6月14日夜の部、篠原演劇企画による「原点回帰プロジェクト特別狂言 道程」を演じたあとの舞踊ショーで、恋川純弥は黒紋付の羽織袴で中島みゆきの「誕生」を踊った。恋川純弥の舞踊はいつも、登場するだけであたりを払うような気配があるが、この日はとりわけ胸に迫るものがあった。舞踊の途中、羽織を脱いだときに驚いた。白い裏地に朱色の文字で「澤瀉屋」と書かれていたからだ。「澤瀉屋」は、ちょうどそのころ、5月の事件以降、日々報道の渦中にいた四代目市川猿之助の屋号である。
6月の公演期間中、恋川純弥はこの羽織だけでなく、「澤瀉屋」の屋号と紋を染め抜いた着物を着て舞踊を踊った。インタビューのこの日も、胸にさりげなく「エンユカ」、背中に「猿之助と愉快な仲間たち」の文字が入ったTシャツを着ていた。
そこに込めた思いはどのようなものだったのだろうか。
市川猿之助とは、昨年12月、「猿之助と愉快な仲間たち」(*)が、篠原演芸場で開いた年忘れリサイタルがきっかけで、交流が始まったという。
(*市川猿之助プロデュースによる演劇プロジェクト。「コロナ禍で活動の場を失った若手俳優に活躍の場を」という趣旨で、2021年に旗揚げ。歌舞伎に限らず、ミュージカルやダンス、ストレートプレイなどさまざまな背景を持つ役者が集う)
「紋付とか着物とか、猿之助さんご本人に、澤瀉屋の屋号や紋を使っていいよって許可をいただいてつくったんです。『猿之助と愉快な仲間たち』のロゴが入った衣装もあって、今度、舞台をやるときは、僕と瀬川(伸太郎)さんでメンバー全員分プレゼントしますねって、そんなやり取りもしていました。とりあえず無事でいてくれてよかったとしか言えないですね」
「12月の公演は、『猿之助と愉快な仲間たち』から、篠原演芸場を借りてやりたいという話がきたことがきっかけだと思います。僕と龍美麗くんと純(二代目恋川純)と三咲暁人くんに声がかかって、参加しました」
なぜ篠原演芸場に声がかかったのだろうか?
「大衆演劇の公演をやりたい、みたいなことで。いわゆる、派手な着物を着て、今時の曲を踊ったりすることは、歌舞伎にはないじゃないですか。だったら、大衆演劇の小屋がいいんじゃない? ということで、そこに僕らも参加したという感じです。お芝居はなしで、舞踊ショーだけの公演です。暁人くんと猿之助さん、美麗くんと猿之助さんは相舞踊を踊って、僕らは相舞踊はなしでしたけど、でも僕と純は、楽屋で猿之助さんと化粧前が隣だったんで、いろいろお話しさせてもらって。ずっとおっしゃってたんですよ、大衆演劇の人たちはすごいからって」
「暁人くんと猿之助さんが、『よもすがら踊る石松』を相舞踊で踊るのを、僕は2階から純と観ていて、いつものよう飛んだり跳ねたりしてる暁人くんに目が行ってたんですけど、最後に捨床几(すてしょうぎ)に暁人くんと猿之助さんと、ふたりで立ってポーズを決めたときに、一瞬だけ猿之助さんがオーラを放ったんですよ。その瞬間、ぶわぁぁーーーって会場全体を猿之助さんのオーラが包みこんで。僕と純と、もう鳥肌が立ちました。久しぶりに見たな、こんな人。すごいなって。自分でオーラを操れる人を、久しぶりに見ました。猿之助さんは、暁人くんたちの劇団のカツラや衣装で踊ってたんですから。言ってみれば、借り物の衣装で。それなのに、ですよ」
「その日の夜に、篠原演芸場の客席でみんなで打ち上げてたときに、2月の博多座でスーパー歌舞伎の公演をやると。誰か博多で公演してないの? っておっしゃったんで、公演はしてないですけど、僕ら観に行きますって言って、純とふたりで観に行かしてもらったんですよ。そしたらもう、あんな大きな舞台で主役張って存在感ある公演をやってる人だから、小さな劇場をあんな空気にするのなんてわけないよなって実感しました。純とそんなに背丈も変わらない人が、あの博多座の舞台で小さく見えないですから」
