一見好太郎は太宰である。対談:山根大×一見好太郎(後編)

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「この10月の1カ月、オレ自身のなかで、一見好太郎を発見しているような気持ちで一見劇団の舞台を観ていた」という山根演芸社山根大社長。社長たっての希望で実現したこの対談。前編では、一見劇団のなかで、あるいは大衆演劇という枠組みのなかで、一見好太郎の芝居がいかに特殊であるかを語った。

後編は、さらにそんな一見好太郎の立ち位置の特殊さについて、山根社長ならではの独自の理論が加速する。「一見好太郎は太宰治である」と。太宰のファンは、誰もがみんな太宰の一番の理解者は自分だと思っている。一見好太郎のファンも、おそらくそうなのだろうと分析する。

そして気がつけば、自分もまたそんな太宰好太郎を「もっとわかりたい」と思い始めているという。さらに話題は、紅葉子というビッグマザーを失って、いま過渡期を迎える一見劇団のなかで、役者一見好太郎の命運を分けるものは何か? に移り、いつの間にか「どうすれば役者一見好太郎は生き残れるか」ということになっていた。

山根社長の言葉の数々に、真剣な面持ちでうなずく一見好太郎座長。うなずくしかないともいえる、怒涛の後編、開演です!

一見好太郎に通じる見えない通路

山根大(以下、山根) 大日方先生より、恋川純弥より、一見好太郎のほうがうまいと言ったのは、ひとつの役柄のこの場面において、この役柄をかみくだくとしたら、自分ならこうだっていうのがオレ自身のなかにあるからなんだよ。だからそこんとこが、純弥よりうまい、大日方先生よりうまいって、オレが感じるということになる。それはおそらく観客それぞれの無意識のなかにあって、そことつながるかどうかなんだよね。

一見好太郎(以下、好太郎) そうかもしれないですね。

抑えのきかない山根演芸社山根大社長。ちなみにこの日着ているのは、パリの地図がデザインされたジャケット。

山根 おそらく一見好太郎にヒットする観客って、それぞれのなかに一見好太郎に通じる通路みたいなものがあって、その通路を通れる人間だけが、この人の魅力にアプローチすると思うんだよ。そしてそれは、それぞれ自分だけの通路のような気にさせるものなんだよ。

好太郎 はあ。

「つ、通路?」

山根 だからさ、一見好太郎って太宰治なんだと思うんだよね。太宰の命日を桜桃忌(おうとうき)っていうんやけど、あの人の墓は東京の三鷹にあってさ、ファンはみんな三鷹の寺に集まる。で、みんな同じ作家が好きやから、話がはずむかと思うやん。ところが、みんなぜんぜんお互いを見ない。なぜかっていうと、太宰のファンはみんな自分だけが一番太宰をわかってると思ってるから。そういう幻(まぼろし)みたいなものを感じさせるのが、一見好太郎の舞台なんじゃないか、ってオレは思ってるわけなんだ。

好太郎 (笑)

山根 太宰以外のポジションにいる役者というのは、大衆演劇にはあふれていて、それはそれで一家をなしているんだけど、太宰は一人しかない。だからそれを探していくと、タイプがまったく違うからピンとこないけど、もしかしたらみやま昇吾さんとか、美影愛ってそうなんじゃないかと思う。これらの役者の特徴は、とにかく演技が自然。大衆演劇っぽくない。もうひとつ、彼ら自身たぶんオレが一番うまいって思ってる。

好太郎 (笑)

心のなかで大きくうなずく(たぶん)一見好太郎座長。

山根 一見好太郎は口にはしないけれど、寛美さんよりオレのほうがわかってる、って思うわけだよ。「大阪嫌い物語」をやるとき。だからできる。自分をくぐらすから。原点は憧れなんだと思うよ。寛美先生っていうのはこんなふうにやるんだっていう憧れがあって、そこから出発するんだけども、でも、やってるうちに、オレだったらっていうのが出てくるわけだ。

好太郎 そうなってきますね。

山根 これを写すんじゃないんだ、オレだったら、ってことになってくる。

好太郎 お芝居って、すごく追求していくと、むずかしくもなりますし、簡単にもなる。

山根 どういうこと?

好太郎 考えて考えて突き詰めていくんだけど、でも、考え続けていくと、簡単なこと言ってんだなってなる部分がある。全部いまの言葉に変えると、なんでこんなにむずかしく言ってるの?っていう。「刺青奇偶」とかって、混乱するくらいむずかしい台詞まわしなんだけど、でも現代の言葉に変えると、言ってることはすごく簡単なことなんだなって。

山根 でも、簡単な言い回しに変えないでしょ?

