「恋川純弥 岐阜ひとり会」でひとり泣くの巻

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岐阜で、踊る恋川純弥を観て、不覚にも涙してしまった。恋川純弥にはやられがちである。帰りの新幹線から、東京で仕事中の相棒カルダモン康子に、行ってよかったと泣きながらLINEを打つ。

3月、4月の東京・篠原演芸場での、桐龍座恋川劇団お手伝い出演以降、関東ではもうしばらく恋川純弥にはお目にかかれないと思っていたから、「岐阜 ひとり会」を開催とのお知らせをインスタグラムで知り、思い切って足をのばしたのだ。

高過ぎてよく見えないが、岐阜駅前の織田信長もマスク。

これまで、大阪、東京、福島では何度も開いてきたという「ひとり会」だが、恋川純弥が拠点にしている岐阜での開催は今回が初めて。わたしにとっても、初めて観る「ひとり会」だ。「ひとり会」って、何だろう。本当にひとりなんだろうか? ひとりで何をするんだろう? 期待に胸はふくらむ。

会場は「みんなの森 ぎふメディアコスモス」。市立中央図書館や市民活動交流センターなどがある、岐阜市が運営する公共施設で、そのなかの「みんなのホール」が今回の舞台だ。会場がここだったことも、今回、観に行きたいと思ったもうひとつの理由だ。この件については後半で。

「みんなの森 ぎふメディアコスモス」。地元では「メディコス」と呼ばれているらしい。
総合受付があるエントランスホール。
広い館内の1階、その一角に「みんなのホール」がある。
本日の会場「みんなのホール」。ひとつひとつの座席がゆったりしている。

「みんなのホール」は、館内1階にある定員230人の貸しホールで、セミナーや講演会、発表会などに使われるごく一般的な市民ホールだ。ここを1席ごと空けながら「ひとり会」は開かれた。客席の埋まり具合は、7割ほどな感じだ。

開演前、ディスタンスな客席にぽつんと坐りながら、期待に胸をふくらませる一方で、正直いうと、不安な気持ちもあった。

今年3月にインタビューをしたころ、恋川純弥は「実家の手伝い」にストレスを抱えていて、桐龍座恋川劇団の公演としては素晴らしかったのだけれど、どこまでいっても恋川純弥のスイッチは入らないまま終わったように見えたからだ。

【詳しくは、インタビュー連載を!】https://ooiri888.com/2021/05/21/jyunya-6/

1年ちょっと前から、恋川純弥はライブ配信アプリ「17LIVE」で定期的に配信をしていて、人気ライバー(配信者)としてフォロワーを増やしている。だからスマホの画面のなかでキラキラ踊る姿は時々観ているものの、舞台はまた別もの。あのとき入らなかったスイッチが、入らないでいるうちになくなってしまっていたらどうしよう……。大変失礼ながら(本当に失礼だ)、実はそんな心配もしていた。

しかし舞台の幕があがってみると、そんな不安は、全部吹き飛んだ。全編ほぼ舞踊ショー。1部と2部の間の休憩以外は、アンコールまで含めた20数曲を、たたみかけるようにひとり踊り続けた。

1部女形、2部立役。曲が変わるたびに、ものすごい早さで衣装もカツラも取り替えて、次々違う恋川純弥が登場する。髷に着流し、刀を持って演歌を踊り、フワッフワの羽のコートをまとってJポップ。衣装はどれもゴージャスだ。

舞踊だけの構成とはいえ、1部では最後に、台詞入りの歌芝居として大衆演劇ではおなじみの「飢餓海峡」のフルバージョンを踊り、芝居の一場面のような演出も取り入れる。物語の発端となる、昭和22年の青函連絡船転覆事故を伝えるラジオの音声から始まり、イントロとともに、縞の着物に黒い羽織を羽織って現れた恋川純弥はすでに主人公の杉戸八重である。最初、薄幸な女・八重にしてはガタイが立派すぎやしないかと思ったのだが、見ている間にどんどん物語の世界に引き込まれて行く。八重の、むくわれない一途な切なさがたちのぼる。最後は舞台一面の雪。それも天井から紙吹雪を降らせるのではなく、細かい淡雪のような雪を両サイドに設置した装置から噴き出させている。静かに降り積もる山の雪ではなく、強い海風に舞う湿気を含んだ日本海の雪だ。クライマックス、吹雪のなかにたたずむ八重が、逆光の照明に照らされながら幕の向こうに消えていく。

