あなたはなぜ大衆演劇を観るのですか?

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大衆演劇を初めて観たときの衝撃は忘れられない。不義理をした女房なのに見放すことができず、思わず手をさしのべてしまう男の割り切れなさ、優しさが心に沁みた。台詞はない。身のこなしだけで男の気持ちは痛いほど伝わってきた。不意打ちをくらった。失礼ながら、こんなにもうまい芝居が観られるとは思っていなかった。ヘタな歌舞伎より小劇場演劇より、よほどおもしろいと思った。以来、もっと早く観ておけばよかったと、焦るような気持ちで劇場やセンターに通った。

あれから十年あまり、ここのところ、どうも腑に落ちないことが多い。芝居もいい、ショーもいいのに、なぜか客席が埋まっていないということが増えてきているような気がする。

努力をおこたっているわけではない。新しい試みや動きもあるなかで、それが本当に大衆演劇の未来につながることなのか。大衆演劇の危機は何度もあったというが、今まさにその時を迎えてしまっているのではないだろうか。世の中の変化が知らず知らずのうちに表れてしまうのがエンタメであり、なかでも客席との距離が近い大衆演劇は社会の影響をとても受けやすい。このやるせなさはなんなのか。何がどう変わろうとしているのか、山根演芸社の山根大社長に聞いてみた。

「お客さんと劇場と役者との共犯関係で成り立っていたのが全部崩壊して、お客さんが役者に求めるものというのがわからへんようになった。逆にオレのほうが大衆演劇ナビさんの意見を聞きたいくらいやねん」

興行師ですら頭を抱えるほどの状況だったとは……。原因のひとつは、大衆演劇のありようが変わったことにあるという。

「昔は興行というものが今に比べたらずっとラクやった。劇場にお客さんが付いとって、どの劇団が来ても足を運んでくれてたのに、今は大阪、名古屋、九州、どこの劇場に行っても幕が開くと同じような顔ぶれのお客さんが座っている。劇団についていくお客さんが主流になったということやねん」

さかのぼれば、バブルがこの業界にもたらしたものも大きかった。

「バブルになって、ヘルスセンターとか旅館での公演のかわりに、都市部のスーパー銭湯での興行が増えた。仕事帰りの男性が芝居を楽しみに劇場に来てたのが、スーパー銭湯となると昼に時間のある奥さまのほうが来やすい。女性客が増えていくにつれて、だんだん芝居よりショーのほうが中心になっていった。近所の劇場で待ち構えていて、どの劇団が来ても観に来てくれる、いわゆる常連さんがだんだん減っていった。旅芝居を庶民が支えるという基本的な構図がくずれて、バブル以降は人気劇団というものが生まれてくるようになった」

始まりは、里見要次郎だった。

「里見要次郎という存在がひとつ大きくあって、そこに姫京之助が出てきて、人気劇団というものの雛形ができあがった」

山根さんが里見要次郎を紹介するときの決まり文句、「大衆演劇界の帝王」というのは印象だけではない、歴史的な裏付けがあってのことだったのだ。

「『カッコよさ』の境界を広げた役者だよな。それまでとは違う『カッコよさ』を。一方で、違うテイストを姫京之助が持ち出して、両雄が並び立ったという。(大川)良太郎とか(恋川)純弥は世代的に要次郎チルドレンやな。姫チルドレンか要次郎チルドレンやねん、みんな。彼らが人気劇団の雛形をつくっていった流れの果てが今ということやねん。この流れっていうのがバブルが終わっても続いて、多少の浮き沈みもありながらそこそこ続いとった。ところが、コロナ禍が終わって客の入りが急激に悪くなった。何が本当にお客さんがいいと思ってくれるのかわからなくなった」

この1年の変化はあまりにも急激だったという。

「座長がいい男だから、座員がたくさんいるから、えぇ芝居ができるから、えぇショーができるからといったところで、客が入るとは限らない。オレたちは入れ方やから、役者としてちゃんとやっている、、劇団としてのマナーもいいとなれば、自信をもって勧めるんやけど、そういう劇団をもっていっても客が入らない。それが苦しい。自分らのスキル、クオリティを上げていって、それが結果につながるはずやろうと思っていても答えが出なくて苦しんでる役者も多いと思う。オレも苦しんでる。すごい苦しい」

