第1回 初の老け役は14歳

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 長谷川桜を最初に観たのは、大阪の庄内天満座だった。要正大座長率いる正舞座の旗揚げ公演に、ゲスト出演していたところをたまたま観たのだった。観劇歴が浅く、失礼ながらそれまで長谷川桜の存在を知らなかった。うまい役者がいる、と思った。うまいという言い方は平べったいが、登場すると場が締まるとでもいおうか。つい目がいってしまう。舞踊ショーでもそれは変わらず、女優でありながら男前で、同時に観る者を安心させる愛嬌があった。

庄内天満座での舞踊(2019年6月 以下3点同)。

送り出しのときに、とてもよかったです!と伝えると、「ありがとうございます」と言いながら、少し緊張したような、舞台で観ていたときよりも、シンと静かな表情をした。そのことも、少し意外な気がして印象に残った。今回、インタビューのなかで、「実はすごい人見知り」なのだと聞いて、そのときのことを思い出し、合点がいったような気がした。初対面の客に、ほんの一瞬とまどったのかもしれなかった。そして、人懐こい笑顔の向こうに、ひそかな静けさを抱えているそのことが、長谷川桜の強さであるようにも思った。

大衆演劇の場合、圧倒的に男性が主役の物語が多い。必然的に男の役者が主役を演じる。女性の役は大半が、主人公の相手役か脇役である。それだけに、演じる役者の技量によって、その役が単なる主役の添え物に終わるか、印象的なものになるかどうかが決まる。そして実は、芝居全体の質のよしあしを決めているのは、この相手役なのではないかと思うことがある。主役はもちろん大事だが、物語のなかに流れる情感のようなものを、生かすも殺すも相手役次第なのではないか。長谷川桜は、どんな役を演じていても、観ている者を芝居の世界に引き込むリアリティがある。

その日、庄内天満座で昼の部を観たあと、近くの商店街で遅い昼食を食べた。中途半端な時間帯で、開いている店がほとんどなかったのだが、アーケード商店街から一筋外にある居酒屋が営業中で飛び込んだ。夕方の開店までの、本当なら仕込みの準備をしているような時間帯で、客はほかにいなかった。お酒は飲まないでご飯だけでもいいですか? と聞くと、「大丈夫よ。これしかないけど」と言って、ご飯におみおつけ、刺身と紅生姜のてんぷら、サラダにかぼちゃの煮付けやオクラのあえものなどが少しずつ一皿に載った定食を出してくれた。思いがけない充実した昼食が嬉しかった。そして美味しかった。紅生姜のてんぷらが珍しいと言うと、関西では普通だと教えてくれた。しっかり者の女将さんとは対照的な、無口な大将は鹿児島の出身と言った。店内に天満座のチラシが置いてあったので、大衆演劇お好きなんですか?と聞くと、女将さんは「わたしは生まれが新世界の近くだから、子どものころからよく観に行ってた」という。そして「今月、桜ちゃんが出てるからね。店があるからしょっちゅうは行けないけど、途中抜けて、芝居だけでも観たいのよね」と言った。

群舞では、誰より軽やかに笑顔でジャンプ(右端)。

関西における大衆演劇の奥深さを、目の当たりにした最初の体験だったように思う。子どものころから日常のなかに芝居があって、大人になっても、それは続いていく。だからこそ、大衆演劇の劇場は商店街のなかにあるし、長谷川桜は、そうやってわずかな時間でも、ちょっとエプロンをはずして好きな役者の芝居を観に行きたいと思うような人たちに、支持されている役者なのだなと思った。

そして、長谷川桜もまた、日常のなかに芝居がある子ども時代を過ごしたひとりだという。

どんな話も笑顔で始まり、笑顔で終わり、ときどき大爆笑。現在、岐阜在住。永く広島に住んでいたが、大家の事情で引越すことに。恋川純弥座長から「岐阜は家賃、安いですよ」とすすめられ、見知らぬ土地だが住んでみた。移動はしやすいが、「徒歩圏内に飲み屋がないのが残念」という。舞台は主に大阪、ときどき東京。

