第3回 諸先輩からお呼び出し

219

里見要次郎は、座長になって劇団を率いるようになった1980年代に、ひとまわり上の座長世代はやっていなかったことを次々と大衆演劇の世界に持ち込んだ。

「最初におもしろいなと思って変えたのは、カツラの色。メッシュ入れたり、ピンクとかブルーとか色入れたりしたんです。自分でやったんですよ。ケッパツできるんで」

ケッパツ!?

「結髪ね。結髪もできないと親父に殺されましたんで。カツラを自分でアレンジしていろいろやりましたね。色のカツラなんて誰も持ってないころで」

芸道60周年記念公演(2025年3月21日 明石ほんまち三白館
)。モノクロームのプリント柄のまな板帯は、20代のころ米国
で知り合った元クロムハーツのデザイナーだった友人がデザイ
ンしたテキスタイルでつくったもの。お披露目した当時、小泉
のぼるが褒めてくれたという思い出深い衣装でもある。

メッシュ入りやカラフルなカツラは、いまとなっては珍しくないが、黒髪が普通だった当時、インパクトは相当だった。世間でもまだ茶髪すら流行っていないころだ。

「大批判でしたけど。諸先輩から座長大会で、『おい、ちょっと来い』って呼び出しですよ。『お前、なめとんか。役者をどう思うとる』と。ショーパブじゃあるまいしどうのこうのって。でも、ええわと思ってほっといたんですよ。そしたらその息子が、僕の後輩なんですけど『あんちゃん、親父からなんか言われた?』っていうから、いや、いつものことよって。そしたら『親父がね、五分刈りのね、ここにメッシュ入れたばい』って。おお、そうかー(笑)。注意したのに、やっぱりかっこいいと思ったんですよね」

トレードマークである星形の泣きボクロも、描くようになった
のは子どものころからという。もともとそこにホクロがあって
、「化粧で滲んだようになってしまうのが嫌だったから、男の
ときは星形、女のときはハート形」で描いていたら、いつの間
にか「要次郎座長に憧れて同じ場所にホクロを描いてます」と
いう若い役者が現れたという。

舞台を沸かせるスタイリッシュな若い座長への、羨望と嫉妬から、舞台でいじめられることも少なくなかったという。

「わざと台詞を飛ばす、きっかけくれない、とかね。『お前、なんか知らんけど、いつもより化粧が濃いな』とか言われちゃう、舞台の上で。お客さんは笑うわけですけど、覚えとけよ、って思ってました。もうお亡くなりになった方々ですから、誰とは言いませんけど」

岡山後楽座、開業14周年記念公演(2025年4月17日)。この打
掛けも20代のころ米国で知り合ったデザイナーのテキスタイル
で製作した。

同じく、当時の友人にデザインしてもらった車(現在は廃車)
とTシャツ、ブレスレット。Tシャツとブレスレットは販売もし
た。写真提供=里見劇団進明座

舞踊の曲に洋楽やポップスを取り入れたのも、このころのことだ。

「なんか変わったことしようと思って。従来の大衆演劇の曲じゃない曲、流行りの曲を、いまはそれがもう主流ですけど。マドンナで踊ったり、ランバダが流行ってるからランバダで太鼓叩いたりとか。太鼓、三味線はつきもんなんで、そうじゃない音楽で踊ろうと。グラスファイバー入れて、電源入れると色が変わる衣裳つくってみようとか。飲み屋に行くと、ブラックライトって流行ってたでしょ? あれ見て、真っ白の衣裳なんだけど、バーンと暗転してブラックライトを当てると花柄が浮き出る衣裳とか、いろいろ考えましたね」

2009年9月中日劇場での舞台衣装から。写真集「座長襲名30周
年記念公演 里見要次郎」より(下2点ともに)。資料提供=里
見劇団進明座(以下同)

