第4回 自分の値打ち 

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息子の夢をかなえてやりたい、その一心で立ち上げた劇団の名は「剣戟はる駒座」。津川竜、晃大洋(こうだいはるか)夫婦ふたりに、まだ幼い息子がふたり、たった4人の旗揚げだった。

「おとうさん(勝龍治)はまだ嵐劇団の太夫元でしたから、時々は手伝いにきてくれるけど、ずっとおるわけじゃない。だから、わたし、津川さん、4歳の鵣汀、2歳の祀武憙、ほんとに4人だけ。そこに弟子入りさせてくださいって、女の子が入ってきて投光してくれてたんやけど、茨城のかぶく館っていうところから旗揚げしたもんやから、田舎じゃないですか。その子がびっくりしてしまって、10日やそこらで、ドロンしていなくなっちゃった。それで、休演してる劇団さんが助っ人に入ってくれて、うちのおとうさんの芸道上の弟分やった大門力也さんが手伝いにきてくれて、1カ月なんとか乗り切った感じでした。でも、基本的には座長の津川さんとわたしのふたりだけだから、昼の部終わりでしたけど、なんだかんだ用事が終わるのって、夜の12時くらいになるんですよ。舞台が終わったらみんな帰っちゃうから、次の日のゲストの人の用意をして、若い人たちの用意をして、掃除からなにから、幕するのもふたり。裏方もいないから。で、あるとき、子どもたちがいない。どこ行った!ってなって。探しても名前呼んでも返事もないし。弟の祀武憙は2歳でしょ。どうしよー!と思って。仕事に気ぃとられてたんですよね。そしたらね、客席の奥に消化器置いてあって、そこもたれてお兄ちゃんが寝てて。隣に、お兄ちゃんにもたれて祀武憙が寝てたんですよ。それ見て津川さんが、『やめよか。やめちゃう? かわいそうやな、子どもが』って。次の日に、子どもらにパパがやめよかって言うてるって言うたら、ガーッて元気よく踊り出して『なんで?』って。子どもは苦じゃなかったんですよね、きっとね。わたしたちは忙しいししんどいし、あれもこれもっていろんなことがいっぱいあって、十何人でやってるような劇団の仕事をふたりでやるんだから、そらきついんだけれども。当時、4歳になったばかりの鵣汀が、柝頭鳴らしてくれる、雪のシーンになったら、大太鼓叩いてくれる。ちょうどそのころ、効果音の機械が出たばっかりで、それもプシュプシュって押してくれる。羽生健康センターやったかな、そこは幕も電動なんですよ。だから幕もしないといけないから、幕のボタンを押して、チョーンってボタン押してくれて。ツケもね、打ってくれるし。それも下手なツケじゃなくてね、ほんまに上手なんですよ。売店の人が、誰がツケ打ってるの? この子ですって言うたらびっくりするくらい、ちゃんとやってくれてたんです。4歳で。しぶちゃんなんて、まだ2歳で、どっか行かないように、ひもでちょっとくくられた状態で楽屋の山のような着物のなかにおる状態やったから。しょうもない新人さんより、4歳の鵣汀のほうが、ずっとよう役に立ってくれました」

