第1回 はい、勝龍治と申します!

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「で、今日は何の話をすればええの?」

剣戟はる駒座の総裁勝龍治は、楽屋の椅子に腰かけているだけで絵になった。坊主頭がよく似合う。渋いダミ声でくりだす関西弁。大衆演劇ナビと申します、と挨拶すると「はい、勝龍治と申します!」。くりっとした瞳で、いたずらっ子みたいに笑った。場が一気になごむ。一瞬で気持ちがさらわれる。まるでこれから始まる一人芝居を、かぶりつきで観るような高揚感にドキドキした。

舞台を観ていてもそうだ。勝龍治が現れると、その場の空気がワッと盛り上がる。

「いやいや、それは年輪ですやん。……歳は言いたないねんけど。このごろは聞かれたらじゃまくさいから、ほんまのこと言うてます。一番ええのはね、大日方満くんよりは下やでって言うとね、みなさんそれ以上は聞かない(笑)」

一緒に笑いながら、あらためて生年月日を聞いてみた。

「昭和17(1942)年12月18日、午年。血液型はO型、射手座です」

大衆演劇界の重鎮、勝龍治は今年80歳になる。娘の晃大洋(こうだいはるか)と娘婿である津川竜(2020年逝去)が立ち上げた、剣戟はる駒座の総裁にして、たつみ演劇BOXの両座長小泉たつみ、小泉ダイヤ、女優リーダー辰己小龍の伯父であり、現在、フリーの役者として活動する恋川純弥、桐龍座恋川劇団の座長二代目恋川純にとっても、勝は母方の伯父にあたる。恋川純弥は一般誌のインタビューで、大衆演劇界の師匠として、尊敬する役者として勝の名をあげている。初代恋川純も、勝が率いた嵐劇団に在籍した時期がある。現在の大衆演劇界のあらゆる世代に、その存在は大きく影響を与えている。

「話せば長くなりますけどね。うちの父親、嵐一郎(本名:森谷九一郎)が小泉劇団をこしらえまして。そのときの看板が、母親の初代辰己龍子と叔父ふたりでした。ひとりが初代小泉のぼる、もうひとりが初代小泉いさをといいまして、僕が14で座長にさせられたとき叔父の初代小泉いさをの名前をゆずってもらいまして、しばらく二代目小泉いさをを使わせていただいたんですけど、感覚的に名前がピンとこなかったんでね、二十歳くらいのときに勝手に名前を変えてしまった。うちの親父の往年の芸名が、大石勝(まさる)なんですよ。勝ね。で、辰己龍子の龍と、ちょっと自分で勝手に解釈付けましてね、そのふたつを治めて勝龍治。今日からこれにするって、おじさんにも納得してもらって。それから今日までですね」

二代目小泉いさをを名乗った10代のころ。
写真提供=剣戟はる駒座(この回、以下同)

初舞台は思い出せないが、子役時代に生涯忘れられない役があるという。

「7、8歳のころですかね。『五郎正宗』っちゅう芝居の刀鍛治の役があってね。それが出世するまでの話なんやけど、子どもながらに立派な刀をつくりたいっていう役どころで、冬の2月の寒いときに水かぶりの芝居をやるんですよ。京都の東寺劇場というのがありましてね、向かいがアイスキャンディー屋さんでしてね。そこの氷水をこんなたらいみたいな、大きな桶に張ってそれをかぶるんですね。これがもうとても、とても寒すぎて。だんだん痛くなってきて。それが一番、子役として辛い思い出です」

