両親と、まだ幼かった兄弟、総勢4人で始まった剣戟はる駒座は、津川祀武憙が10代になるころには、働き盛りの役者を抱える大所帯になっていたという。
「僕が副座長になる前は、メンバーがものっすごい多かったんですよ。おじさんたち(母・晃大洋の従兄弟など)もおったし。いまミニショーないですけど、ミニショーがあって、ラストで舞台に並んでるのは主力メンバーで、僕とか出してもらえなかったですもん。人数多すぎて、揃いの着物がないから。Tシャツにはんてんはおって、サビだけ出てきて、客席で踊ってたんですよ。応援団みたいに。中3くらいまではそんな感じでした」
「芝居の役も、ほぼほぼ子分。当時、兄貴は副座長だし、看板に載ってましたから、僕ほどではないにしても、でも、ほかの劇団の二世役者に比べたら、前には出してもらってなかったと思います。座長になってから、一気に役をまわされたんじゃないですか。僕もそうです。それまで主役は、親父とかおじさんとかがやってました。理由は直接聞いたことはないですけど、いずれ兄貴は座長になることが決まっていて、そのときが来たら、劇団をふたつに割ることもわかってたんで、そのときになって違いをつけるつもりだったかもしれないですね。座長になってもいままでと同じやん、ってなったらかわいそうだと考えて、座長になるまでは、座長の役はやらせない。それが、当時座長だった親父の負けず嫌いからきてるのか、おかんの親心なのかは、わからないですけど」
副座長になったのは2013年、18歳のとき。それまでは、自分は果たして役者として芽が出るのか、焦っていたという。
「出番が少なかったし、このまま劇団にいてもくすぶるんちゃうかなって思って。何か武器がないと、人数も顔ぶれも、すごい男のメンバーやったんで、このメンツのなかに割って入ろうと思ったら、いまの自分の技術は、ここから降りてきてる技術やから、どこからか新しい技術を取り入れてこのなかで輝かんと、俺、売れんぞって思って。その当時、商業演劇や歌舞伎の方とも交流があったので、一度、外に出たいと真剣に考えてました」
剣戟はる駒座は、父・津川竜を筆頭に、母・晃大洋、兄・津川鵣汀、そして津川祀武憙も、芸能事務所に所属して大衆演劇以外の舞台にも出演していた時期がある。現在も、事務所とのつながりは続いている。
「きっかけは兄貴です。僕が小学校5年生か6年生くらい。うちが篠原にのってるときに、津川鵣汀っていう名前が、十条商店街の人気ランキングのトップテンの何位だかに入って、“津川鵣汀くん、いま篠原演芸場で公演中”っていう放送を、その芸能事務所の方がラジオで聞いたんですって。ああいう人たちの、独特のアンテナなんでしょうね。『らいちょう』って変わった名前だなって、近いから観にきたんですよ。それでうちの親父とおかんを観はって、面白い!ってなりはって。事務所の社長が、うちの親父のファンになったっていうのもあって、世に出すタイミングというか、チャンスをつくりたい、よかったら、ってことで所属することになりました。僕は子どもやったんで、詳しいことは覚えてないんですけど。だから兄貴、ぼやいてましたよ。最初、俺の名前できたのに、途中から親父にって(笑)。それ以来、商業演劇系の仕事を事務所を通してやってます。大衆演劇の仕事には、事務所は口を出さないという条件で。座長になってからは、外部公演は行けてないですけどね。出るとなったら、1カ月くらいは劇団を留守にしないといけないですから。初めての商業演劇は、澤瀉屋さんの一門と一緒の舞台で、スーパー歌舞伎ではないんですけど、市川右近さん、いまの市川右團次さんが主演の『森の石松』。僕が中学一年のときです」
以来、歌舞伎との縁もでき、一方で、劇団のなかで芽が出るチャンスがないまま焦る日々が続いた。