恋川純弥が「17LIVE」のなかで、「歌詞からは恋の歌のようにも読めるしいろんな解釈ができるけれど、実際は父親とのことを歌った曲だということを知ってますます好きになった」と話した、徳永英明の「透徹の空」というバラードがある。このエピソードを観客の多くはライブ配信を通して共有していて、配信のなかで踊る姿を何度も観ては、ファンのなかでもお気に入りの1曲になっている。そんな「透徹の空」を、この日、もちろん純弥は踊る。客席から「待ってました!」の声が聞こえるようだ。みんな体は前のめり。両手を胸の前で組んで、うんうんとうなずきながら、熱いまなざしを舞台に送る。しかもライブ配信では絶対体験できない、恋川純弥から発せられる香水のいい香りを浴びながら。「みんなのホール」が、もはやそれぞれにとっての「わたしと純弥のホール」に変わるころ、約2時間半の舞台は終わる。アンコールに至っては総立ちだ。最後は、「17LIVE」でもエンディング曲としておなじみの、「サヨナラありがとう」が流れ、ラブだね!とニッコリ純弥が微笑めば、きゅんきゅんは最高潮に。

20曲近く踊り終えたのちのアンコールでも、疲れを見せないこの笑顔。

途中の口上で「この先も僕しか出てきませんので、僕にあんまり興味がない人には向かないのがひとり会です」と自ら語って笑いを誘う。そう、「ひとり会」は、ファンのための恋川純弥鑑賞会なのだ。

そして、舞踊の選曲、構成、演出、衣装、音楽の編集、照明のプランニング、プログラミング(時と場合によっては、ここに三味線や太鼓の演奏が加わる)、全部をひとりでやっているという意味でも「ひとり会」。裏のことまで舞台のすべてを座長が担う大衆演劇の世界で鍛えられてきたからこその、技能であり芸である。もちろん、大衆演劇の座長だった役者なら、みんなそんなことができるかといえば、そうではない。恋川純弥はそれができる。言い換えれば、そこまですべてを自分でやって初めて、役者としてのスイッチを入れることができるのだと思う。そのどれが欠けても、不完全燃焼にしかならない。

恋川純弥はインタビューのとき、自分の顔は嫌いだし、自分をカッコいいと思ったこともないと言った。「17LIVE」のなかでも、「僕しか出てこないひとり会って、ほんとに楽しいですか? 飽きないかと思って、いつも心配になるんですよね」と語っていた。何をいまさらそんなご謙遜をと思うけれど、本心だろう。

自分を見るその冷静で客観的なまなざしが、実は恋川純弥の色気の源であるように思う。恋川純弥の舞台は、腕のよい職人の仕事に似ている。常に最上級の恋川純弥を手渡せるように、設計図を描き、腕を磨き、道具を磨き、もっとよい見せ方はないかと工夫をこらす。

そうやってスイッチ全開にして、客席とつながる瞬間の手応えに、すべてを賭けている。物心ついたときから役者だった恋川純弥は、そこに向かっていく誠実さにおいて、自分をごまかさないで生きてきた。結果、劇団を抜け、大衆演劇を離れることになっても、だ。そのまっすぐな強さが、いまの恋川純弥をつくっている。

恋川純弥は、背が高く体格がよい。そしてどんな衣装にも負けない濃い顔立ちを持っている。それだけでも役者としては十分だったかもしれないが、そこにストイックな精進を続ける職人気質が加わって、濃いのにさわやか、さわやかなのにエロいという、稀有なキャラクターが生まれたのではないか、と勝手に分析してみた「ひとり会」だった。

「みんなの森 ぎふメディアコスモス」の正面入り口。ちなみにトップの写真が、建築家の伊東豊雄さん。建設中のころ、現場事務所で「メディコス」の模型を確認しているところ。

岐阜まで行ったもうひとつの理由は、建築家・伊東豊雄が設計した「みんなの森 ぎふメディアコスモス」で、恋川純弥が公演をする、この取り合わせの妙に、静かに興奮したからだ。建築家・伊東豊雄と恋川純弥の両方にインタビューしたことがあるライターは、日本広しといえど私くらいのものだろう。自慢げに聞こえたら申し訳ないが、自慢である。誰に自慢できるのかは、よくわからないが。

伊東さんが、建築界のノーベル賞といわれるプリツカー賞も受賞するような、世界的に活躍する建築家だから自慢なのではない。公共と名のつく施設の多くは、みんなのためという大義名分のもと、結局は誰のためでもない無味乾燥としたつまらない場所になっている。でも本当は、誰もが自分の居場所として大事にしたいと思えるような場所であってほしい、そのために建築にできることがあるはずだと、ある意味、誰もが忘れた理想に向かって、齢70を過ぎたころから正面切って奮闘しているからだ。公共施設が「みんな」を連呼する照れくささなどブッ飛ばして、「みんなの森」「みんなのホール」と銘打つ。

「みんなの」シリーズは、2011年の東日本大震災のときに、伊東さんを中心とした建築家有志が、仮設住宅に暮らす人たちと一緒に、誰もが集える茶の間のような「みんなの家」をつくったことに始まっている。

はからずも同じころ、恋川純弥は大衆演劇の世界を飛び出して、フリーランスの役者として活動を始めた。震災直後の福島で、手弁当で仮設の舞台をつくって踊ったことがきっかけとなり、「ひとり会」へとつながっているという。