客席で感じているどころではない違和感が興行師を直撃している。真っ当な努力が集客につながらないとしたら、役者はどうすればいいのか。熱と力の奮闘公演。大衆演劇における伝家の宝刀ともいえる熱と力ですら、通用しなくなってしまったのだろうか。

「オレが近江飛龍やったら一緒にやっていけると思ったのは、やっぱりあいつの中にある親の代から継いでいる熱と力みたいなものやねん。もともとは内向的な人間なはずやのに、舞台にあがったらタガが外れて狂ってしまう。そういうのって、飛龍に言わしたら当たり前のことで、熱と力なんてことは飛龍はあえて言わないやろうけど、舞台のあと、飛龍にはたぶん何も残らない。毎回、出し切ってるから。そのくらいのものをオレたちは観たいわけやん。それを1500円、2000円くらいの金でっていう、そこやねん。だから、それが、うちのおじいちゃんの代から、親父の代から引き継いでやってきてるうちの家業の意味であって、そういうのを守っていかなあかん」

近江飛龍が手を抜くところを見たことがない。いつなんどきでも限界ギリギリどころか、限界を超えてくる。破天荒な舞台の向こうに、飛龍のあふれるほどの気合を感じて心を打たれる。そしてあの、憎めないチャーミングさ。客だけではない。ゲストで共演するほかの劇団の座長たちも、飛龍と一緒の舞台では、普段は見せない顔を見せる。明らかに、触発されている。

「熱と力ってヘタな人間の言い訳になるじゃん。ヘタだけど、情熱とパワーだけはこめてますよって。汗が飛び散るような舞台を見せる気迫はありますよ、って。でも、そういうことやないねん。今までのオレたちが言うときの『なんでもあり』っていうのは、それは飛龍がやってるようなことやった。ここにそれを持ち込んじゃうの?っていう意外性。津田耕治の歌にマイケルジャクソンをくっつけたあいつの舞台がカッコいい。いきなり、B‘sのラブファントムで吉原を舞台にした舞踊をやるあいつがカッコいい。そのエニシングゴーズ、『なんでもあり』が旅芝居の生命線やったのに、いまどきの『なんでもあり』は、ただの出来の悪いもんになってしまってると思うんや。多様化ということは、ダメなものにバッテンをつけられないということ。みんなが主人公、みんなが素敵。そんなわけないやろッ、磨き上げた奴だけが素敵に決まってる。でも、そうではなくなっているという、この状況」

思わず、言葉に熱がこもる。そのいらだちは痛いほどわかる。『なんでもあり』は、大衆演劇ならではの大きな魅力だ。でもそれは女形の化粧のまま、白い顔に真っ赤な口紅のまま石松を踊っていいということでは決してない。大衆演劇にも守るべきルール、規範はある。そのルールのなかでいかに遊べるかが腕の見せ所なはずだ。

「辻井伸行がジャズをやれるかっていう話なのよ。クラシックのピアニストである辻井は美しい音をもっている。でも、ジャズは演奏できない。ジャズは細かい音の出し方は二の次で、相手に対してどう反応できるかとか、その場その場でどんなふうにやっていくかってことが大事になってくる。だから、旅芝居とジャズって親和性があると思うんやけど、お客さんが入ってる、入れられる座長っていうのはジャズプレイヤーやねん。そういう素地のある奴が生き残っていく」

ただただ、お笑いのセンスがいいだけでは勤まらない。相手のセリフや動きに瞬時に反応できるだけの回転の早さ、言葉のセンス、間の良さ、ありとあらゆる能力が求められる。小劇場演劇でもアドリブで思いがけない笑いが起こることはもちろんあるが、大衆演劇の比ではない。台本がよく練られていて終始笑いが絶えない小劇場演劇もあるにはある。でも、大衆演劇は芝居の筋とは関係なく、役者の腕ひとつで笑いの渦を巻き起こす。計算しつくされたお笑い芸人のライブとは全く意味が違う。たった今、この瞬間だけの奇跡のような笑いが押し寄せる。もう勘弁してくださいとお腹が痛くなる。そんな演劇は大衆演劇しかない。

