リアルに欠けた「化粧二題」のなかの大衆演劇

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 こまつ座の「化粧二題」を観た。井上ひさし作の、大衆演劇の役者を主人公にした一人芝居だ。渡辺美佐子が演じて名高い「化粧」を原型に、「化粧二題」は二人の旅役者の物語を、二人の役者が演じる二幕構成になっている。

 一幕目は、息子を捨てた過去を持つ女座長五月洋子を有森也実が、二幕目は、母親に捨てられ、養護施設を経て旅役者になった座長市川辰三を内野聖陽が、それぞれ演じる。同じ配役での上演は、二年ぶりという。

 二幕はどちらも、開演前の楽屋が舞台。楽屋を訪ねてくる人や座員とのやりとり、その日に上演する芝居について語る台詞に、座長の人生が重なっていく。一幕目は「伊三郎別れ旅」という股旅物(解説によれば、これは井上ひさしの創作演目)、二幕目は「瞼の土俵入」で、文字通り長谷川伸の「瞼の母」と「一本刀土俵入」を混ぜたタイトルである。どちらも「母と息子の悲劇的物語」だ。それぞれの芝居を演じるために、化粧をして、衣装に着替える開演前の時間のなかで舞台は展開していく。

 二幕目の最後、養護施設で親代わりとして育ててくれた先生が楽屋を訪ねてくる。話をするうち、市川辰三は先生から「化粧を取りなさい」と言われ、はっとする。化粧は、自分で自分の身を護るために身につけてしまった、心の鎧の暗喩でもあるのだ。五月洋子は、事情があったとはいえわが子を手放してしまった負い目を、市川辰三は母親から捨てられたと思い込んできた寂しさを、日々化粧をして役の人生を生きることで、心の奥底に封じ込めてきた。そこを揺さぶられ、新たな自分を発見していくのが本作の主題になっている。

 だからこそ「化粧二題」というタイトルであるはずなのに、肝心の化粧に、大衆演劇の役者としてのリアリティがないことが観ていて不満だった。大衆演劇の役者の化粧のリアリティとは、素顔とは全く違う顔になることだ。テレビタレントや商業演劇の役者とは、そこが大きく違う。化粧は役になるためだけにするのではない。役者としての顔そのものが、化粧によってできている。しかもものすごい手早さで、毎日その顔をつくることができ、人生の大半をその顔で生きるのだ。このリアリティが欠落していて、主人公たちは劇中で化粧をし続けているにもかかわらず、たいして顔が変わらないまま、開演を迎えて舞台に出ていくところで物語は幕となる。

 それは着物の着方も同様で、市川辰三が相撲取りの衣装に着替えるシーンで、肉じゅばんの上から紋付袴を着るのだが、これがぐずぐずなのだ。大衆演劇の役者はこんなふうに着物を着ない、とこれまた不満だった。大衆演劇の舞台では、たまに役として着替えをするシーンがあるが(これをわたしはひそかにサービスシーンと呼んでいる)、台詞を言いながら、流れるように着物をまとって、角帯を貝の口にキュッと結わく所作など観ていて惚れ惚れする。袴もしかり。

 なぜそれができるのかといえば、一年中ほぼ毎日舞台をつとめる大衆演劇の役者にとって、化粧をすることも、着物を着ることも、茶碗と箸でご飯を食べるのと同じくらい日常のこととして、子どものころから身についているからに違いない。それが旅役者として生きるということだ。大衆演劇の役者たちは、若いころから日常で着物を着続けている身体を持つ、いまや数少ない日本人なのだ。だから、一瞬にして江戸時代の町人にも、侠客にも、芸者にだってなれる。

 主役のふたりは達者な役者であるのに、なぜそのリアリティを演じられなかったのか。あるいは演じなかったのか。演出であるならば、その意図は何か。この舞台にとって、どこまでどんな化粧をするかは重要な意味を持つ。そこを吟味しなかったはずはない。もしかしたら、役者や演出家は、実際の大衆演劇の舞台を観ていないのだろうかとさえ思ってしまったのは、あまりにも、「イメージとしての大衆演劇」のなかで物語が動いているように見えてしまったからだ。そのことが一番残念だった。

 大衆演劇はノスタルジーのなかにあるわけではなく、このコロナ禍のなか、不要不急なんかじゃ決してない、演劇という芸能の最前線を戦っている。その緊張感と気概のなかで、今日も全国の劇場で、センターで、化粧をする役者たちがいる。「化粧二題」も、そんなリアルタイムな大衆演劇と、響きあう舞台であってほしかったのだ。

(2021年8月25日 紀伊國屋サザンシアターにて こまつ座「化粧二題」を観て)

取材・文 佐野由佳

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