「高2くらいのころ、僕、歌舞伎に行こうと思うてました。部屋子にならへん? って言われてたんです。澤瀉屋の、いま新派に行かはって名前変わりましたけど市川月乃助さんに、当時、めっちゃかわいがってもらってて。冗談かもしれないですけど、部屋子なったらええやん、紹介したるし、おれの部屋子でもええよ、劇団にはお兄ちゃんおるやん、みたいに。そのころ出番が少なかったし、このまま劇団にいてもって思ってましたから。淡路島のロイヤルホテルで、マジで考えてました。一生そこにおらんでもええけど、3年か5年は歌舞伎行ったろかなって。ほんまにもう、おかんと親父に話しようかなと思ってたときに、兄貴を座長にするからっていう話になって。劇団をふたつに割るから、副座長やってねって。そんなこと考えてたから、最初、オレ、副座長断ったんですよ、いいですって(笑)。でも、親父から、一番弟子を副座長にしたいから、お前が一緒に副座長やってくれないと、息子が花形で、弟子を副座長っていうわけにはいかないと。それで外に出ることはあきらめたんですけど、マジで、歌舞伎に行こうかなって、行ってから戻ろうと思ってました」
もしもそのとき、外に出ていたら? と質問すると、意外にも返ってきたのは「退屈していたかもしれない」という答えだった。
「歌舞伎も含めて商業演劇って、アスリートの試合みたいなもんやと思うんです。減量して、減量して、調整して挑むっていうイメージ。一方で、大衆演劇はストリートみたいなもん、戦国時代の戦みたいなもんやと思うんです。いつ弓が飛んでくるか、いつ敵が攻めてくるかわからへん。いつ休戦になるかもわからへん。リングがあってルールがあって、レフリーもおって、はいここまで、っていう人がおるのが商業演劇なら、僕らは、街場の喧嘩と一緒。どこまでも暴走しようと思えばできるし、殴りすぎたらあかん、やりすぎたらあかん、みたいなさじ加減も自分らで決めなあかん。どっちがええかは別にして、僕は性格的にストリートのほうがたぶん好きなんですよね。答はないんですよ、演劇やから」
ストリート系の大衆演劇の強みは何かと聞くと、
「場数やと思います。僕らが勝てるのは、唯一場数やと思う。予算も向こうのほうが上やし、キャパも上やし、人数も、知名度も上やけど、一年で踏んでる場数でいったら、大衆演劇のほうが、踏んでる。しかもアクシデントだらけですよ。カツラぬげて飛んじゃうこともあるし、誰かが倒れることもしょっちゅうやし。お客さんが酔っ払って暴れ出すとか、舞台に上がってくるとかね。ありますよ、センターでね。おじいちゃんが、舞台に上がってきはって、子役を抱っこしはったりとか。いまそんなん、歌舞伎の舞台でされたらエライことじゃないですか。でも僕らだったら、アナウンスで、ひとこと『はい、降りてくださいね』で終わりやし。子どものほうも慣れたもんですよ。どっちがいい、悪いは好みやと思うんですよね。試合が好きな人も絶対おるやろうから。でも歌舞伎役者のなかには、大衆演劇好きな人、多いです。大衆演劇はお膳立てされた舞台じゃないから、水が使えないってなったら、じゃあどうしたらいいかって役者が考えるじゃないですか。そうしないと、やりたい舞台ができない。逆に言えば、どうつくってもいいし、自由にできる。そういうところに、魅力を感じてはるんじゃないかなと思います」
結果、劇団を出ることはなかったけれど、大衆演劇以外の、商業演劇の舞台を体験できたことは、津川祀武憙のその後の役者人生にとって大きかったという。
「デカイです! これはデカイです! 言うても、僕、御曹司なんで」
自分で言う人も珍しいですと大笑いしたが、言い換えればそれは、「世間知らずなんで」という謙遜の照れ隠しである。物心ついたときから座長の息子だった津川祀武憙に、井の中の蛙にならないように、外からの視点を持つことの大切さを教えたのは座長だった父・津川竜である。津川竜自身は、役者の子ではあっても座長の息子ではなかったからこそ、味わった苦労、見聞きした苦労があっただろう。
「親父がね、座長の息子は立ってるだけでムカつくと。嫌われると。それくらい思っとけと。自分は座長の息子じゃなかったから、どっちの立場もよく見てたんでしょうね。生意気言ってなくても、何もしてなくても、立ってるだけで座長の息子は偉そうやねんと。だから、生意気いうたらあかんし、生意気いうんやったら実力がいるし、気合いがいるし。その姿勢については、小学校あがって生意気いうようになったころから、人一倍気ぃつけなあかん、っていわれました。親父は自分が弟子子(でしこ)を経験してることが、大きかったんやと思います」