『五郎正宗』を演じたとき。首からさげているのは井戸のつるべか。冷たい水をかぶってちぢみあがっている様子が伝わってくる。

ふたりの姉に、ふたりの弟。5人兄弟の長男坊。楽屋の壁には、両親といまは亡きふたりの弟たちの写真が飾ってある。

「すぐ下の弟が、辰己賀津夫といいましてね、末の弟が、小泉たつみたちの父親の二代目小泉のぼる。僕は長男やったけど、役者が嫌いでね。子どもの時分から好きじゃなかった。座長してたものの、なんともイヤでね。やめたくなってやめたんです。22歳のときですかね。だから座長歴は短いんです。14で座長になって、22歳まで、はい。そのころは、座員さんもたくさんいてたんですけどね。『今日からやめるから』って親に相談したら、『やめてもええよ』ってすんなりと言われたんで、『ラッキー』ってやめました(笑)。名古屋の土地に、大曽根っていう地区に鈴蘭南座って劇場があって。お父さんが質屋さんしてはってね。何年か前まで息子さんがやってはったはずやけど。そこには何回もご縁があって公演してたんですけど、 最終的にそこでやめたいってことになって。いっぺん行きたかったですよ、東京へ。東京という土地で、何かをしてみたい!って。とりあえず行ってそこから勝負や!って。まあまあ、あんまり賢くなかったんやね〜、はは。ちょっと冒険がしたかったために役者やめたんですけど、結局、東京へは行けなかったし、 やめたら仕事がない。無学やし。これをしようという仕事も考えがつかんしね。考えが全然なかったんでね。2年くらい遊んでたんです。だんだんご飯がいただけないようになってきて、どないして飯食ったろうっちゅうような感じで。その時分あんまりええお友達がおらなんだんでね〜、ヘンな友達ばっかりおってね。こらいかんなっていうんで、ある劇団の座長さんが『二代目、遊んでるんやったらちょっとゲストで手伝って』って声をかけてくれたんですわ。僕は名前変えても、二代目小泉いさをやったから。二代目で通ってたんでね。そやなあ、2年遊んでる間に会社員にもなれないし、若くして座長にしてもらって天狗になってたとこもあったんで。外で働くと頭下げんといかんし、けど知らん人に頭下げるのイヤやし。そんなこともいろいろ頭に浮かんでくると、しばらくやってないけど、もういっぺんやってみよかって、役者に戻ったんです。簡単なんは、この道が一番楽やなあ、楽なほうの道取ろかっちゅうことで、あらためて。2年間、もったいないことしたんですけどね、おもしろかったしね、自分なりに」

昭和34年(7月1日号)の大衆演劇雑誌「えんげき」に掲載された記事。右上の女形が勝龍治(17歳のころの二代目小泉いさを)、左が辰己賀津夫(小泉一昭)、右下が叔父の初代小泉のぼるに抱かれる、のちの二代目小泉のぼる。二代目小泉いさをは、顔の美しさが評判だった。

「戻ってしばらくした頃、三男坊の弟が、役者になりたい言い出してね。僕と11歳離れてるから、中学2年生でしたかね。夏休み冬休みに遊びに来よるんです。『お兄ちゃん、オレも舞台出たい』って。『お前は学校あるんやぞ!』って言うたけど。弟は歌が好き、楽器が好きっちゅう子やったんでね。芝居含めて器用な子やった。お世話になった人から、どうせなら好きな道歩ませてやれよっていうアドバイスがあって。 根負けしてほんなら役者になれっていうようなことで……。それから弟と一緒に知り合いの方々の劇団からあっちたのまれ、こっちたのまれ。そんなことが何年か続いて弟が17歳の終わりくらいに『お兄ちゃん、もうよその劇団のゲストより、自分で劇団やりたい』って言うんで、ほんならやろか!ってこしらえたのが嵐劇団です」

ご両親はどうされていたんですか?

「普通の暮らし、一般人の暮らししてました。僕が役者やめたときに、全部やめて、親はたいした職業じゃないけど、飯食えるような小さなお商売やってね。僕もちょっと仕送りしたりして、弟を学校へやって、みたいなことはしてたんです。けどそのうちに親ももともと役者ですから、息子らのこと気になるでしょ? 僕のそばへ父親も来る、母親も来る。そうなったら、舞台出られるからね。劇団側からお願いできませんか?って言いはるからね。そしたら、おやじが『かまへんけど。お前どないする?』って母親に聞くでしょ? そしたら『あたしもかまへんけど』って。ちょっと手伝うっていう形でね……。それからある劇団で3年間ほどやって、あらためて弟もやりたい言うから、親子で立ち上げて。あと……ひとりかふたり引っ張ってきたね〜。そこから嵐劇団っていうのをこしらえたんです。座長は僕と三男坊の二代目小泉のぼる。僕はすぐ座長は降りました、半年目くらいですかね。親父が太夫元してたんやけど、ちょっと体の調子も悪いしある日、僕のこと『兄ちゃん』って呼んでたんやけど、『兄ちゃん、お前かわりに太夫元してくれへんか?』って言うたんで、引き受けました」