好太郎 変えないです。作品、壊したくないから。

山根 それはなんでかというとね、テキストを壊しちゃうと自分の腕が見せられないからなんだよ。そのテキストにのっかっていくことで、初めて自分のやり方に意味がでてくる。

好太郎 ああ、なるほど。

山根 それはすごいと思うよ。恋愛でも女性でもいい、ほんとに惚れ込むときっていうのは、オレはこいつを一番理解できると思うわけだ。何を見ても、オレはこいつのことが、この人のことがわかるって。それは、自分がそのテキストにのっかってるんだけども、その役を演じたほかの誰よりも、オレのほうがこの芝居をわかってるっていうことなんだよ。だからテキストを壊さない。壊したら、自分のほんとの理解を示すことにならないから。そこから先は、観てる者とのせめぎあいで、どっちのほうが、説得力のある解釈であるかという。

好太郎 (うなずく)

山根 だから、一見好太郎自身がこの役はオレが一番理解できてるって思いながらアプローチしてるのと同じように、見てるほうも、誤解も含めて、「好ちゃんの魅力はわたしが一番わかってる」っていう理屈なんだろうな。だからお客さんどうし、好ちゃんってこうよね、っていう話はしないんだと思うよ、一見好太郎のファンって。想像だけど。

そういうありかたって、男としては嫉妬するよ。努力して身につく魅力じゃないから。

好太郎 (笑)

ちょっと乙女ちっく。さすが太宰!

古都乃竜也と一見好太郎が別れずにいるどうか

山根 何が一番面白くないといって、語るに落ちることが面白くないわけで。語るに落ちないところが一見好太郎が表現するキャラの魅力なんだけど。また映画の話になるけど、「スカーフェイス」(1983年米国)の自滅する主人公を演じるときのアルパチーノみたいなもんだよね。あるいは「ワイルドバンチ」(1969年米国)っていう私の大好きな映画があって、ならず者の男4人が、もう死ぬのはわかってるんだけど、仲間を助けるために大軍に突っ込んでいくみたいな。そういう、自滅するとか滅びの美学みたいなことって、やっぱり語るに落ちないものだし、それを観ていると、自分のなかにも何かしら理屈にならない、取り返しのつかないものがあるってわかるわけだ。それをこういう大衆演劇の舞台で突きつけるだけの力が、一見好太郎の芝居にはある。

(註:滅びの美学と一見好太郎の演技については、対談ののちに山根社長が一見劇団の「喧嘩屋五郎兵衛」について書いたこちらもご覧ください。)

そういうふうにしか生きられなかった理不尽な悲しみを、切なさへと昇華させる一見好太郎の「喧嘩屋五郎兵衛」。撮影=水野昭子
そして終演後にこやかに口上、がちょっとコワイ?!

山根 それはすごいことだよ、ほんとに。だから一見好太郎っていうのは、一見劇団のほかに受け入れられる劇団ってあるのか? って思うよ。

好太郎 よそは知らないですから。

山根 いま劇団はどんな感じ?

好太郎 おかあちゃんが亡くなって、だからこそひとつにまとまったなっていうのはたしかにあって。この10月で一周忌が過ぎて、また次の一歩を踏み出すわけで、そのときにバラバラにならないといいなと思ってます。稽古ひとつとっても、自分的には稽古好きだから、何時になってもぜんぜんいいんだけど、でも若い子は時間にしばられることがとてもつらいと感じてて。逆にオレらが気を遣って、時間決めて稽古をやったり。イヤイヤやられるとすごく嫌だから。そういう感覚の違いはあるので。

山根 でも好太郎座長としてはもっと稽古したいんだよね?

好太郎 納得するまでね。

山根 一見劇団だけじゃなくて、若い子に気を遣わなきゃやってられないような状況は、よそでもそうだろうし。でもそう言いながらも、一見劇団は誰もやめてないし大衆演劇界で一番といっていいくらいの大所帯。それだけの座員を維持できていて、座長大会の芝居を座員だけでできるわけだから。それだけ舞台にあがれる役者がいるっていうだけでもすごいことだよ。若い子たちは、仕方なく役者やってるのか、好きでやってるのかわからないけど、一見好太郎みたいに、役者じゃなきゃ生きててもしょうがないっていうふうなアイデンティティじゃないから。一見好太郎は稽古が好きというよりも、役者であることが自分そのものになってるから、納得するまで稽古することが当たり前だし、YouTube見て時間つぶしたり、飲みに行ったり、女の子くどいたりするよりも、そのほうがいいわけだよ。でも多くのほかの人間は、いまあげたようなほかのことがいいわけだ。だからおかあちゃんの追善に向けて、劇団がひとつになったっていうのは、ある意味奇跡的だよね。だからこれからは、稽古が大好きで、クオリティの高い舞台をやるっていう好太郎座長のありようと、劇団そのものの生理がすれ違う状況も出てくるかもしれない。分裂だってするかもしれない。

