が好きかな、ってなったときに、おとうさんらがやってる芝居がやっぱり好きやって思うわけですよ。大衆演劇やりたいなって。一度、おとうさんに、よその劇団に行ったらあかんよな? て言うたら、『あたりまえやろ! あかんものはあかんのや! ひつこい! 1万円やるから出ていけ!』って。もう中学生でしたから、さすがに1万円じゃ一人で暮らしていけないことはわかりますから、あかんなと。親があかんものはあかん。そこはね、親は絶対なんで。ばーっと怒られても黙ってるだけで。逆らったことないですよ、いまだに。逆らって、わーって言い返すいうことはないです。だからうちの子どもら(津川鵣汀、津川祀武憙)がうらやましいですよね。わたしに逆らってくるから。違うもんは違うとか、おかあさんの時代じゃないとか。しぶちゃんなんか、これは俺のやり方だからとかね。お兄ちゃんは逆らうっていうか、無言を決め込むっていう。まあね、師匠であるおとうさん(津川竜)には、絶対逆らいませんでしたけど」
役者の道は絶たれたも同然。だからよけいに思いはつのった。
「ほかの人みたいに、役者になれ言われたり、無理やりやれ言われたりではなくて、わたしの場合は、なりたくてなれないから、よけいなりたかったのかもしれないですけど」
それでも、親には逆らえないと、一度はあきらめかけた。
「じゃあなにしようと思ったときに、せめて演劇に携わることしたいと思って。ヘアメイクアーティストっていうのを知って、じゃあわたしヘアメイクすると。そのころちょうど、特殊メイクの技術にスポットが当たってて、わたしその特殊技術のヘアメイクさんになって外国行くと。外国行って、ママ呼んだるわな、って言ったりしてたから、親も安心したんですよ。だったら高校行って、ヘアメイクの学校行きなさい、みたいにいわれて。中学卒業したら直接いかれへんの? って言ったら、いや高校行かないかれへん、って言われたんですよ。ああ、そうなんや、高校行かなあかんかと思ったのが中三の夏休みももう過ぎたころで。とりあえず友達に、どこの学校いくの? って聞いたら、たけみちゃんは? って言うから、わたし役者やるつもりやったから、高校も決めてない。まだ先生にも高校行くって言ってないしーって。12月くらいに決めなあかん、1月に願書出さなあかんからって。あわてて決めるのに、家から近い高校の名前二つ紙に書いて、友だちとヨーイドンで紙落として、先に落ちた方がゲン悪いから、あとから落ちた学校行こうって、ふたりで受けて受かって。で、高校行くことになって、入学式の日に、制服姿をおとうさんに見せようと思って劇場に遊びに行ったんです。そしたらそこで、津川さんに会うたんです」
晃大洋、15の春のことだ。役者の夢は? 津川竜との出会いの先は? 物語は次回へ続く。
(2023年11月28日、12月9日 三吉演芸場)
取材・文 佐野由佳