第3回 父・人見多佳雄、父・古都乃竜也

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古都乃竜也は昔のことをよく覚えている。まだ子どもだったころの劇団のこと、まわりにいた大人たちのこと。どんな場所を旅してきたのか。母のそばでじっと耳をすませて、周りを見ているような少年だったのだろうか。

「昨日のことは忘れますけどね(笑)」

四つのときに亡くなった父・初代人見多佳雄のことも、かすかに覚えているという。

「舞台に出てる姿とかはあんまり覚えてないですけど、普段、部屋にいるときの様子とか、話し方とか。ひとことで言うと温厚な人でしょうね。舞台が終わったら、みんなと一緒に楽屋にいるような。家族と一緒にいるのが好きだったのかな、いま考えると。お酒なんか飲んでね。うちのおかあさんはお酒嫌いだったから『酒飲むなぁー、隠れて酒ばっかりくろうて』って言うて、お酒を隠してたらしいですね。背はそんなに高くなくて、170センチなかったくらいかなあ。顔はあんまり覚えてないけど、先輩たちに言わせると、兄弟のなかでは僕が似てるって。男前だったらしいですよ(笑)」

父である、初代人見多佳雄。

初代人見多佳雄は、役者の子でありながら、もとは関西テレビで照明の仕事をしていたという。借金を残していなくなってしまった母親の代わりに劇団を引き継いで、姫路のあずみパラダイス(かつてあったセンター)で興行中、舞台を観に来ていた紅葉子と出会い、結婚。二人三脚で始めた人見多佳雄劇団が、現在の一見劇団の前身である。

「おとうさんも、姫路が拠点の人でした。劇団がどういう場所で公演するかを決めるのを、コースを取るっていうんですけど、うちのおとうさんは、自分でコースを取る人だったみたいです。直(じか)コースっていって、自分で直に劇場やセンターと交渉して公演場所を決めてた。それで栃木県の西那須野に行ったり、千葉に行ったり。いまはそういうやり方する人はなかなかいないけど。昔もそんなに多くはなかったんでしょうね。たいていは、興行師さんや受け元さんが間に入ってっていうのが普通だったのに、自分でコースを取る交渉をしてたから、興行師さんに嫌われてたらしい。おかあさんが言ってました。そういう仕事が好きだったのかな。外の仕事のときは、スーツ着て、アタッシュケース持って。大門力也さんとか、不二浪のおじさん(不二浪新太郎)が『君のお父さんはね、役者みたいな格好しなかった。ちゃんとスーツを着て、アタッシュケースを持って、役者の寄り合いに来てたんだよ』って」

そんな父は42歳のときに、8人の子と妻を残して急性白血病で急逝する。

「おかあさんが太夫元になって、座長が姉(瞳マチ子)のだんなさん(故・みやま昇吾)になって。浜松総合プロダクションという興行師さんにお世話になるようになりました。浜プロさんの塩崎社長が、いまはもうない茨城県の千代田ラドンセンターっていうところを取ってくれて、そこにいたときに九州の興行はどうだろうかっていう話を持ちかけてくれたんですよ。僕は子どもながらに覚えてます。それで紹介してくださったのが、九州の興行師の福正企画の野間口社長、錦はやと座長のお父さん。で、3カ月先から九州のコースで行こうかということになった。僕が役者になる前、8歳くらいかな。それが九州との出会いです。それで玄海竜二先生の舞台も拝見するようになりました。玄海先生のお父さま、二代目片岡長次郎先生がうちの劇団も、おかあさんも大事にしてくれて。のちに、僕が劇団を出て片岡演劇道場にお世話になったのも、そういうご縁です」