梅川忠兵衛の「新口村」の舞踊劇から。

好太郎 それも想定していかないと、とは思います。具体的にどうこうという話ではなくて。

山根 たとえば、翔太郎や大弥あたりが独立して、看板になって一座をつくったとして、それでもある程度回れるやろうとは思うよ。それで今ありがちな劇団とどれくらい違うかっていったら、たいして違わないと思う。そういう劇団を横目で見ながら、自分にだってできるって思ってたって不思議じゃない。そうなったときに分裂は止められない。おかあさんの一周忌とか三回忌とかいう、自分ではどうにもならないカセがないと、なかなかまとまっていかないと思う。でも正直いって、それはこの業界なら共通のことで、オレたちのテーマはそこじゃなくて、一見好太郎っていう役者が、どういう立ち位置だったら大衆演劇界で生き残っていけるかっていうことなんだよ。

好太郎 ……。

山根 一見好太郎っていう役者は、自分の役者としての生理としては、自分が一座をまとめて少ない人数でまわるっていう役者じゃない。だから、いまの一見劇団を維持する形のなかでやるのが、一見好太郎にとっては一番いい形なんだよ。

好太郎 それはそう思います。

年子の兄弟。兄が好太郎座長(左)、弟が古都乃座長。総勢8人姉弟の7番目と8番目。

山根 純弥みたいに、人を呼び集めて企画立ててやるかっていったら、それも向いてない。この大所帯の、一見劇団の頭としてやっていくのが一番いい。そのなかでカギになるのは、最終的には、古都乃竜也と一見好太郎が別れずにいるどうかやねん。古都乃座長が好太郎座長と別れなければ、大きくは崩れない。実際には一見劇団には、古都乃竜也という興行師と、一見好太郎という座長がいるんだよ。古都乃座長も本当は芝居好きではあるんだけど、好太郎座長に比べたら芝居をすることの重さは劇団座長として二番目なんじゃないかな? 彼が太夫元、つまり経営者っていう意味。逆に一見好太郎は、どこまでも座長であって太夫元にはなれない。だから古都乃竜也が太夫元興行師として、座長である一見好太郎と離れなければ、一見劇団のコアは崩れない。

一見好太郎という人間をもっとわかりたい

山根 今年7月に開催された、池袋の新風プロジェクトで共演したなかで、座長としては誰がおもしろいと思った?

好太郎 恋川純弥座長、里美たかし総座長ですよね。いいなと思いました。

山根 やっぱりそのふたりになってくるよな。純弥も里美たかし総座長も、非常に座長役者。ただ、ふたりとも面白いのは、たぶん太夫元には不向き。里美たかしが里美たかしたりえているのは、中村㐂代子さんという太夫元、つまり紅葉子にあたる人間がいるから。思うに、純弥は自分が太夫元になって一座を守っていくには役者でありすぎる。だからいま、二代目純が座長太夫元でやってるっていうのは、あれはあれですごいことなんだよ。

好太郎 そうですね。

インタビューのなかで古都乃座長いわく「役割として、好太郎座長とはニコイチな感じ」。

山根 だから、好太郎座長がおもしろいと思った役者っていうのは、やっぱりそれなりに役者としての何かをもってる役者なんだよ。里美たかし総座長にしても、純弥にしても、デフォルト(決まった形)があるようでそうではないところがあって。里美たかし総座長もお父上と早く死に別れてるし、自分で自分の形をつくってきたと思うし、純弥も親からおそわっていても、自分でぜんぜん違った形を確立した役者で、デフォルトから少しはずれながら生きてる。文脈からはずれたところにいる、というものに対して共感してる。

好太郎 言われてみれば。

山根 一見好太郎の場合、旅芝居の文脈からはドンとずれてるんやけども、もともとのベースの一見劇団というのが、きわめて旅芝居的な劇団だけに、そこがなんとも面白いし、危なかっしさもある。たとえば、一見劇団以外のどこの劇団に好太郎座長をもっていったら面白いかと考えたときに、おもいっきり古いタイプの劇団じゃないと上にのっても面白くもないし光りもしないと思うんだよ。おそらく、劇団美山に好太郎座長がまざったところで、せいぜい何分の一かの存在になってしまう。極端なこといって、大日方先生のとこに入るとか、そういう形の方が面白い。

好太郎 ああー。おっしゃることはわかります。

山根 前回、一見劇団の舞台を「大衆演劇の旅芝居ってこれなんです」っていうふうにオレが言ったと話したけれども、旅芝居の光らせかたとして、普通の昔ながらの空気を持った劇団のなかで、ほかのヤツと違うアプローチを持ってるヤツがいることによって、旅芝居の本質も光る、そういうことなんじゃないかと思ったのよ。一見好太郎の「清次命の三十両」を観たときにそう思った。

好太郎 なるほど。

山根 ただ、こうして分析することと、役者一見好太郎がこれから生きていくのに、オレがなにをできるんだろうっていうのは、また違ったテーマになってくる。とりあえず、古都乃座長が好太郎座長から離れなければいいなと思うわけだけよ。好太郎座長としては、一見劇団はどうあったらいいと思う?