「出身は大阪です。最初、西九条で、そこから兵庫県の出屋敷。(大衆演劇は)もともと観に行くのが好きで。親が好きだったから、子どものころからよく観に行ってたんです。オーエスですとか、まだ出屋敷にあったときの天満座とか。朝日劇場はあんまり。当時は入場料がちょっと高かったから。10歳のとき、劇団に入りました」 

親子で観劇していた少女時代。写真提供=長谷川桜(以下、同)

相棒のカルダモンとふたりして、えっ? と驚いた。実は今回インタビューをするまで、長谷川桜は役者の子として生まれた役者なのだろうと、勝手に思い込んでいた。なんとなれば、古巣の長谷川劇団総座長である愛京花、その妹でフリーランスの役者である藤乃かなと三姉妹なのではないか、とさえ思っていた。なにも知らずに思い込んでいた非礼を詫びると、「そう思ってる方、多いと思います」と言って笑った。

10歳で入団という年齢にも驚いた。

「観るのも好きでしたけど、ほんとちっちゃいときから、役者になりたかった。小学校にあがったころから、作文にも『わたしは将来、役者になります』って書いてましたからね。テレビの時代劇とかもよく観てました。もちろん、そればっかりじゃないですけど。なんででしょう。占いとかでみてもらっても、役者は天職だって言われます(笑)。親の反対ですか? ついにこのときが来たかって感じだったんじゃないですか?(笑)。初めはもちろんひとりで入るつもりだったんですが、おとうさんがもういなかったし、兄弟もいなかったので、おかあさんのほうが離れるのが無理だってなって。一緒に劇団に入ってわたしが18歳になるまで裏方にいて、投光してました」

入ったのは藤劇団(のちの劇団ふじ)。現在の長谷川劇団座長である長谷川武弥が、藤劇団の二代目座長だったころのことだ。

「舞台を観に行ってるうちに、先生(長谷川武弥)のお子さんたちと仲良くなって。子どもどうし部屋で遊ぼうみたいなことで、初めて楽屋におじゃましたんですけど。その流れで、わたしここに入りたい、みたいな。もともとは、ほかの劇団に入団する予定だったんです。と言っても、入りたいって言ったのが9歳ころのことで、そこは劇団にお子さんがいなかったから、中学卒業したらおいでねって言われてたんです。そのつもりだったんですけど、先に先生の娘さん、息子ちゃんと仲良くなっちゃったんで」

劇団に入り、舞台に出られるようになったばかりのころ。

10歳の、役者修行が始まった。

「基本、師匠に何かを教わるってことはなくて。みんなそうだと思うんですけど、中のことをまず覚えなきゃならない。先輩おねえちゃんたちが、教えてくれました。めちゃめちゃ人数多かったんですよ。うちの先生が当時、座長で二代目藤ひろし、初代藤ひろし先生もいらっしゃいましたし。いまの藤美一馬座長(劇団KAZUMA)と藤千代之助座長(劇団藤☆友)、長男さんはいまフリーになってますけど、三代目藤ひろしのおにいちゃんと。藤仙太郎座長(劇団ふじ)、美月姫之助座長(劇団ふじ)、全員、座長になってますね。みんな一緒だったんで。その奥さんたちとか、ほかに座員でいたおねえちゃんたちとか、大所帯でした」

当時は藤さくらの名前で、大所帯のなか、叱られながら育ったという。

「めちゃ教えられて、めっちゃ怒られてました。だって子供ですもん。最初は着物のたたみ方を教わるとか、そんなんじゃないですか。とにかく、自分で化粧ができて、自分で着付けができないと舞台に出られないですから。いまの子は、着せてあげて、とりあえず出ろみたいなのもありますけど、うちはとりあえず出なくても人数困ってなかったですから。だから、自分でできるようになるまで出られないよって言われて。着物着る練習とか、結構、長い期間やってましたもんね。自分で着られるようになったら、今度は、早くできるようにならないといけない。午前中、学校も行ってたんで。センターとかでも2時間前から化粧しないと間に合わなかったから、2時間授業受けて帰ってきて、舞台の支度して。いまの若い子は器用ですよね。早いですよ。器用にするなと思って。ほんとわたし、ヘッポコだったんで。物覚え悪いし、要領悪いし、できない」