「旅芝居ってそもそも台本なんかなかったからなぁ。座長が台詞を喋って座員が覚えるというのが基本であって、台本があるのは旅芝居じゃない、本来なら。そんなもん、オレ、ほんまやったら(勝)龍治先生に台本なんか読ませられない。こっちの話のココと、あっちの話のココをくっつけるみたいなことで芝居を自在につくれてしまうのが大御所先生たちの世界であって、それこそが旅芝居というものやったわけやんか(勝龍治連載こちらから読めます)。でもな、勝先生に任しとったら、台本に全然足らんところがあっても、先生が勝手に足して言ってくれてるというのがすごいところやねん。たとえば、オレが書いた台本でもそうやった。台本にはない台詞をちゃんと先生が言ってくれて、つなげてくれてる。そういうことを完璧にできるのが大御所先生たちの腕やねん」

そういう能力があるからこそ、あればこそ、笑いを巻き起こすこともできれば、涙を絞ることもできる。この芝居のツボはどこにあるのか、この役はどういう役どころなのかを考えようともしない役者にはとうていできないこと。おなじみの芝居をいかようにもできてこそ、腕のいい役者と言えるのではないか。

それなのに、台本ありきの舞台は増える一方だ。驚くような展開に感心した舞台もあった。これを2000円で観られるのは価格破壊すぎるだろうと心配になることも多い。しかし、きっちりとした台本をもとに大がかりな芝居を贅沢なキャストでというのは、大衆演劇にとって好ましいことなのだろうか。本当にそれで客は劇場に戻ってくるのか、疑問でならない。大がかりといったところで、劇団新感線や歌舞伎に勝てるわけがない。演じている役者ですら予想もつかない笑いや涙で舞台と客席にグルーブを巻き起こす、その一点において大衆演劇は新感線はおろか歌舞伎にだって勝るとも劣らない。想定外、台本には関係のないところにこそ、大衆演劇のうま味はある。短い稽古日数で新作台本ありきの公演となれば、段取りどおりきっちりとこなすことに集中せざるをえなくなる。大衆演劇の役者が台本通りの芝居をするのは、大衆演劇の最も鋭利な武器を捨てるようなもの。じつにもったいない、本末転倒という気がしてならない。

客は舞台ではなく人を見にくる

そんななか、山根さんが注目しているのが劇団輝だ。

「葵たけし君が座長で7人しかいない。みんな家族や。小さい劇団なんよ。でも、こいつらのハートがすごくいいと思って。今年になって、奈良のやまと座からポンと入って、池田(呉服座)にのって、(羅い舞座)堺東にのって、箕面(温泉スパガーデン)にのって、最後に浪速クラブっていう双六をつくって、最後6月の浪速クラブで、今年前半ではトップやったん、たった7人の劇団やのに。正直、できるかできないかでいうと、できないことも多いし、この前も『吉良仁吉』やってんねんけど、神戸の長吉とか、足袋はだしで出てきてそのまま二重に上がるのよ。ちゃんと履物をはいてくれば履物を脱ぐときに、ひと芝居できる。そういうこともちゃんとやらないと」

といったことから、山根さんが教えさとしたというのも、なかなかの驚きだ。手取り足取りと言っていいだろう。

劇団輝の若座長・長男の覇士大虎(真ん中・はくとだいご)、副座長で次男の武幻龍大(左・むげんりゅうだい)、三男の匠志雄大(きょうしおうだい)。いい感じでタイプが違う3人が揃うとなかなかの迫力。

「三人兄弟の下に、いちばんちっちゃい13歳の女の子がおるんやけど、この子が終わったら、いちばん先に楽屋から飛び出して、お客さんに『ありがとうございましたーッ!』って絶対言うんや。若い男の三兄弟もパッと出て行って男のお客さんに『ありがとー、お父さん、また来てねッ!』ってやる。それを見てたら、いまこの業界のなかで、この努力しかないなっていうことをあいつらが見せてくれた。そういうことやったら、オレはこいつらにのれるなと思った。こいつらをマルにしてやらな、こいつらの立つ瀬がないってことやねん」