初舞台のきっかけも、野間口社長のすすめだったという。

「僕は舞台に興味はないし、おかあさんに甘やかされてたから、ゲームせえ、って2000円もらって、健康センターでゲームばっかりしてた。10歳からは音響係やりなさいっていって、2年間、舞台の音響をやってたかな。そしたら、野間口社長が怒って、楽屋で金ばっかつこうて、つまらんから舞台に出えって。それで11歳のときに1カ月稽古して、10月の三吉演芸場やったかな。野間口社長は、一番大変なときの一見劇団のコースを取ってくれて、支えてくれた。大恩人です」

現在、42歳。座長になった古都乃竜也の楽屋には、スーツがかけてあった。インタビューの数日前、一人息子の中学校の卒業式があったのだという。7年前に妻を亡くしてから、離れて暮らしていた息子を劇団に呼び寄せ、一緒に旅をしてきた。公演場所が変わるたびに、学校の転入転校の手続きをして、毎朝7時に起きて、学校へ行く息子を送り出してきた。中学の卒業は、父にとっても感慨ひとしおだっただろう。卒業したら役者になると言ってくれないだろうか、そんな期待もしていたが、大きくなった一人息子は『高校へ行きたい』と打ち明けたという。それはそれで嬉しかったんだけどと、古都乃竜也は、複雑な父の顔をのぞかせた。

「僕はね、息子が中学を卒業したら、舞台を手伝ってくれるんじゃないかなっていうのを、若干思ってたんですね。だけど、息子は担任の先生に、高校に行きたいんだと相談してて、だったら担任の先生からも、お父さんに相談してみなさいと。あ、子供として気持ちは決まってるんだなって。以前はね、一般の社会人にさせたかった。ちゃんとした仕事ーー役者がちゃんとしてないわけじゃないよ、でも普通にサラリーマンになってほしかった。役者になってくれないかなと思うようになったのは、妻が亡くなって、一緒にまわるようになってから。それまでは、息子は妻と大分に住んでましたから。劇団に来る前は、むしろ役者になってほしくなかった。この仕事、大変だし。覚えること多いし。休みがないし。カツラ、着物つくらなきゃいけない。自由がない。仕事のつきあもしなきゃいけない。自分の子どもに同じこと、って思わなかった。どんな仕事でもいいから、自分のしたいことをしてほしかったかな。でも、僕の気持ちが変わったんだよね。一回化粧させてくれないか、舞踊教えてあげるからやってみないか?って言ったことがあるけど『やらない』って。学校卒業したら、ワンチャンあるかなと思ってたけどね。だけど、自分の意志を言ってくれたのは嬉しかった。親がさせて失敗して、お父さん、ほんとはこうしたかったんだよ、って後から言われたら返す言葉がないけれど、高校行きたいって、自分のしたいこと見つけたんだから。僕は役者しかなかったから。役者の子供で、楽屋で生まれて楽屋で育って。おかあさんも、役者の子は役者になるんだと、そういう教育だったから、ほかの仕事っていう視野はなかった」

自分の場合は、半ば無理矢理始まった役者人生だった。けれど、いまはこの道でよかったと、思っているという。

「この劇団の役者の子どもとして生まれて、仕事ができてよかったなって思う。おとうさん、おかあさんに感謝してます。やっぱり、舞台が好きかな。辛いこと、苦しいこと、悔しいこと、いろんなことあるけど、舞台に出ると無になれるし。あと、手に職じゃないけど、定年ないし、死ぬまで舞台に立てるんだもん。それ考えても、役者の子どもでよかったかなって思ってます。ただね、いろんな先輩見てるし、自分のこともわかってるから、古都乃ダメになったなって言われるまではやりたくないかな。もちろん、やがては一線は引かないといけないけどね。ヨボヨボになったり、『はぐれコキリコ』踊ってふらついたりしたら情けないから、そこまではしたくないかな」

着物やカツラなどの舞台衣装に混ざって、楽屋には卒業式に着たというスーツがかけてあった。

(2022年2月19日立川けやき座・3月12日川越湯遊ランド)

第4回へつづく!

取材・文 佐野由佳

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