芝居に出始めたころ。右は師匠である長谷川武弥(当時、二代目藤ひろし座長)。おっかさんが死んでしまう娘の役どころ。「まだ、芝居の最中も撮影がオッケーだったころ」の貴重な一枚。

「初めて役をもらったのは藤劇団のとき。いっぱいあるお芝居のなかで、一本だけ、娘役やってみるかって。うちの先生の妹の役だったんですけど。でもやっぱり、ちゃんと役として舞台に出だしたのは、先生が独立して、長谷川劇団になってからですね。それまで、いうても個人舞踊も踊ったことなかったんですよ。歌は歌ってたんです。それも、ついでだったんですけどね。下から入って来る子が、年上なわけですよ。要領いいし。その子だけ、歌で個人で出させようかみたいな話があって、先輩ねえちゃんが、『あんた悔しくないの? 一緒に練習しなさい!』って言ってくれて。じゃあじゃあ、まあいいよってことになって。最初に歌った歌ですか? 『捨てられて』(爆笑)。流行ってたんですよ。あとね『一円玉の旅鴉』それは、歌えって言ってくれたおねえちゃんが、絶対これ歌ったほうがいいっていう、ナゾな教えで。嫌だったんですけどね(笑)」

10歳そこそこの少女・桜が歌う「捨てられて」は、しかしすでに堂に入っていたのではないかと想像する。師匠である二代目藤ひろしが、独立して長谷川武弥座長として長谷川劇団を旗揚げ。師匠に付いて新しい劇団で、長谷川桜となったのは14歳のときだ。

いまとは化粧の仕方も違った。「昔は下地がびんつけ油だったんです」。
楽屋で。覗き込む赤ちゃんは、現在の長谷川劇団若座長・長谷川一馬。
 

「一応、わたしは先生の一番弟子なんで、先生が独立したのでそのまま付いて行きました。本格的に舞台に出るようになったのはそこからです。急でしたね。人数がいきなり減るわけですから、わたしも個人舞踊を踊る数に入れてくれて。初日開く前日にいきなり『踊ったらいいやん。踊れるやろ?』って。で、初めて踊りました。あと、老け役とかもいなくなったから、急におばあちゃん役したりとか。初めておばあちゃんしたの、14歳でした。お化粧の仕方もわからないから、最初だけ先生に化粧してもらったんです。よく、なんでもできるねって言ってもらうことがあるんですけど、する人がいなかったから、できるようになったというだけで。できてるかどうかも、いまだにわからないですけど」

22、23歳のころ(前列左)、三番叟を初めて踊ったとき。長谷川劇団になってからの写真で、中央が長谷川武弥座長、右が愛京花副座長(当時)。
長谷川劇団時代、「瞼の母」でお登世(水熊のおはまの娘)を演じたとき。忠太郎役の師匠長谷川武弥と。かれんな娘役のこしらえでも変顔は忘れない。

「旗揚げ当時、うちの先生と、仙太郎座長、姫之助座長、水木利子ちゃんが子役で出てたかな。わたしと、長谷川舞ちゃん、京也さん(現在の劇団都の都京弥座長)もいました。あと、中学生くらいの男の子がふたりいたのかな。2カ月くらい前に入った新人さんで。仙太郎座長の仲のいい子が小倉にいて、その子が後輩に声かけたら芝居を観に来て、なるなるっていって役者になったんですよね。まあ、小倉のヤンキーみたいな威勢のいい子たちで(笑)。一緒になってサボってました。わたし、素行はめちゃめちゃ悪かったんで。めちゃめちゃ怒られてました、先生に。もう時効だからいいと思いますけど、隠れてお酒飲んだりとかしてましたから。一応、女の子だし、頼むから劇団辞めて帰ってくれって言われたことが、二回あります(笑)」

赤い着物が長谷川桜。長谷川舞(長谷川一馬の母)と悪い顔(?)。

いわく「なんてったって男社会」の大衆演劇の世界で、長谷川桜はいかにして長谷川桜になったのか。

次回へと続く!

(2023年8月27日)

取材・文 佐野由佳

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