いちばん下の妹の桃色さくら。座長である父親が口上で言い間違えたとたん、横からツッコミを入れる。娘なのに夫婦漫才のような風格。年配のお客さんと話すときもちゃんと腰をかがめたり、12歳とは思えないしっかり者。

浪速クラブ上半期トップの成績を引っさげて、劇団輝は7~8月の2ヶ月間だけ関東にやってきた。行田もさく座の8月公演。最後の日曜日は覇士大虎若座長、長男の祭りだった。花道より前はぎっしり満席、見事トリプルの大入だった。

「弟たちが目立つように気を遣ってしまうのが長男の大虎やねん。そのやさしさは美点やけど、そこで止まったらあかん」と、山根さん。
最後の日曜とあって千秋楽近くの切なさが客席に漂う。葵たけし座長が照れたように大入の垂れ幕の紐を引くのが印象的だった。

隣りの常連の女性が嬉しそうにいろいろと教えてくれる。「今年は6月の荒城もよかったけど、今月がいちばん。去年よりすごくうまくなった。特に三男の雄大くん。昨日も来たし、明日も来るつもり」。今年は篠原までわざわざ橘劇団と劇団美山を観に行ったという大衆演劇ツウな女性がすっかり夢中になっている。芝居は『月夜の一文銭』だった。いつも見慣れているのとはかなりストーリーが違っていた。送り出しで牙次郎を演じていた三男の匠志雄大に「普通のと違うよね?」と聞いていると、さっきまで雄大の写真をバシバシ撮っていたファンの女の子が「呼子が出てこないの珍しいよね」と会話に入ってきてくれた。「そうそう、あそこでまた笑えたりするよね」と、思わず盛り上がってしまった。お客さんどうしがギスギスしていない、おおらかな感じというのも、この劇団らしい。「ティッシュもらってない方いませんかぁ~?」と、劇団でいちばんエライはずの葵たけしがティッシュを手に声を張り上げている。

「次男の龍大は舞台にスケール感がある。それを自分で意識して大きな舞台を目指してほしい」と、山根さん。
いかにも三男らしい笑顔がキュートな雄大。物販で客席を回るときも送り出しのときも、とにかく腰が低い。お客さんの近くにという気持ちがストレートに伝わってくる。「舞台がシャープ。十代のトップになれ」と言うてやったと、山根さん。

「ティッシュをもらってない方いませんかぁ~?」と、たけし座長。この親にして、この子どもたちという、お客さんへの心のこもった接し方がとても自然。

役者は「ありがとうございました」と必ず言う。送り出しの習慣として、ただただ口を動かしているだけなのか、心がこもっているのか、どうしたって伝わってきてしまう。いくら元気がよくても、どんなに感じがよかったとしても、血が通った「ありがとう」なのかそうでないのかはわかる。親のしつけがどうとか性格がどうということではない。大好きな舞台に今日も立つことができた喜び、今日も舞台が楽しかったなと思えているかどうかによるのではないかと、いろいろな劇団を観て思うようになった。まだまだもっともっと勉強しなければという、未来に向かって走っていく力強さ、舞台にかける気持ちが『ありがとう』という言葉に本気をのせる。観に行ってよかったという気持ちにさせてくれる。ベテランであろうと新人であろうと関係ない。たとえ、それが舞台としてとびっきりの出来ではなかったとしても、いいものを観たという満足感に満たされる。それが、大衆演劇ならではの魅力であり、恐ろしさでもある。舞台と客席の距離の近さは、すなわち心の距離の近さでもある。

「これがつらいところなんやけど、舞台の良しあし以前に、何かあるっていうのがこの業界なんやねん。お客さんは舞台を観にくるんやない、人間を見にくる。新世界なんかでは特にそうや。葵たけしっていうのも葵一門のなかでいろんなことがあって、なんせ三人兄弟のいちばん裾(すそ)の子がお腹に入ってるときに劇団旗揚げしてるから、今年で20周年。で、今回、浪速クラブにのったとき、『オレたちがお母さんを浪速クラブに連れてきてやったんだぞ』って、子どもたちが自慢したという話を舞台でしながら、たけしが号泣したんや。ものすごい、本当に、そういう姿を見とって、やっぱりこれしかないんじゃないのって思った。旅芝居ってくさいけど、熱と力しかないと思って。正直、芝居もショーも、まだまだなんやけど、でもな……」

