第5回 シベリア帰りのおやじのこと

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勝龍治の楽屋に飾ってある、父・嵐一郎(本名:九一郎)の写真は、濃い顔立ちで恰幅がいい。さぞ舞台映えした役者だったろうと想像する。取り立てて教えてもらったことはない、デキが悪ければ、ヘタクソと叱られる。そんな父親が、客席でじっと自分の芝居を観て、ほめてくれたことがあったという。

楽屋の壁に飾ってある、父・嵐一郎(本名:森谷九一郎)の写真。

嵐一郎さんは、どんな役者でしたか?

「ひとくちで言えば、うますぎる。どんな役でもこなせる。時代劇でもいろいろです。股旅ものとか、侍ものとか。いい役にしろ悪い役にしろ。お笑い、新派、歌舞伎、剣戟、ひっくるめてなんでもできる。こういう人に、お目にかかったことはいままでないんでね、おやじ以外にね、はい。若い時分にどこで勉強してきたんやろな、思うくらいで。無学なんですよ。無筆でね」

お芝居もたくさんつくってらっしゃいますね。

「そうなんですよ。だから書いて伝えるんじゃなくて、全部、口頭ですからね。自分も読み書きできないから、頭のなかでいろいろ組み立てるんでしょうね。それを口稽古して。親子ですら、いちいち教えませんし、悪けりゃヘタクソっていう人でしたから。人の芸を盗めっていうけど無理です。盗むほどの能力がない、こっちは子どもですから。ただ観て、こんなんがカッコいいんやなぁとか、こういうしゃべりしたほうがええんかな、とかね」

ものの本によれば、大正から昭和にかけて、主に地方の大衆演劇を全国的に組織した興行会社、籠寅興行部の、嵐一郎は大幹部だったという。

歌舞伎や新派や、いろんなジャンルのお芝居をご存知だったのは、籠寅興行部に所属していたこととも関係ありますか?

「どうなんでしょうかね、定かでないです。籠寅のことを知っておられるのは、相当年配の方でしょう? 僕も親から名前くらいは聞きましたけど、詳しいことはわからないです。僕が子どものころの劇団は、父親も母親(初代辰己龍子)も、おじさん連中(初代小泉いさを、初代小泉のぼる)も一緒におりました。座長も3人でやってたんでね。母親とおじふたりと。ややこしい劇団やった思います(笑)。初代小泉いさをのほうは、女形が得意。初代小泉のぼるは、もちろん剣戟も新派もするんですけど、喜劇王で売ってました。この人のお笑いっちゅうのは、藤山寛美さんのもっと上の世代、曾我廼家十吾(そがのやとうご じゅうごとも読む)さんとか。あの人のおばあさん役が好きでね、そういう系統のお芝居をずっと勉強してました。お笑いが入り歌が入り。初代小泉のぼるは軽演劇の劇団にもおったんでね。そういうお芝居が得意やったんで、いろいろやってました。まあ、めちゃめちゃお客さんを入れた役者やったんでね。京都の大宮劇場いうて、3000人は入る劇場を、毎日、満タンにしよった。三流歌舞伎さんが乗っかるところ。3階までびっちり入ったら3000人入る。10歳くらいまでは、僕もそんな状況をながめて、すごいなあと思てました。5年間は、東寺劇場と大宮劇場を行ったり来たり。小屋元さんが、どうしてもって呼んでくれるから。昔は1カ月公演っていうのはなくてね、長くて10日。短けりゃ5日やから。ギリギリまでやって終わって、夜運んで、広げてあくる日初日で、4日目になったらぼつぼつ片付けて。そんなでした。昔やから人数も多かった。僕が一番、うわーうち多いな思ったときで40人ちょっといましたから。戦後で娯楽がなかったし、就職するのもなかなか難しい時代やったんちがいます? でも役者してたら、なんとか飯が食えるいうような思いで入ってきはった。だから中には、新聞記者や学校の先生してた人も来よったし、元刑事ちゅうのもいましたし、それこそ刑務所帰りの人もいました(笑)」

小泉劇団で結成していた野球チーム。左端が父・嵐一郎、前列右から二人目が勝にとっては母方の叔父である初代小泉のぼる。後列右から二人目が、のちに勝の妻になった女性の叔父・新川恵三。そんな未来はまだ予想だにしていない、中央の少年が勝龍治。写真提供=剣戟はる駒座(この回、以下同)