そんな長男鵣汀が、5歳のときに大病を患う。

「小児がんって言われて。大腸にポリープがあると。兵庫県のラドン温泉で有名な城崎にいるときで、病院に行くまで救急車で40分かかるようなとこで公演中に下血したーってなって。検査して、結果、切らないといけない。次の月、博多の公演が決まってて、子ども病院がありますから、そこで手術を受けてくださいと。津川さんたちは車で移動。鵣汀とわたしは病院行こかって、新幹線に乗ったんです。で、道中、鵣汀は寝てたんですけど、ぐっしょり汗かいて。突然、ワッて起きて『ママ、僕のお腹のなかのできものね、なくなったから』って言うんですよ。いや、いや、そんなわけないやんって、思いますよね。病院に行ったら今度は先生に向かって『あなたでは治せません』って言うわけですよ。失礼なこと言うてと思うたんやけど。実際、内視鏡入れて手術しようとしたら、検査のときにはたしかにあったポリープが、なくなってたんですよ。子どものお腹に内視鏡入れて、ないですではすまされんて、先生が4人も集まって確認したらしいんですけど、やっぱりないと。連絡が来ましてね。麻酔からさめた鵣汀が『どやった?』って。できものなかったんやって、って言うたら『な? ないって言うたやろ?』って。その場でもう、『先生、僕はいつから帰れますか?』言うて。結局、退院したその日に舞台で踊ってましたから。お客さんがわーって喜んで、『僕はな、舞台があるから生きてる。舞台降りたら死ぬから』言うて。はー、ってその当時は天才やとおもたんですよ。いま普通の人ですけどね。でもね、その手術のために入院してるとき、小児病棟って、明日をも知れへん子が山ほどおるんです。寝たきりで動けない、ご飯食べられないで点滴してる、そんな子たちばっかりなんですけど、お見舞いに行くと、病室からケラケラケラケって笑い声が聞こえる。なにかなって見たら、うちの息子がね、シャーッてカーテン開けて、開幕です! とかってね、ベッドの上で点滴つけたまま、踊ってるんですよ。うちでやってる芝居やったりとかね。それ見てね、その子らが手たたいて笑う。津川さんがね、いままでいろんな芝居さしてもらったけど、お客さん、こないして喜ばせられたかなと。なんやしらんけど、この子に負けた気するって。本当の意味で、こういう人たちにも喜んでもらえるような舞台をせなあかんちゃうかって言ったの、よく覚えてます」

長男(津川鵣汀)と。津川竜は子煩悩な父親で「うちのお父さん(勝龍治)とは大違い。役者のくせにマメな人やったので、よく子どもを遊びに連れて行ってました」。撮影=津川竜 写真3点提供=剣戟はる駒座

ほかにも、天才ぶりを発揮する息子のエピソードは、枚挙にいとまがない。

「岡山で公演中、鵣汀がしばらく保育園に入ったんですよ。そこでお遊戯会やるっていうので、ちゃんちゃんちゃんちゃん、かぼちゃのスープっていう踊りを見て、鵣汀が『ほんなね、しょうもない踊り、見に来てるのみんな親やろ? 誰かのおとうさんやおかあさんやろ? そんな人に見せるために踊りたくない』って。ほんと面白かったんですよ、あの子。でもう、とりあえず、行かない。ああーもうしんどい、とかって。『おとうさんはぁ?』って。見送りに行くはずのおとうさんもおとうさんで、『子どもはぁ?』って。両方ともが行きたくないもんだから、とりあえずやめときましょうと。小学校あがっても、すぐ目の前が学校やったんですけど、行かないんですよ。学校に行っても習うことがないって言う。『あのな、かけ算とかな、足し算にしても、国語にしても、なんで、いま覚えなあかんの? 僕はいま、舞台に出る勉強がしたい』と。当時、広島から大阪に踊り習いに行ってて、片道4時間くらいかかるんですよ。それは行くんですよ。往復8時間かけて、たった30分や1時間の踊りの稽古にだまって行きよるんです。でも、目の前の小学校には行かん。『踊りはいま習いたい、立ち回りはいま習いたい。けど、なんで、国語や算数、いま覚えなあかんの。大きくなったら覚えるから、いまはこっちをやらせてほしい』ってはっきり言うんですよ。『興味がないから』って。わたしはね、なにをいうてんのん?と。足し算にしても引き算にしても、漢字にしても、覚えなあかんねん!って。でも津川さんが『アメリカではな』って。『好きなことだけさせるねん。自分がこれと思う、特化したことを伸ばすんや』って。いや、うち、アメリカちゃうやんって。『そのかわり、パパと約束しよう。漢字も計算も、自分がやらなあかんタイミングが絶対くるから、そのときまでにはちゃんと覚えときや』って。『わかった』。ほな、べつに学校行かんでもええわ、ってことに家族の間でなりまして。津川さんってああ見えて、すっごいガンコジジイなんで、決めたことは絶対やらす。途中でやめたら、怒られる。薬でもなんでも、始めたらきっちり毎日飲む人やったんで。自分が決めたことやから、舞台の稽古とか、それに関することは必ずやりなさい。そのかわり学校は別に行かなくてもいい。お仕事は自分が決めたんやから、兄弟ふたりとも、親が死んでも舞台は出るって約束して舞台にあがってました。めったなことでは休ませへんと。でも、ふたりとも、舞台を休みたいと言うたこと一回もないんですよ。ごねられたこともない。学校は行きたくないと言われましたけど」