客が求めているものが見えにくくなった今だからこそ、劇団輝が放つにごりのない光が山根さんにとってはなによりも心強いのかもしれない。

「愛っていうのは、自分を差し出すということやんか。お客さんは自分を差し出してこいつらを観てやる。役者のほうも自分を差し出してくれる。その相互関係というのが、投資の複利のようにあいまっていくのが本来なんや」

芝居で子分として後ろにいても、群舞で端で踊っていても、舞台にいられることが楽しくて仕方がないという気持ちがあふれている。蝋人形のように固まっている役者がいないことの心地よさ、すがすがしさ。

よく『お客さんから元気をもらう』という言い方をする役者がいる。自分の演技やショーを目をハートにして観てくれる客のキラキラとした気持ちが役者をよりいっそう輝かせるのは当然のこと。輝きを増した役者に、客はさらに胸を熱くする。まさに、キラキラがキラキラを生んでいく。そのキラキラを利益が利益うむ投資の複利にたとえる山根さんがおもしろすぎる。ピチピチした若い男の子が元気よく踊っているから元気をもらうのではない。いま持てる力を惜しみなく出し切って、できる限りの舞台をつとめようとしている、その心意気に触れたとき、客の心も震える。

「お前ら変わるなよ、と輝に言い続けたのはそれやねん。そういう思い。それがやる場所によって変わったらそれもいややし、あくまでも大阪でオレの手元でやってきたやり方っていうのを変えずにやってくれさえすれば、どこでも通用するはずなんや」

そういう役者が増えることでしか、大衆演劇の本来の姿、共同体は戻らない。言ってしまえば、うまいとか下手ではない。舞台にかける姿勢こそが問われている。

SNSは大衆演劇を変えてしまうのか

「お客さんとの間の絆っていうのをどうやって回復していくんかっていうときに、その絆の真ん中でSNSとかが、ごっつう立ちはだかってるわけや。だから、いっぺん足運んでもらって、役者の手に触れてもらうしかないと思うけど、どうやったらいっぺん観てもらえるんやろう。それが本当にわからない」

YouTube、Insta 、TikTokといったSNSが人々の流れを大きく変えている。

「飲食店を経営されている方に聞いたんやけど、地方でも今は人通りが多くても少なくても関係ない。SNSで評判になれば、どんなに不便なとこでもわざわざ探して来てくれると」

 都心にInsta で大人気、土鍋に動物の顔がついていてかわいいというだけで大行列のうどん屋がある。決してまずいわけではないが、Insta に載っていたというだけの理由で、3時間も並ぶことを馬鹿々々しいと思わないのはなぜなのか。

「そんなうどん屋に3時間も並ぶっていうことは、結局、出汁もうどんも好きやないということやねん。味が勝負やなかったの?食い物屋さんって」

芝居をきっちりやっていても大入がなかなか出ない劇団がある一方で、年寄りの役のはずなのに白髪頭を嫌ってか、若いかつらで平気で出てくる座長にキャーキャー大入満員の劇団もある。そんな調子だから、声の出し方も身のこなしも若者のまま。演技以前、芝居の解釈すらしない。役者は芝居の腕が勝負ではなかったのか。

家族で手を抜くことなく昔ながらの仕事をしてきた町の定食屋、ラーメン屋がどんどんなくなっていっている。後継者の問題だけではない。より安いチェーン店に人が流れていることにも原因はある。おっちゃんが昆布とかつおで毎朝出汁をとってつくってくれる800円のうどんより、チェーン店の400円のうどんで構わないという客が個人商店をつぶしていく。客が美味しい店を選ばなければ、いくら美味しいものを作っていても、店は世の中から消えてしまう。同じことが、大衆演劇の世界でも起ころうとしているのではないか。本当に大衆演劇を好きだったら、芝居がいい加減な役者に熱をあげるなんてできるはずがない。その役が本来年寄りの役ということを知らなければ、その役者がおかしいということに気づくことはできないかもしれない。小さい頃から大衆演劇を観に行くことが日常だった時代とは違う。ドリフのネタに歌舞伎や新派の演目がバンバン取り入れられていたのはとうの昔のこと。とはいえ、このままでいいわけはない。

