恋川純弥、平手造酒を生きる

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恋川純弥が平手造酒を演じる「大利根囃子(おおとねばやし)」を、もう一度観たいとずっと思っていた。

なぜなら、恋川純弥が主演をつとめる芝居で、最初に観たのが「大利根囃子」で、そのときの舞台の印象が鮮烈だったからだ。会場は神戸の新開地劇場、古巣の桐龍座恋川劇団にゲスト出演をしたときで、2019年夏のことだった。もう4年、いや、まだ4年しか経っていないのかと思う。随分前のことのような気がする。

この日の舞踊ショー「飢餓海峡」。

この6月の1カ月間、恋川純弥率いるTeam純弥が、篠原演芸場で初の関東公演中である。恋川純弥はフリーランスの役者であり、Team純弥は今回の公演のために結成した劇団である。ほかの大衆演劇の劇団のように、一年中どこかで公演をしているわけではないから、同じ役を演じる恋川純弥を観られる機会は、そうそうないのだ。満を持してのTeam純弥の関東公演に、「大利根囃子 平手造酒の最期」が組み込まれていたことが嬉しかった。

「大利根囃子 平手造酒の最期」は、大利根河原の決闘で命を落とす平手造酒の、文字通り晩年の物語だ。肺を病んで、死に場所として笹川繁蔵の食客となっている浪人平手と、夫に金で売られた酌婦のお吟。どうにもならない運命を生きるふたりが、束の間、互いを生きる希望に寄り添う悲恋を描く。あれほど自暴自棄になって死に急いでいた平手が、最後の最後に「死んでたまるか!」と叫びながら斬られ死んでいく。

新開地劇場で最初に観たとき、実は雑誌の取材で撮影をしていた。にも関わらず、広い新開地劇場の一番後ろの席で泣いてしまった。隣で写真を撮っていたカメラマンも、シャッターを切りながら泣いていた。純弥平手の死に際の、魂の熱さが舞台からは遠い客席の隅にいても直球で届いてきて、仕事中であるにも関わらず不覚にも涙してしまったのだ。

そして今回、篠原演芸場の純弥平手を観て、お吟との出会いから別れまでの平手の心の動きを、恋川純弥の全身から感じることができた。大きな劇場の遠い客席からでは見えなかった、細部がよく見えたとでも言おうか。それこそが、直球の正体なのだと思った。

冒頭、お吟との出会いの場面。懐でニワトリの卵をあたためているというお吟。もしかしたら明日は雛がかえるかもしれないと、半ば本気で思っている。めんどくさそうに取り合わないままでいると、お吟は無理やりその卵を平手に持たせる。ふいに渡された卵の、あたたかさを愛しく思った自分に内心はっとする平手。

病を知ってかいがいしく自分の世話をするようになったお吟に、少しずつ心を動かされながら、しかし肺病病みの自分にはお吟を受け入れる資格はないと背を向ける。その揺れる心が溢れたように、出て行こうとするお吟の着物の裾をつかむ平手。

台詞のないときにこそ、純弥平手の役として生きる姿が見えてくる。それは、恋川純弥が得意とする立ち回りについても同じことが言える。無言で刀を構えた瞬間に、かつて北辰一刀流の千葉道場で四天王と呼ばれた過去を持つ平手造酒として、恋川純弥はそこにいる。

以前、刀と殺陣をテーマに恋川純弥にインタビューしたことがある。自らを「立ち回りバカ」と称するほどに、子どものころから刀も殺陣も大好きだったという。新国劇の大山克巳の殺陣に魅せられて、弟子入り。桐龍座恋川劇団の座長だった20代のころ、座員を全員引き連れて、連日の舞台の合間に殺陣の稽古に通った話は往年のファンはご存知だろう。当時10代だった弟の二代目恋川純は、「舞台の稽古が始まるまでに、殺陣の稽古で立ち上がれないほどヘトヘトで、何度、兄貴に殺されると思ったことか」と話した。それほどまでに、殺陣にのめり込んだ時期が、若い恋川純弥にはあった。

「大山先生がよくおっしゃったのは、芝居心を持って殺陣をやりなさい、と。芝居の立ち回りは、剣術の技術だけじゃなくて、どうやって人を斬るのか、どんな思いで斬るのか。リアルな、観ている人が息を飲むような殺陣を演じることで芝居が生き生きする」のだと教えられたという。「大衆演劇のなかには、立ち回りを添え物のように思っている役者もいますけど、立ち回りがいいと、芝居のクオリティがぐっと上がるんです」と。

立ち回りがいいというのは、バッタバッタと敵を切り倒す、あざやかな殺陣のリアリティだとインタビューをした当時は思った。実際、恋川純弥の立ち回りは目がさめるようにあざやかだ。しかしそこに感動するのは、刀さばきのうまさや速さの先にある、役として生きる姿があるからだということが、今回、よくわかった気がした。大きな劇場でやるような大立ち回りをしなくても、もっと言えば、刀を抜いていなくても、そこにヒリヒリとした魂を抱えた平手造酒がいる。

そんなふうに、持つ刀が自分の身体の一部であるように扱えるようになるためには、地味な稽古を地道に重ねるしかない。近道などありはしないことを、若い時期に恋川純弥は無意識のなかに体得したのだと思う。しかも、ときに侍になり、浪人になり、侠客になり、ヤクザの親分になり、三下にもなるのが大衆演劇の役者である。刀を持つ人間の素性を、そこに立っただけで一瞬でわからせなければいけない。

そうした日々の鍛錬は、芝居のなかだけではなく、舞踊にも生きている。「大利根囃子」を上演した日、石川さゆりではなく作曲者弦哲也の歌う「飢餓海峡」を、男の姿で踊った。

寂しい女の歌として聞いていた「飢餓海峡」の、全く違う景色が立ち上ってくるようだった。

恋川純弥の舞踊はいつも、純弥颪(おろし)とでも呼びたいような独特のオーラをまとって舞台を席巻する。持って生まれた体格のよさや舞台映えする濃い顔立ちもあるかもしれないが、それをオーラに変換させ続けているのは、人並み外れたたゆまぬ努力である。空間の広さに関わらず、わずかな時間に劇場全体を物語の世界に引きずり込む集中力は、演じる力を鍛え続けることでしか養えない。

今年、44歳になるという。「ある程度の年齢で体格がいいと、普通の人の場合、動きが鈍くなったりするけど、純弥さんはそういうところが全然ない」とのたまったのは、隣に座っていたカルダモン康子である。なにをぬかしているのかと思ったが、役者の場合、背の高さすら、ときに舞台で邪魔になることがある。けれど、歳を重ねてなお、いや、歳を重ねたからこそ、それを魅力に変えているのはすごいと言いたかったらしい。

自分の持ち札を、切り札として切り続けることは、長い時間の地道な鍛錬でしか成しえない。自分をごまかさず、その鍛錬をし続けてきたからこそ、いまの恋川純弥がある。4年前の新開地劇場ではわからなかったことを、今年の篠原演芸場で気づかせてくれたことこそが、いまも進化を続けている証であるように思う。

前回の舞台では、「死んでたまるか!」と叫ぶ平手に心を奪われて、物語はそこで終わっていたような気がしていた。今回、その先の本当の最期、お吟の腕のなかで、どこからともなく聞こえてくる祭囃子に、もう見えなくなった目を開いて「祭囃子はさびしいもんだなあ」とつぶやく場面が印象に残った。

(2023年6月9日 篠原演芸場「大利根囃子 平手造酒の最期」を観て)

文・佐野由佳

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