第1回 甘やかされて溺れてた

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古都乃竜也は今年(2022年)4月、一見劇団の座長に就任して5年目を迎えた。ひとつ違いの兄・一見好太郎との二枚看板として舞台をつとめる一方、昨年10月に母であり太夫元だった紅葉子を亡くしてからは、劇団のまとめ役としても奔走する日々だ。

昨年から今年にかけて、舞台の上の古都乃竜也は少し痩せたように見えた。今回の取材を申し込むときに、相棒のカルダモン康子が何気なく「お痩せになりましたか?」と聞くと、「おかあさんが死んでしまったから」とぽつりと答えたという。しかしその大きな悲しみが、きれいな花になって咲いたみたいに、舞台の古都乃竜也は静かな緊張感に包まれて、それまでとは違う空気を醸し出していた。観た芝居は、どれもとてもよかったと伝えると、

「どうなんだろう。そう見えるのかもしれないけど。母が亡くなってから、舞台に費やす時間が短くなって。家のこともあるし、裏のことがあるから、楽屋にいる時間が非常に長くなったのね(笑)。前は、朝起きて化粧するまでに、今日はああしようこうしようってイメージトレーニングする時間があったけど、いま忙しくて。劇団のこともそうだし、みんなの様子も気にかけてあげなきゃと思うし。自分のお芝居や舞踊ショーに割く時間が減ってるから、よくなってるかどうかはわからない」と言った。

古都乃竜也が主役をつとめて人気の演目のひとつに「幡随院長兵衛」がある。町奴の親分幡随院長兵衛が、永年敵対する白柄組から売られた喧嘩を買うために、水野十郎左衛門の屋敷に出向く場面。もう戻ることはないだろうと覚悟を決めて家を出ていくそのときに、息子の長松に、母を大事にと因果を含める。まだ幼い長松は、父との別れを知ってか知らずか、遊んでほしいとせがむ。長兵衛は、長松を背中に乗せて、はいしどうどうと、つかの間、子煩悩な父の顔になる。言葉はなくとも、切ない親子の別れのシーンだ。今年2月のロング公演で上演したとき、古都乃竜也の幡随院長兵衛は、この場面をいつにも増して丁寧に演じているように見えた。息子の長松役は、劇団では唯一の子役、古都乃竜也にとっては甥っ子・美苑隆太の娘にあたる、ベビーひなかがここ数年熱演している。

どんな思いで演じたのだろうか。

「ひなかが頑張ってるからね。どんな思い……、そう、長松に関しては、僕もいっぱい思いがある。ほんとにね。思い、おもい……重いんですわ。お馬さんになってるときに、ひなかがって、ウソウソ(笑)。おねえちゃんになってきてね。かわいいんですよ、あの子。僕のこと、『ちゃん』って呼ぶし。『ちゃん、チョコレート食べる?』って」

しんみり聞いていた話が、まさかのダジャレで腰砕け。笑わせられる。この、どこかちょっと人を食ったような笑いのセンスが、古都乃竜也の持ち味でもある。

同じ2月に、一見劇団は、昼の部は若手中心の「浪人街」、夜の部はベテラン中心の「老人街」と題して芝居を上演した。「浪人街」を、ベテランがやるから「老人街」という、これまでの一見劇団にはなかった企画ものは、演目が貼り出されたときから話題だった。若手の配役の新鮮さもさることながら、おおいに笑わせながら、物語を本道の大団円にちゃんと持っていくベテランの腕が光った。なかでも、荒牧源内を演じた古都乃竜也の存在感に、涙が出るほど笑った。その後、この2本セットは人気の演目として各地で上演している。

ご存知「浪人街」は江戸の小さな居酒屋を舞台に、アナーキーな浪人たちが繰り広げる群像活劇だが、「老人街」は同じ物語の登場人物たちが何しろ老人だから、気持ちはあっても活発に動けない。このちょっと情けない哀愁漂う荒牧老人が、巨漢の女郎(太紅友希)の脇で無言で酒を飲む場面。隣で観ていた相棒のカルダモン康子が、「今年の読売演劇大賞をあげたい……」と、こきざみに肩をふるわせた。

笑わせようとしているわけではない。派手な動きをするわけでもない。むしろ黙って静かに酒を飲んでいる、ただそれだけなのに、古都乃荒牧はその哀愁にじんわりと笑えてくる。