ピンクの着物が勝龍治、白い着物は大月扇雀(初代小泉いさを)、黒い着物は初代小泉のぼる、水色の着物は梅澤薫(「座KANSAI」の金沢つよし座長のおじにあたる)。

嵐劇団の人気は本拠地関西のみならず、関東にも聞こえ、嵐旋風として一時代を築く。1970年代後半のことだ。

「関東へのぼってきて木馬館にのせてもらって、梅沢富美男くんがあの劇場ではトップの観客動員やったらしいですけど、その記録をうちが破ったんですって。そしたら、向こうさんがまた破り返した。1年置いて、またおじゃましてまた破り返す。そんなことやってるときに、富美男くんがテレビのほうへ行かはったでしょ。木馬へのらんようになった時期があって、そのときに嵐旋風が吹いたってなことを、関東の劇団やお客さんが騒いでくれた。それが嵐劇団が一番よくお客さんが入った時代かな。僕が36、37歳のころやったと思います。弟が25、26歳のころやね。そのときは劇場の裏口も全部開けて、売店のほうの戸も開けてたね。それが毎日でした。うち、当時では珍しかった楽団をやってたんでね。お笑いと楽団で、ちょっと関東の人がやってないことをやれたし。ありがたいことに、ワイワイ騒いでくれた。そのときには、初代恋川純がおりの、初代美影愛や、浪花章之輔やいろんな花形がおったんでね、そのおかげもあるんですけどね。おもしろい、楽しい、そっちのほうで人気が出たんですね。もちろん次男坊の辰己賀津夫も一緒ですよ。一緒やねんけど、ずっと病気がちで病院入ったりちょっとようなったら舞台出たりまた悪なったら入院して。その繰り返しでした。かわいそうに結果は早死で47、48歳で亡くなりよってね。のぼるも52歳で。弟のが先に逝ってしまった」

楽屋に飾ってある親子写真。写真を切り抜いて貼り合わせた手づくり感が素敵だ。母・初代辰己龍子を守るように立つ、中央が勝龍治。弟ふたりを肩に乗せ、長男の風格。上右が次男の辰己賀津夫、左が末の弟の二代目小泉のぼる。隣に父の写真が単独で飾ってある。

役者が嫌いだったというのは意外です。

「10代のころはね、大衆演劇の役者という立場そのものが嫌いやったんです。若いからキャーキャーも言ってもらえるのに、それがやかましいなぁと思ってたんやね(笑)。どうも自分の性に合わないという勝手な思い込みがあったんやろね。そのくせお酒も好きやし遊びも好きやから。お花はいただきたいしね〜(笑)。いただくときはありがとうと言うてんねん(笑)。元来若いころは口下手なんですよ。人と会話するのが苦手なんでね。乱暴な言葉なら男同士でなんぼでもしゃべれるんやけど、四角のおしゃべりがどうもしにくい人間なんで。お客さまの前でご挨拶せなあかんっていうのが、特にイヤやったんですわ。対応するのがしんどいから気楽なほう気楽なほうへ逃げたい。だから、嫌いや嫌いやになったんですね〜。いまは、ま、なんちゃないですよ。おもしろかったこと? まあ、弟ら子らと、現在は孫ら(剣戟はる駒座の座長津川鵣汀、津川祀武憙)ともやってますけど、うまくいったときだけがおもしろい! ああ今日はよかったな、お前らうまいことやったなとか。オレもこんなんやってたんやでとか。やってる芝居は同じなんでね。うち流はうち流やからね。うまくいったら楽しいなとか。それはありますけど、まあちょっと時代が違うんで……孫らは感覚も違うのやろけど……。まあ、なんとかいまも体動けてるしね、多少なりともこうやっておしゃべりもできるし。少々の粗相も目つむってもらえるから。舞台出られてる間は、足しになるやろと思てます」

足しどころか、もっとたくさん舞台を拝見したいです。

「いや、もちろん舞台に出る限りは負けたくないっちゅうのは、いまだに持ってますんでね。当時も、イヤやイヤや言うてても、舞台出たら負けたくない。せっかくやってるんやから、明日やめてもいいから、今日出てるときだけは一生懸命やっとこう!覚えといてもらおう!っていう感じでやってたから……それはいまも変わりません。それが役者根性です。芝居に自分が出たから舞台が締まるとか、ええ芝居になるっていうだけではなくてね。ひとりでは無理やから。相手をよく見せるためには、上手に斬られて死んでやらないかんとか、敵役でえげつないことをやって、こっちがひどく見えれば相手はよく見えるんやから、そういうことばっかり考えてます。まあ、みんなで一緒につくってるってことなんでね」

第2回につづく!

(2022年6月12日 三吉演芸場)

取材・文 佐野由佳

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