その役が年寄りということを客が知らないままキャーキャー言うのは仕方がないとしても、役者のほうはそれではすまされない。きちんとした芝居をしていても客が入るとは限らない。ならば、芝居に力を入れても仕方がないとあきらめてしまったのだろうか。そうではないだろう。事ここに及んでしまった以上、客も手をこまねいているわけにはいかないのかもしれない。役者を育てるのは客、とはよく言ったもの。客も修業、舞台は客席の鏡でもある。

「お客さんが何を求めてるのかわからないというのは、そこのとこやねん。オレも今日(2024年7月下旬)つくづく考えたんやけど、なんで考えたかっていうと、大阪ローカルのバラエティ番組で『正義のミカタ』っていうのがあって、この間の東京都知事選をとりあげてて、数量政策学者の高橋洋一さんが数量計算だけで1位小池、2位石丸、3位蓮舫までの投票率を全部当てとったん。どういうことかというと、政策なんか関係ない、イメージをもとに計算するだけで当選結果がすべてわかるっていう話やったんやけど。一方で、社会工学者の藤井聡っていう人は、この結果から見て日本の民主主義は危機的やと。昔はまず、人なくば立たず、選挙といえば人品骨柄が第一やったのに、そういうものではない、ただの人気投票みたいなことになってきてて、要はSNSというものがものすごい力を持ったということなんや」

蓮舫より石丸伸二に票が集まった原動力はTikTokなどのSNSをたくみに使った戦略にあったと言われている。そこで政策を語っていたわけではないのに結果は上々ということの後味の悪さは、すなわち、芝居がいいのに客が入らないということと相通ずる。政治家にとって最も大事なはずの政策が置きざりにされていることと、大衆演劇にとって最も大事なはずの芝居の腕が評価されなくなってきていることは無関係ではない。

「浪速クラブなんかですら、もっとSNSを充実させなあかんって外人さんに言われたらしい。似合わへんけどな。劇団美山や都なんかもいち早く取り入れてやってるけど、彼らの劇団にお客さんが集まるのはいまんとこそのせいやない」

楽屋からのInsta ライブが集客につながることもあるだろうが、本来は、劇団がコントロールできない誰かしらの発信こそが集客を左右する。今のところ、大衆演劇を熱く語るインフルエンサーは見当たらないようだが、いつなんどき現れるか時間の問題かもしれない。

「SNSのいちばん恐ろしいところはフィルターが全くかかってないことやねん。これがいちばん恐ろしい。玉石混合になってきたら石のほうが多くなるのは当然で、その石というのも玉と同じ土俵で評価しなければならない。なぜならば、それが多様性と言われるものやから。多様性と言われるものに対してバッテンをつけることは政治的に正しくない。でも、そうやない。いまどきの多様性っていうのは高速道路とか一般道を走ってるときに、他のドライバーがやってることを全部認めるいうことやねん。どういうことかというと、極端なあおり運転やったり、極端に遅かったり、極端に進路妨害してる奴も、全部、交通法規を犯していない以上はオッケー、なんも悪くないという理屈やねん」

交通ルールという原理原則を守っている以上、あおろうと妨害しようと間違いではないという理屈。間違いではないから、好きなだけあおる、気の向くままに妨害する。

「自分は一切間違いを犯していないという確信のもとにやっているということやねん。多様性を認めるということは、本来の意味とはかけ離れたそういうミニマルな原理主義というのを全部認めるということやねん。それが、SNSの金科玉条や。だから、ほんまにきちんとした精選された考えも、ただたんなる思いつきも全部同じ土俵に並べなければならない。そいういう状況の中で物事が進んでるということやねん」