ほかにも、古都乃竜也は「大五郎と鬼吉」の、劇中でなぜか懸命におつうを踊る叔父や、「へちまの花」のおちょんこ相手にひと芝居打つ庭師、「大阪嫌い物語」の大店の後見人である叔父など、喜劇の脇役として笑いのセンスを光らせる。融通が効かなかったり、おとぼけだったり、ちょっと計算高かったりして、でもどこか憎めないという役所を演じて味わいがあり、芝居を盛り立てる。それは同時に、役者古都乃竜也自身の魅力とも言える。「一見劇団ならぬ人見知り劇団」と自虐的に揶揄することもある劇団のなかにあって、社交的でおしゃべり好き、そしてちょっと毒のある、貴重なキャラクターである。

「老人街」で荒牧を演じたあと、哀愁をひきずりつつ口上挨拶。

8人姉兄の8番目の四男坊。古都乃竜也は、紅葉子太夫元が41歳のときの子どもだという。今回のインタビューで、劇団長女の瞳マチ子は、「母は弟たちには甘かった」と言った。それでも三男坊の一見好太郎は、「若いころのおかあちゃんがどんだけ怖かったか」を熱く語ったが、末っ子の古都乃竜也には、たしかに甘やかされて育った自覚があるという。

「一番下だったんで、ぼんぼんやった。朝起きたら、枕元に服が用意されてて、着替えて。夜、風呂行こうかっていったら、バスタオルにパンツとパジャマがワンセット。ご飯が出てきて、はい食べる。布団のあげさげもしてくれてたし。うちの裏方さんがいてね。荷物も持ったことなかった。いまも持たないけど(笑)。おかあさんの育て方がそうだったから。もう、溺れてたね。でも、それが当たり前やと思ってた。よく言われたのは、お前が一番、親子でいる日にちが短いんやからなって。みんなはお前より、1年でも長く一緒にいられるけどって。やっぱりかわいかったんじゃない?(笑)」

たまに舞台に登場する紅葉子も、古都乃竜也には気軽に軽口をきくような風があった。わがままいっぱいに育った末っ子ならではの人懐こさは、気を張って劇団を率いてきた紅葉子にとっても、気の置けない存在だったのかもしれない。

一見好太郎座長座長就任20周年記念公演で。古都乃竜也(左)、一見好太郎、両座長ほか、子、孫に囲まれる、ハチマキかあちゃんこと紅葉子太夫元。

「まあでも、ほめてくれる人じゃなかったからね。よく言われたのは、好太郎座長ができないことをお前がやりなさいって。人とのつきあいや劇団どうしの交流や接待とかね。それはもう、24、25歳のころに言われたかな。別に苦じゃなかったですね。人が好きだから。僕は全力で舞台に向かってくタイプじゃないから。ストイックじゃないし。お前は人付き合いもできるやろ。好太郎座長には、舞台に専念させてやってほしいってことは言ってましたね」

兄弟の性分を見極めて、役割を分担させていたのではないか。はっきりそう言われたわけではないが「おかあさんは、わかってたのかな、向き不向きが」という。

「だいたい普通は、他の劇団だと座長が太夫元ですよね。うちは完璧に分かれてました。公演場所の確保、マネージメント、あと劇団員のお給料から、体調管理から、劇団の経営、運営はすべて太夫元であるおかあさんがやってました。それだけでなくて、舞台の演出もしていた時期もあるし、踊りもこの順番でこの舞踊でって決めてました。舞台のことは座長さん、座員さんに任せてる太夫元もいますけど、うちのおかあさんはそうじゃなかった。いってみれば、総合プロデューサーですよね。監督は全部自分がやるから、座長は決まったことを演じることに集中しろ、っていうスタイル」

もっと自分たちに任せてくれたらと思うこともあったが、紅葉子が自分のやり方を曲げることはなかったという。

「自分でつくった劇団だから、一見劇団はこうだっていうのが強かった。外部の劇団と交流はしない人だったし。僕なんかは、他の劇団を見るにつけ、聞くにつけ、他と比べるわけじゃないけど、おかあさんこういうやり方したらどうかな、こうしてみたらどうかっていう気持ちはあったし、伝えたこともあったけど、お前のいうことは聞かんと。うちが死んで、お前らの代になったら好きにやれっていう人やったから。最近はお芝居はいろんなことさせてくれるようになったんですけど、舞踊で座長が二曲踊るのに、好太郎座長が最後に女形で踊るってパターンが決まっちゃってるのを、オレと順番入れ替えたらどうかなあ、って言っても、いや、ええんや、うちが決めたことやから、うちの言うこと聞いてくれと。若い子の舞踊にしても、ほかの劇団だったら舞台にはまだ出さないような、入ったばかりの未熟な子でも、一曲踊らせてあげたいっていうのがおかあさんだったから。うちは全員、必ず一曲踊るでしょ? 少しは変えたいと何度言ったところで同じことで、まあ、おかあさんが苦労して、パチンコしながら大きくした劇団だから(笑)。あるときからもう、全面降伏しました。優しくて情があって、ほんとに力持ちで、すべてを背負う人で、仕事まで全部自分で背負ってたから」