兄弟ともに、役者をやりたいことは幼いころに自分で決めた。

「まだものごころつくかつかないかの、劇団組んだころにはもう言うてましたけど、自分で決めたことを覚えていられる年齢になってあらためて聞いたら、答えは同じでした。ふたりとも舞台が好きなのは小さいころからで、祀武憙は兄貴の陰に隠れがちですけど、実はすごい情熱がある。ちなみに祀武憙はね、生まれたときに看護師さんに『勝新にそっくり』って言われたんですよ。役者の血が濃い家系だとか、なにも言うてないですよ。でもたしかにね、眉間にシワ寄せて、もみあげがあって、ほんまに勝新そっくりやったんです。勝新そっくりの赤ちゃんってねえ。こんな両親やったから、見た目も中身も、濃いい子どもが生まれたんでしょうね」

兄弟それぞれ、兄だから、弟だからと区別して育てたところはあるのかどうか、聞いてみると、

「お兄ちゃんは、弟を守る立場やないですか。だから、お兄ちゃんに対しては、プレッシャーを与えすぎたかもしれないですね。弟には、兄貴には逆らうなと。それでも気に入らんかったら、どつきあいせえと、止めないから。負けたほうが勝ったほうの言うこと聞け、って言うてました。殴れ殴れって。どつけるんならどつきなさいって。ところが兄弟で、どつきあいの喧嘩したこと、たぶん一度もない。見たことない。口喧嘩とか、雰囲気で喧嘩してるなっていうのはあっても、どつきあいは見たことないんです。寝ぼけて当たったこぶしをいまだに覚えてるくらいだから。わたしもどついたことは、あんまりないですね。あんまり、うん、覚えてるくらいしかないですね。津川さんはわたしに比べたら、どついたりしてましたけどね。男の子やから、スパルタでしたから。弱いものいじめをしたときと、あと、ウソはあかんとか。そういうときに」