みんな受け入れるわけですね。

「行くとこないですからね。一番ややこしかったのは、僕がおぎゃあと生まれたのが昭和17年やから戦争中で、戦争終わって、4、5歳の時分やと思います。おやじやおじさんふたりも戦争に行って。おじたちは戻ってきたんやけどおやじは2年間、捕虜になってシベリア送られて帰って来られなかったんですね」

お母さまが大変でしたね。

「そうですね。戻ってくるまでね。大変だったでしょうね。おじさんふたり座長がもっていかれてしまうし、父親はおらんし。残った母親が座員抱えてね。空襲警報ーいうたら僕ら子ども抱えて、防空壕入ったり。舞台かて急に幕閉めたり、電気つけられんからろうそく立ててやったり。ほんまにこわかった言うてました。僕は、ピカーッと光ったとかそんなことは覚えてます。おやじが戻ってきてから、母親に『お前ようもたしたなあ。ようやってくれた』って言ったって。まあ、おじさんふたりが先に戻ってきてくれたから、3人で頑張れたというのもあったでしょうけども。それで心機一転、あらためてやり直そうっていって始まったのが小泉劇団です」

二代目小泉いさをを名乗ったころの勝龍治。津川雅彦に似ていると言われた。

舞台のことを、お母さまから教わることもありましたか?

「弟子子(でしこ)には教えてたみたいですけどね、子どもらには教えません。父親がおるからね。男の子やし。男の子は父親に習いなさいと。父親も母親には『お前だまっとけ』っていうような、ははは。だからといって父親にしても教えるっていうことはないです。昔の親、師匠は。みなさんそう違います? 僕らの時代は映画観たりとかね。時代劇の大川橋蔵さんとか、中村錦之助さんとか、すごい人気でしたから。勉強した。でも、しょせん絵(映像)ですからね。表情そのものもアップにしたら、泣き笑いもよくわかるけど、本舞台では、ちょっとオーバーにやらんと。泣いてる顔が笑ろてる顔に見えたら困るし(笑)。そんなのを自分なりに考えていろいろやってきましたけど。それは自分個人の問題であって。みなさんそうやけどね、それなりの勉強の仕方が。みんなが同じってわけじゃないし、十人十色やね。いまはゲスト出演っちゅうのがあっていろんな人がおいでになって、いろんな人と商売ご一緒すると、それがひとつの勉強になったりしてるみたいですけど、僕が10代で座長やった時代はそういうことはないんでね。よその劇団と一緒に芝居をするというようなことはなかったですね」

父・嵐一郎の引退公演。右から勝龍治、嵐一郎、二代目小泉のぼる、辰己賀津夫。親子が揃った最後の舞台。
大阪・西成のオーエス劇場にて。

当時から好きな演目、得意な演目というのはありましたか?

「好きな芝居はありません(きっぱり)。役者、嫌いやったから(註:詳しくは第1回を参照)。与えられた役は一生懸命やります。何をやりたいだとか、思い起こしてもなかなか出てこないね。演目も出てこないし。どんな役が一番自分では嬉しかったんやろ〜? おやじが褒めてくれた芝居だけが、印象に残ってますねえ。印象に残ってて、題名がどこかに飛んでますけど。なんの芝居やったんかな。おやじは客席の一番前に座るんですよ、本番中に黙って。それで、観とんですけど、ほとんど居眠ってて、僕が出たときだけ、起きて観てるんですって(笑)。それはのぼる(弟・二代目小泉のぼる)もみな怒りよる。『おやじ、わしら芝居んとき、前で寝んといてや』『アホか、お前らの芝居観にいってんとちがうわ。兄ちゃんの芝居、観にいってるんや。お前らの芝居は、ねむたいねん』て。ええか悪いかちゅうことはあんま言わへん。じっと観てるいうことは、観てくれてんやから大丈夫、悪かったらヘタクソ、このひとことで終わる人やったからね。まあよかったんやなあ。そういうことがあったのが、1、2本あったような気するねんけどね。その題名を忘れてます」

第6回につづく!

(2022年6月12日 三吉演芸場)

取材・文 佐野由佳

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