楽しい舞台をつくりたかったという。

「昔はね、おちゃらけてたら親父に後ろからゴツンとやられて。『おい、舞台馬鹿にしてんのか』って。馬鹿にしてるわけじゃないんだけど、客席みんな寝てるんスよ。真面目な芝居すると。それじゃおもしろくないんで。やってるこっちも勢いが出ないんで、楽しくしようと。あの頃、なんでもありでした。なんでもやりましたし、先輩から怒られても。この曲使って宙吊りするとか、化け猫するとか、ネタは自分でつくる。全部自分でつくってました。古い芝居を新しいやり方に変えて、全然違う芝居をつくってみたり。レンタルビデオを借りてきて、この映画おもしろいな、よし、時代劇にしようってアレンジしたり。映像を芝居につくりかえるのとか、得意です。すごい得意です。すっごい得意です(三度念を押す)」。

いつの時代も宙吊りが似合う。

舞台を録画してDVDにして販売するということも、先駆けは里見要次郎だった。まだ世間では、ドサまわり、旅芝居と呼ばれていたイメージが強かった前時代的な世界の中に、「いまどき」の空気を送り込んだ。先輩役者からは疎まれても、おそらく当時10代だった後輩世代の役者にとっては、里見要次郎は、「ナウい」まぶしい兄貴だったのではないか。叩き起こしたのは、寝ていた客席ばかりではなかったはずだ。

写真集「里見要次郎のすべて 芝居人生春夏秋冬」より(1996
年 下1点ともに)。

座長に就任した1980年代、90年代当時の舞台を観ていないことは残念としか言いようがないが、20代、30代の里見要次郎の人気が相当なものだったことは、当時の雑誌や週刊誌などへの露出からも推し量ることができる。

週刊平凡(1984年 以下、カッコ内は年代)、別冊太陽(84)朝日ジャーナル(88)、週刊明星(89)、東京人(89)、文藝春秋(94)、週刊宝石(94)など、総合雑誌、週刊誌など一般誌で取り上げられている数がとても多い。現代とはメディアの在り方が全く違うから比べることはできないが、里見要次郎とマスコミの距離の近さ、いや、大衆演劇とマスコミの近さは、いまの時代にはないもののように感じられる。

高度経済成長が完結した1970年代から、バブル景気に向かう80年代は、テレビや雑誌といったいわゆるマスコミの発信力、影響力が巨大になっていった時代であり、逆に言えば、そのテレビによって大衆演劇は客足を奪われていった時代でもある。一方で、そうした流れのなかで失われて行く文化や芸能への愛惜も、引き合う力のように強かった。1982年に大衆演劇を題材にした市川森一脚本のテレビドラマ「寂しいのはお前だけじゃない」が放映され、出演した梅沢富美男が、下町の玉三郎として人気を集め、「夢芝居」(作詞作曲小椋佳)を歌って大ヒット。翌83年には紅白歌合戦にも出場する。こうした流れが、にわかに世間の大衆演劇界への注目を高めた。

18歳の里見要次郎は、まさにそんな時代のはざまに現れた風雲児であり、格好の逸材だったはずだ。

18歳のレコーディング風景。もともと歌は苦手で、歌手デビュ
ーにあたって「すごいレッスンしました」という。写真集とと
もにCDも発売。「北のまほろば」「つれ舞い人生」「雪が舞う
」など、大衆演劇の舞踊曲としても人気のヒット曲多数。歌詞
カードを見ながら舞台で歌う役者も多いが「歌詞は台詞と一緒
、覚えてなくても音に合わせていれば自然と出てくるもんです
。僕はたとえ間違えたって、そうとは気づかせずにソラで三番
まで歌いますよ!」。さすがです。

1984(昭和59)年の週刊平凡(3月23日号)に、『亭主そっちのけで“色男”にイレ込む月亭八方夫人寺脇三千恵さんの1人4役』という、いかにも週刊誌的な扇情的なタイトルの記事が載っている。この“色男”こそ、里見要次郎のことで、「大衆演劇のプロダクションを父の代から引き継いで切り盛りしてる三矢企画の寺脇三千代さんが、いま一番入れ込んでプロデュースしているのが里見要次郎」、という話なのだ。「“九州の玉三郎”里見要次郎をスターとして売り出した仕掛け人」として紹介されている。