「みんなの森 ぎふメディアコスモス」(以下、愛称「メディコス」に略す)ができた2015年の冬、出張ついでに寄ってみたことがあった。地方都市の多くがそうであるように、ロータリーを抜けた先の駅前商店街には、ほとんど人が歩いていなかった。ところが「メディコス」に来てみたら、どこにこんなに人がいたんだと思うくらい、老若男女でにぎわっていた。特に2階の図書館は、グローブと呼ぶ天井に吊り下げられたいくつもの巨大な傘の下に、親に連れられた子どもたち、ひとりで本を読むおじさん、本は読まずにぼーっとするおじさん、すみっこのほうで必死に勉強する中学生、ちょっとウキウキしている高校生カップル、などなど実にさまざまな人が思い思いの時間を過ごしていて、なんだかいい景色だなあと思った。

2階の市立中央図書館。グローブと呼ぶ大きな傘の下にはゆったりとしたソファもあり、本を広げたりくつろいだり。
図書館に向かう階段。グローブは内側も美しい。中央の穴からは、外の空気を取り入れて循環させることができる。

去年の3月、2度目の来館をしたときは、最初の緊急事態宣言が出る少し前で、さすがに館内は人が少なくさびしかった。やはりどんな場所も、人がいてこそだなと思った。同じ時期に、伊東豊雄のインタビューをまとめた「美しい建築に人は集まる」(平凡社)が出版され、わたしは本書の取材と構成を担当した。「メディコス」にまつわる話も収録されている。あとがきのなかで伊東さんは「…五感に訴えかける美しい空間をつくることができたら、おのずと人は集まってくる。(中略)そのためには、いかに自分が、頭で考えるのではなく身体のなかから、腹の底から建築をつくれるか、だと思います」と語った。

そんな「メディコス」の「みんなのホール」で、恋川純弥が「岐阜 ひとり会」である。ふたりの間に接点はまるでないが、わたしのなかでは勝手につながる。かつてはおそらくみんなの居場所だった大衆演劇から飛び出した役者と、公共施設をみんなの居場所にと格闘する建築家(がつくる建築)が、はからずも岐阜で出会うという、ある意味、わたしだけの夢の共演だ。

とはいえ、大衆演劇の劇場のように、ごちゃごちゃした商店街の先に「メディコス」はあるわけではなく、そこは公共施設であるから、旧市街に近いやたらと整備された広い敷地のなかにあり、向いには高層ビルの市役所がそびえている。これから純弥さんの舞台を観るぞ!というわくわくした気分と、折り合いの付け方がむずかしいロケーションである。

当日の朝「今日は会場の外にカレーと天丼のお店でてます。ここのとり丼美味しいですよ」と純弥さんがインスタグラムで紹介していた屋体。終演後に食べようと楽しみにしていたら、もういなかった。別の意味で泣いた。

しかしそんなもやもやした気持ちも、取るに足りない不安も、恋川純弥の弾ける舞踊が吹き飛ばしてくれたのだ。そのことにほっとした。

この場所で「ひとり会」を開こうと思った理由について、恋川純弥は「前から気にはなってたんですよね。住んでる場所からも近いし、いつかここでできたらいいなと思って。だってここ、きれいじゃないですか」と口上で語った。はからずも、伊東豊雄が「美しい建築に人は集まる」と語った言葉と呼応するかのように。そしてこれからも、ここで「ひとり会」だけでなく、芝居の公演もやってみたいと話した。

終演後、とてもよかったので、大衆演劇ナビで記事にしたいと恋川純弥に伝えた。すると後日「ひとり会は大衆演劇ではないので、大衆演劇ナビに取り上げてもらうのは違うと思い、原稿を書かれてから断るのは申し訳ないので連絡しました」と、ご本人から丁寧な電話をいただいた。「大阪 ひとり会」の本番間近の時間帯だったから、一刻も早く伝えなければと急いでくれたのだろう。なんと律儀な。この、人としての誠実さが、恋川純弥の舞台にも通じているのだなと、じんわり感動した。

大衆演劇専用の劇場やセンターでやっている舞台が大衆演劇だと定義するのならば、たしかに「ひとり会」は大衆演劇ではないかもしれない。もはやフリーの役者として、大衆演劇の世界を離れて活動したいと公言している恋川純弥にとって、その線引きは重要な意味を持つ。しかし、恋川純弥が行くところ、人が集まる、劇場になる。そこにやって来たすべての人を、明日も頑張ろうと幸せな気分にさせてくれる。こんな言い方をしたら、恋川純弥は嫌がるかもしれないが、それもまた大衆演劇のひとつの形なのではないか。大衆演劇を飛び出した恋川純弥は、大衆演劇の楽しさを、その世界の外に連れ出している。

(2021年7月21日「恋川純弥 岐阜ひとり会」を観て)

取材・文 佐野由佳

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