厳しく言われていても、劇団のなかにいればどうしても多少の甘えが出る。それを叩き直されたのが商業演劇の世界であり、同時に、何者でもない自分であることの心地よさも知ることができたという。
「大衆演劇の役者が外に出るとね、座長だろうが会長だろうが、座長の息子だろうが、なんの権力もないことを思い知るんですよ。逆に言えば、座長の息子じゃなくて、ひとりの津川祀武憙として見てくれる。僕の態度ひとつで、まわりの接し方も教えてくれるやり方も変わるやろうし、これが社会なんかなぁって思いました。まわりの大人も、親父の顔なんてなんも知らんから、親父が座長やからいうてヘコヘコせえへん。ただの子役やと思ってるし。そのぶんではほんまによかったですね、商業の舞台を体験できて。いま現在が、全然、違うと思います」
芸のうえでも、大衆演劇の外にも師匠ができた。現在、藤間流の宗家に舞踊を習っていることも、そのひとつだ。
「親父とおかあさんが外部の公演に出演したときに、たまたまその公演の振付師として来てたのが、藤間の宗家だったんです。そのあと、藤間の宗家が演出構成する『里見八犬伝』の舞台にお声がけいただいて、僕が出たんですよ。座長になる直前、21くらいですかね。結局、それが最後の外部公演になったんですけど。時代劇系をやったことがない人らも集めて、あえて難しい『里見八犬伝』をしようというコンセプトだったので、立ち回りの経験があるのは僕くらいで。稽古日数も短くて、宗家もいろいろお忙しいので、第三部の舞踊の振り付けをさしてもらったんかな。もうあと一週間くらいで本番やのに、時間全然たりひんけど、どうする? みたいなことで、振り付けできる? ってむちゃぶりされたんですよ。任されて。僕らでは普通っていうか、一週間もあればなんでもできるやろ、くらいな感覚なんですけど(笑)。ほかの方々がものすごい焦られてたんで、宗家がおらん間、僕が振りをほかの方々につけるっていうね。それで宗家とちょっと仲良くなってといったらおかしいですけど、ご飯連れてってもらったりして。そんな流れで、僕と兄貴と、お稽古つけてあげてもいいよ、ってことになったんです。古典です、バリバリ古典の日舞。ほんま忙しい方なんで。僕らが関西におる、宗家が関西に帰ってくる、このタイミングが一緒でないと稽古ができない。なおかつ一回の稽古は30分なので、四国で公演中に30分だけつけてもらいに大阪まで行ったりしてましたね。始発の新幹線に乗って、10時から10時半まで稽古してもらって、11時前の新幹線に乗って戻ってくる、みたいなこともしてました」
なんの踊りを稽古するかは、宗家にすべて任せているという。
「一本だけお披露目できたのは『浮かれ坊主』。めっちゃ難しかったです。一年かかりました。はい、バリッバリの歌舞伎舞踊です。宗家から言われたのは、大衆演劇の役者は、自分に落とし込んで自分の解釈で踊ってしまう癖があると。いいか悪いかは別にして、舞踊家の視点からすると、それは間違いである。だから『浮かれ坊主』のときも、手を覚えるのはめっちゃ早かったんですけど、何に時間がかかったって、それを修正していくのに時間かかりました。兄貴と一緒に習って、僕の座長襲名のときに、『ふたり浮かれ坊主』で披露しました。基本ひとりで踊るもんやから、合わすのが難しい。それは宗家も難しい言うてました。でもうちのおかんは、『合わせろ』って。二人で合わせて、二人で踊れと。合わすのはもちろん、僕です(笑)。僕の襲名披露ですけどね。兄貴はオレに合わせろタイプなんで。僕が兄貴に合わせました、はい」
子役時代からの葛藤を経て、兄・鵣汀と二枚看板として座長になったのは、2019年、24歳のときのことだ。
第3回に続く!
(2023年11月26日 三吉演芸場にて)
取材・文 佐野由佳