事実、里見要次郎は、1981(昭和59)年の座長襲名ののち、シングルレコード、LPレコード、写真集を一度に発売。この週刊平凡の記事が出た年の1月にはなんば花月で「里見要次郎ひとり舞台」を開催している。1990(平成2)年にはクラウンレコード専属歌手となり、1993(平成5)には「炎〜女は火の鳥」でヒット賞受賞。「笑っていいとも」などのテレビ番組にも出演したり、ラジオのレギュラー番組に出たりと、大衆演劇の枠を超えた活躍をしている。

劇団座長をやりながら、そんなスケジュールが可能だったのかと聞くと、

「そういう破天荒なことをまかり通らせてきました。興行師さん、頭痛めてましたけど(笑)、里見要次郎は別だからって言われました」

そう言わせるだけの、実力と影響力があったということだろう。1989(平成元)年発売の東京人(12月号)が「芸能は都市の活力源」という特集を組んでおり、その中で、作家の大竹昭子が『芝居小屋の中は夢世界』と題して、当時の大衆演劇をルポしている。なかに浅草木馬館に出演していた里見要次郎についてのくだりがある。「…一番の魅力は里見要次郎の若さあふれる大胆な身のこなしであろう。大柄なからだを奔放に動かして、演じ、歌い、踊る。客の顔をじっと見つめて視線を集め、つぎの瞬間には何もなかったかのようにぷいと横を向く独特の視線も、彼ならではのものだ。私も知らず知らずのうちにその気紛れな視線の虜になっていた」。そして、世代交替により活気を取り戻しつつあった、当時の大衆演劇の世界をこう綴る。「…一般の考える大衆演劇=年配役者の集団というイメージと大きくかけ離れていることがわかる。とりわけ、一八歳で一座を継ぎ、世代交替のトップを切った里見要次郎一座には若い座員が目立つ。(中略)若手座長は、これまで大衆演劇が売りものにしていた人情・しがらみ路線とは一味違う演出で刷新を図っている。音響やライティングに工夫をこらし。衣装やかつらを華やかにし、踊りも演歌や浪曲ばかりではなく、サンバも踊ればタップも踊る。シナトラばりに『マイ・ウエイ』だって歌うのである」

1984年に出版された最初の写真集を開きながら。時代劇からモ
ダンダンスまで、果敢に挑む二十歳の里見要次郎の姿がある
。「タップダンスも独学で練習してました」という。

里見要次郎は、大衆演劇の世界に風穴を開けることで、外の世界からの新しい視点との繋ぎ役になった。

私自身、里見要次郎を最初に見たのは、実は劇場ではなく1984年発売の太陽(9月号)のバックナンバーである。坂東玉三郎が表紙の「女形の美」をテーマにした号で、「全国の玉三郎 花の競演」と題した大衆演劇の役者10人を取り上げたモノクロのグラビアページに、21歳の若き里見要次郎が載っていた。

そうした当時のマスコミへの取り上げられ方に話をふると、里見要次郎は笑いながら、

「僕はいまこんなんですけど、若い頃、くそ悪ガキだったんですよ。週刊誌とかに取り上げられるときには、タイトルに必ず元暴走族役者とかっていうのがつく(笑)」

暴走族というよりアイドル歌手のような、そして本当にアイド
ルだった1980年代の里見要次郎。ファンと握手をしたら、ダイ
ヤモンドを握らされていた、などという逸話も。「そんな時代
でしたよね」。そんな時代でしたか!

どんなふうに悪かったんですか?

「ほんとに暴走族やってたんで」

え? いつ、どこで? 里見要次郎はほんとは何人もいたのではないかと言いたくなる。破天荒な人生劇場、まだまだ次回へ続く!

(インタビュー 2025年4月17日 岡山後楽座)

取材・文 佐野由佳

関連記事