2021年12月7日につくば湯〜ワールドで開かれた、ファンに向けた紅葉子太夫元のお別れ会で。昼の部の開演前に、思い出話を交えながら挨拶する古都乃竜也座長。

そして、自分がいなくなったあとの劇団をどうするのかも、誰にも言い残してはいかなかったという。

「子も孫もこれだけいて、今後どういうふうにするのか、劇団をどうしたいかとかは、いっさい言わなかった。僕からしたら、おかあさんが思ってるようにしてあげたいけど、どれが正解かはわからない。僕たちが頼りなかったのかな。大丈夫と思ったら、比呂志(本名)頼むな、好太郎頼むな、みんな頼むなって言ったかもしれない。自分たちは大人になったんだ、舞台に出て一人前にやってるんだって思ってても、親から見たら、まだまだだったんでしょうね。もし、この子にならっていう子がいたら任せたと思うんですよ。どこまでも自分がやりたいという気持ちと、まだまだという気持ち、両方あったと思う。亡くなってみて、自分たちが頼りなかったんだとつくづく思いました」

母を亡くして、真っ先に相談したのは篠原演劇企画の篠原淑浩会長(2021年11月26日逝去)だったという。

「21年間一緒にお仕事させてもらった、淑浩会長は僕にとっても恩人です。一見劇団が関東に来てからの21年間っていうのは、いいときもあったし、悪いときもあったし、長かったし深いものだったから。淑浩会長も入院してらしたときだったのに、まずは葬儀をちゃんと終わらせなさい、しっかりしなさいとはげましてくださって。これからの劇団のこともね、具体的に相談しました。誰かがまとめ役にならなきゃいけないんだから、古都乃、大きな荷物を背負ったつもりで引きうけなさい、篠原がついてるからがんばれと。僕にとっては、人とのおつきあいの仕方、仕事の仕方、ものの言い方、お酒はこういうふうに飲むんだよって、20代のときから教えてくださったのが篠原会長でした。最初に会ったころはまだ若かったから、若いって、人に対して無礼でしょ? そういうんじゃだめだよって。話し方、みだしなみまで、きびしく教えてくれました。」

2006年から11年つとめた篠原演芸場の1月公演。恒例の三番叟と鏡割り。篠原淑浩会長(中央左)と紅葉子太夫元の貴重なツーショット。

芸のうえでの師匠である玄海竜二一座の玄海竜二会頭からも、背中を押されたという。

「うちの先生とおかあさんは仲がよかったから。『生前、おかあちゃんが、比呂志にって言ってた』っていうから、ほんとに?って言ったら、ほんとだって。『比呂志をお願いしますって、言いよったぞ』って。僕に直接言う人ではないから。僕は劇団のまとめ役は、誰でもいいと思ってたの。姉さんや兄さんたちにしてほしいって。継ぎたいとも思ってなかったから、するとなったら覚悟しないとできないし。いまの状態で劇団を抱えるのは、負債を抱えるのと同じだから。コロナ禍でね。劇場公演もだけど、お客さん半分以下だもの。でも興行師さんとの交渉は誰がするのかっていうのがあったし、おかあさんの葬儀の喪主もさせてもらったから、劇団を僕にあずけてくれないかと言いました。おかあさんの棺の横でね、劇団全員で集まってもらって。個々の気持ちもあるだろうけど、劇団っていうのは目標持ってやらないことには前に進めないから、三回忌までは、あと2年は、このままおかあさんを供養してあげようよって。みんな頼むよ、このメンバーで、ひとりも欠けることもなくやろうと。そこまでは、おかあさんがやってきたやり方で頑張って行こうと話しました」

太夫元はいまも舞台を見守っている。

ハチマキかあちゃんこと紅葉子太夫元は、口上挨拶に並ぶ息子たちに向かって、アナウンスの陰マイクからよく「しっかりせんかい!」と声をかけた。誰より甘やかされて育った末っ子の座長はいま、誰よりしっかり劇団の行く末を思っている。

第2回へ続く!

(2022年2月19日立川けやき座・3月12日川越湯遊ランド)

取材・文 佐野由佳

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