4歳のとき、将来「座長になりたい」と言った鵣汀は、10歳で副座長を襲名する。

「襲名のときの芝居が『残月二本棒』っていう、浪人の役で、正義の味方なわけですよ。悪い人からかわいそうな人を助けるっていう。鈴なり座で襲名公演しました。それがあんまり評判がよくて、ビデオにも残ってますけど、どこどこの座長の息子よりもこの子のがよっぽどうまいがなっておばちゃんの声が入ってる。10歳の子にしたらね。いま見たら笑えますけどね、当時はね、子どもにしたらようやったなって。次の月、新開地やったんです。同じ芝居をやってほしいと言われて、新開地と鈴なりの大きさってぜんぜん違うでしょ。あの子は必ず、劇場にのりこんだら、花道からずっと舞台を歩いとるんですよね。花道から七三までが何歩、上手から下手までが何歩、奥までが何歩って。わからなあかんやん。そんだけ大きい舞台で、歩数も調べてたはずなのに、たぶんお客さんの多さに自分が飲み込まれたんでしょうね、焦った。最後の最後のセリフをちょっと焦った。それは失敗というほどのことやなくて、わたしらが気がつくかどうかぐらいのことで。おそらくお客さんもどこ失敗した? くらいやたっと思うんですけど、鵣汀はちょっと萎縮したまま、チョンと終わった。幕が閉まったら、すーっと津川さんが楽屋に入っていって、怒ってるなって思ったけど、花道に入っていった鵣汀が戸をあけて楽屋に入ってきた瞬間に、正座して『すいませんでした』って謝ったんですよ、先に。先に謝ってる子に、津川さんがはんてんで背中をバシーッてしばいて、『舞台に飲まれるな!』言うて。『大きさが違うのはわかってるやろ』って怒られて。わたしはもう腹立ってきて。10歳の子が、まして生まれて2回目のお芝居で、新開地劇場って、たいがい大人の役者でも大きさ的にしんどいとこやのに、ひどすぎるって。別れてやろうと思ったくらい腹立って。子ども連れて出て行くんじゃなくて、あなたが出て行ってくれって思ったくらい。そんな叩かんでくれって、言いましたよ。そしたら鵣汀が、『僕が悪い』って。ショーの準備があるから、早う支度せいっていわれて、すーっと上がっていったんですけど。当時の新開地の棟梁が、ええ大人でもな、たいがいの失敗をしてもこんな怒られ方はない。あの明るい子がブルーを通りこしてブラックやがなって。ここの座長は息子に厳しすぎる。あんまりにもかわいそすぎて、もう、どない言うてええかわからへんわ、ってわたしに言うてきはったから、そやろな、そやねん、ってもうわたしも腹立つわーって。もう絶対、今晩、文句いってやろうと。ショーになったら、鵣汀がいつもどおりに、っていうか、いつも以上に明るくブワーっとやってたんですよ。棟梁があの子は切り替えてんのやなって。たぶんそうですねーって言うたら、津川さんがひとこと、『芝居で自分が十二分にできひんかったんやから、ショーで取り戻さんかったらどこも取り戻せるとこないわな』って言うたんです。それを本人がわかってたかどうかわからんけど、とりあえずめちくちゃ頑張ってて。その日の晩に、あんまりにもひどすぎるし、子どもに厳しすぎると、そういう世界なのはわかってるけど、もう少し大目に見てほしいし、はんてんでしばいた姿がすごくつらかったって津川さんに言ったら、『お前出て行け、いますぐ』って。『お前はあの子にとって、邪魔になる親やと。あの子はいま甘やかしたらあかん。鉄は熱いうちに打てと言うやろ、いまそういうときなんや。そんなときにあんたみたない甘いこと言うたら、ブレてまう。そんな母親はそばにおいたらあかん。鵣汀連れてくなら連れて帰れ。でも、あの子はたぶん帰らへんって言うよ。黙って見ときないさい』と。自分、黙ってないやん、って感じやけど、『自分は師匠で、先輩で、座長で、言わなあかん立場やから言うてる。けど、あなたは母親の目でそうして見るんやったら帰りなさい。どうするか明日までに決めなさい』って。話聞いて、それまで腹立ってたんですけど、筋が通ってるって。母親として見てしまったな、たしかにと。これが同じ役者として見たら、そやな、歳は関係なく、舞台上がったら、お金もらって木戸銭もらって舞台に立ってるんやったら、失敗は許されない。そらそうやな。大人であっても子どもであっても関係ないわな。そのなかに入ってるわけやから。それだけの怖さをちゃんと持っとかなあかんねん、この子はって。わたしが間違ってたんやなって思いました。まあ、次の日起きて、どうすんの? とも聞けへんしね」

親離れ、子離れが、芸の世界ではあっという間にやってくる。親なら許してあげられることも、あえて許さない厳しさという愛情が必要なこともある。心を鬼にして、それを伝える親もまた、泣きたいような気持ちなのかもしれなかった。