好太郎 なんていうのかな、芝居は古くていいと思うんです。昔からある古い芝居は深みがあるし、これぞ、ザ・大衆演劇っていう演目のほうが絶対に面白いと思ってる。だけど舞踊ショーになると、お客さんを楽しませる意味あいがまた違うから。関東のお客さんが、劇団美山の舞台は飽きさせない、ディズニーランドに来てるみたいだって言ったのがすごいわかりやすいなと思ったんですけど、ひとつのワールドになってるってことですよね。

山根 劇団美山を真似することはできないけど、あの熱と力は学ぶに値する。やってる人間が楽しそうなんだよね。それはチームワークがいいとかじゃなくて、おそらくお客さんに向き合うときの熱がみんなすごいんじゃないか。お互いに、ひとりでも多く観客をひきつけてやろうっていう気持ちがあるから、わちゃわちゃして楽しそうで活気があるんだよ。

好太郎 そう、そこなんですよ。うちの若い子たちも、お客さんが自分の目の前に来たら満足です、じゃなくて、どんなお客さんでも自分のものにしてやるぞ、っていうくらいの勢いがみんなに出てくればいいんだろうな。意見出し合って、わちゃわちゃやってほしい。見てるほうからしても、お、ちょっと違うって。

山根 ア太郎の飢えた感じとか、悪くないけどね。

花形・紅ア太郎。

好太郎 ア太郎は追求するタイプだから。みんな、前に出たときだけじゃなくて、後ろにいるときにもそういう表情をみせてほしいなって思う。

山根 腐ってやっても楽しくやっても同じなら、楽しくやろうやっていうね。劇団美山の舞台だって、めっちゃしんどいはずなのに、ランナーズハイみたいになってるあの状態が、見てるほうにも伝わって楽しいわけじゃん。

好太郎 そうですよね。

山根 そしてそれは年齢に関係ないんだよ。だから今日の一見劇団の「ベテラン祭り」のオープニングとかさ、ほかにありえん楽しさだよな。そもそもあの人数の「中年」で、「10年」を踊るっていうくだらなさ(笑)。妙な空気感がすごい。

好太郎 ありがとうございます(笑)。

劇団の「中年」たちが踊る「10年」。最後は好太郎座長が、帯に仕込んだマイクで「ちゅうねん〜」と歌いながらはけていく。

山根 劇団美山の舞台を観るのは楽しいし、すげえなこいつらと思わせてくれる。でもそれを評価するのはオレじゃなくてもいいんだよなっていうことも、同時に思う。ほかの人間が評価できる劇団なり役者をオレが評価する必要はなくて。そういう意味で、オレは一見好太郎という人間をもっとわかりたいと思った。おごった言い方だけど、最終的に一見好太郎を救済できる人間っていうのは、何人かしかいない。そういう人間として自分はいられればいいんじゃないかなって。人間としての、なんともいえない独特のバランスの悪さ。持った才能と、育ってきた環境と、中に詰め込んできたものとのバランスの悪さ。でもそのなかから生まれる芝居を観たときに、あ、こういう人には、ほんとにわかる人間が必要なんだって思った。里美たかしや恋川純弥にはいるんだよ、支援者や支持者という形で。純弥のことを、価値あらしめる存在が。でも、一見好太郎を価値あらしめるってどういうことかと考えたときに、輪郭を与えて、世界に対してこれは正しいんだって言うことなんだけど。でも、ほら、ウチの劇団じゃないやん?

好太郎 (笑)

距離感を超えて。

山根 そこにやっぱ距離感があるじゃん。でも、そういうことをするのがオレの役目だと思うんだよ。ほかの人間には必要ないから。オレがオレでなければならない人間がいるんじゃないかなと思う。さっき言ったように、オレたちは一見好太郎への見えない通路をもっているから。で、この通路には扉があって、そこを開けて、こっちから声をかけないと声が届かない仕組みになってる。

好太郎 (笑)

山根 だから、通路の片端で、その通路の扉をオレは開けているから、必要な時に扉をあけて声をかけろよってことなんだよね。ほかの役者に感じない何かを、たしかに、一見好太郎はオレに感じさせてくれたし、今月、一見劇団の舞台にオレは救われてきたんだから。「これでいいんだ」って。

扉はいつでも開いてるぜ。

(2022年10月8日 大阪・新世界)

文・構成 佐野由佳

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