ならば、どうすればいいというのか。

「やっぱり当たり前なんやけど、送り出しって大事やねん。さわれる。そこで勝負せなあかんいうことやねん。ええ舞台やったらお客さんに来てもらえると思ったら大間違い」

舞台で100%出し切ってるから、送り出しはやらない。個人的にはそう豪語するほど舞台に全力で向かっている役者のほうが、送り出しで愛想をふりまく役者よりよほど信じられる。

「それが正しい努力であるというのが旅芝居の不問律やったのに、そこのところを売りもんとしてオレらは仕事をしてきたのに、それではお客さんはもう来てくれない。舞台を磨きあげるとか工夫するとか、そういったもんで答えを出せる役者はごく限られると思うねん。オレたちが考える旅芝居における正しい努力というものの幅をもうちょっと広げないと、結局、客は来ないッ」

その幅を広げる手段がSNSになってしまわないことを祈るばかりだ。根拠のない、誰が発信したのかわからない情報に大衆演劇が翻弄されることだけは避けたい。

「SNSに左右されない、それに抜きんでる何かを持っていなければ、やっぱり勝っていけない。生き残っていけないと思う」

みんなが同じところを目指さなくてもいい。いろいろな劇団があっていい。熱と力も大事とは思うし、そういう役者にひかれる気持ちもよくわかる。それでも、そうであっても、芝居を大事にする、舞台を第一に考える役者が報われてほしいと思う。

「ただ生き残るためでなく、とオレが言いたいのはそこやねん」

生き残るためだけの、その場限りのむなしい努力の先には、おそらく滅亡しかない。

浅草公会堂、尾上右近の自主公演『研の會』は、まさに歌舞伎命の右近が報われた公演だった。東京公演2日間昼夜4公演のチケットは完売、客席は3階最後列まで埋め尽くされた。右近は御曹司であって御曹司ではない。歌舞伎の家ではなく、清元の家元の息子だ。やすやすと大役をいとめられる立場ではない。だからこそ、自主公演を続けている。去年は夏祭の団七、今年は合邦の玉手、女形の難しい大役に挑戦した。右近でなければできない、新しい玉手だった。カーテンコールでは拍手が鳴りやまず、「喋らないほうがいいですか?」と右近が申し訳なさそうに手を合わせてドッと笑いが起こり、ようやく拍手がやんだ。「自分の歌舞伎愛をぶつけたい、自分が目立ちたい、自分のやりたい役をやりたい」から、自主公演をやっていると右近は興奮さめやらぬ口調で熱く語った。その舞台にこれだけ大勢の人が集まってくれて嬉しい、と。共演した中村鶴松が「こんなに歌舞伎を愛し、こんなに周りを愛し、周りに愛される人を知らない」と言いながら、涙をこぼした。これほどの多幸感に包まれる舞台を久しぶりに観た。歌舞伎座では久しく見ないぎっしりの客席を眺めながら、来年の『研の會』にはもっと大勢を誘って来ようと思った。

右近の歌舞伎への愛、芸道へのまっすぐな気持ち、その芸に魅了される客。役者も幸せ、共演者も幸せ、客も幸せ、スタッフも興行主も幸せ。その幸せのループの中心にいるのは、間違いなく役者だ。

立ちはだかってくるSNSと、どう闘っていくのか。結局は客次第なのだろう。真摯にいい舞台をつくろうとする劇団に客が集まらなければ、そういった劇団はいずれ形を変えざるを得なくなってしまう。大衆演劇らしさとはなんなのか。大衆演劇のなにがおもしろくて劇場に行くのか。

いい役者になることは実に難しい。何をどう努力すればいいのかは人それぞれ違う。やり方も自分で見つけるしかない。その地道な努力、強い思いの先にある舞台をこそ、私は観たいと思う。大衆演劇にとって何が大切なのかを考えて努力をしている役者が報われるようであってほしい。ほかのどんな演劇でもかなわない、大衆演劇ならではのおもしろさが失われてしまわないように、と願ってやまない。

(2024年7月13日 山根演芸社事務所にて)
                            取材・文 カルダモン康子

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