晃大洋は、劇団の舞台と並行して、商業演劇の舞台に立っていた時期がある。その経緯は、祀武憙座長のインタビュー回に譲るとして(こちらから読めます)。外の舞台は、思いがけず自分がこれまでやってきたことを、客観的に見直す機会にもなったという。

「最初はそんなに乗り気やなかったんですけど、現場に行ってみたら、いろんな役者さんが来はるから、なるほどな、こういうふうにすんのんか、こういうふうに調子を飛ばさんようにするんやな、っていうのが多々あって楽しくなったのと、衣装プランナーっていう仕事ももらったんですね。衣装をプランニングするっていう。その仕事でお金もらったときに、日頃劇団でやってる仕事でお金もらえるなんて最高やなって。着付けするのも、劇団だったら、当たり前にタダじゃないですか。でも水前寺清子さんとご一緒したときに、着付けをしたらものすごい感激されて。水前寺清子さんて、肩幅37センチしかないんですよ。その当時の、13歳くらいの鵣汀がだいたい37センチやったんで、毎日着せてるでしょ。で、衣装を着せてたら、こんな気持ちよう着れたんは、亡くなったお姉さんに着付けてもらってたとき以来やと。お姉さんが亡くなったから、着物着なくなったんやて。コンサートのときに、ほかの衣装屋さんじゃダメやから、この人貸してくれってプロデューサーに言いに行ったんですって。わたし、役者なんですと、だから衣装方にはなれませんと。ギャラ出すから、って言われてんけど、無理ですって。そしたらせめて、あの時の衣装を貸してくださいって。それもお金になるんですよね。わたしらにしたら、いつものことやし、タダのつもりでいたら、いや、これは水前寺さんからですって。衣装貸したらお金になる、衣装プランしたらお金になる、何十万、何百万になる仕事を毎日、わたしやってるやん!みたいな。どれくらいわたしはお金になるんやろ、っていう興味が湧いて、それで外の世界も面白くなった。自分の値打ちがどんなもんなんやろかってね」

芝居も、裏方の仕事も、大衆演劇の舞台で培った実力は新たな縁を呼び、子どものころ、テレビ中継で親しんだ松竹新喜劇にもつながっていく。

「憧れの高田次郎先生にも会えましたし。会えただけやのうて、松竹新喜劇に誘ってもろたりね。曾我廼家寛太郎さんも、新喜劇に来い来いっていうてくれはるんですけど、でも、新喜劇は大好きやし、ほんまにこれからも守っていってもらいたいと思う劇団やけど、わたしが行ってどうこうなるようなんじゃないなと思ったし。高田次郎先生は、『君は、この間亡くなった千草英子(ちぐさひでこ)先生以来の逸材やで。だから、ほんまおいで。自分が生きてるうちにつなぐから』って。先生92歳なんですよ。知り合って10年以上やから。でもだからって、劇団置いて新喜劇っていうのは違うからって。『そうか、自分とこの劇団守らなあかんもんな』。すんませんって。以前に、京都の南座で上演した芝居に出たとき、漫才師の役やったんですよ。毎日、漫才のネタを、WAHAHA本舗の副座長のわれちゃん(我善導 われぜんどう)とネタを考えて。そこに当時、漫才協会の理事やってた、青空球児さんがいてて、『おもろいな、お前は』って。ありがとうございます。わたし、漫才で食べていけますか? って聞いたら、『おう、いますぐ浅草の寄席、出られる』って。ウソでしょ? って言うたら、『ほんまや、漫才協会のオレがいうてんねんから間違いない。下手なやつよりずっとネタできる』って。そうか、漫才でも食べていけるかって(笑)」

次回は、そんな晃大洋の笑いのセンスが爆発する、ナゾの歌い手・谷町シンジの登場です!

(2023年11月28日、12月9日 三吉演芸場)

取材・文 佐野由佳

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