「役者さんとして、歌舞伎界はもちろん、演劇という世界になくてはならない人だと僕は思うから。必ず戻ってきてほしいなとは思います。あの人はいなきゃいけない。あんなふうに、舞台を引っ張って行ける役者ってそういない」
世間がなんと言おうと、「愉快な仲間」の一員として、同じ役者として、尊敬する市川猿之助に恋川純弥は、自分にできる精一杯のやり方でエールを送っていたのだ。言葉にして伝えることはできなくても、遠く響きあうように、思いは届くかもしれないーー。確かめてはいないが、紋付を着るタイミングを、原点回帰プロジェクトという特別公演の日にしたことも、より多くの観客を通してメッセージが伝わることを考えたのではないだろうか。
話を聞きながら、歌舞伎役者の市川猿之助が、篠原演芸場で公演をやりたいと言ってきたことがきっかけだったということにも、少なからず驚いた。そんな歌舞伎役者、いるんだろうか。30年来、歌舞伎を見続けている相棒のカルダモンに聞いてみると、「いかにも澤瀉屋らしいと思う、発想がリベラル。歌舞伎役者として破天荒」。そして、市川猿之助と恋川純弥はどこかに似ているところがあると言った。「周りがどうであれ、自分は自分のやりたい舞台をやるし、そのための集客への努力は怠らない。だからこそ、より独自の世界を突き進み続けることができるという意味で、似たもの同士」だと。
カルダモンの話はさらにヒートアップした。
「私個人は、スーパー歌舞伎が隆盛になることと、歌舞伎が存続していけることは全く別のことだと思うけれど、猿之助は芝居への愛もあるし、古典歌舞伎も、ちゃんとできる。ちゃんとどころか、先代鴈治郎、坂田藤十郎(扇千景の夫)は、猿之助の覚えがあまりにもいいからと、大衆演劇でもやる梅川とか、上方歌舞伎をやたら教え込んでいたくらい。猿之助って理詰めなパキパキした人のようなイメージだったけど、ああいうやわらかい上方の世話物もこなせてしまうことに驚いたことはよく覚えている。純弥さんも、華やかでオーラ全開の舞踊に目を奪われがちだけど、芝居への熱い気持ちもこだわりもちゃんとある。滅びゆく古典芸能を存続させるために、神様がつかわした役者なのかもしれない、とすら思うのよ、恋川純弥も市川猿之助も。役者以前に、人間としての能力が高い。だから、そういった革新、革命を起こすことができるんだろうけど」
熱く語るカルダモンにも、少なからず感動していた。
舞踊の始め、かつて恋川劇団の座長だった時代の、恋川純弥の幟がはためく昔の浅草木馬館の写真を背景に置いた。そういう演出だったのは、この日の芝居が、大衆演劇の役者を主人公にした父と子の物語だったから、その流れを意識してのことだと思っていた。実際にそうだろう。けれどそれだけではなかったのかもしれない、とも思う。
その家に、その親に、生まれた宿命を生きなければならないのは、歌舞伎も大衆演劇も同じだ。恋川純弥には、人気絶頂の劇団座長の座を捨てて、劇団を出て行った過去がある。親との葛藤を抱え、ずっと先まで決まっていた公演をすべてキャンセルして。そうしてまでも、親とは違う自分の人生を歩こうとした。それから13年、恋川純弥は、たくさんの新しい仲間とチームを組んで、新しい観客を連れ、いまこうしてふたたび役者として大衆演劇の舞台の上に立っている。
インタビューのあと、あの日、澤瀉屋の屋号の入った羽織を着て踊った舞踊の曲に、「誕生」を選んでいたことにも、あらためて胸を突かれた。
生まれてくれて、うれしいーー。
同じ時代を生きる役者のもとに、メッセージが届くことを祈りたい。
第5回へ続く!
(2023年7月7日)
取材・文 佐野由佳