今年(2024年)、近江飛龍劇団が「劇団創設だいたい110周年記念公演」を開催した。上演したのは「二人のブルース」。キャッチコピーには「天国の二人の父に捧ぐ」とあった。二人の父とはほかでもない、近江飛龍の父・近江二郎と、笑川美佳の父で、昨年(2023年)亡くなった浪花三之介のことである。
近江飛龍が近江二郎を演じ、笑川美佳が浪花三之介を演じたこの舞台。「帽子被って、ジャンパー羽織ると、お義父さんにそっくりやな」と終演後の舞台のトークで、笑川美佳に向かって近江飛龍がしみじみ言った。
伝説の無頼派役者とも言うべき・近江二郎と、昭和の大衆演劇界の一時代を築いた浪花三之介。実は近江飛龍も笑川美佳も生まれるずっと前に、二人には、まさかの深い縁があったというドッキリカメラ(古い!)もかくやという実話が、この芝居の核になっているのだが、それはまた後の回で詳解するとして。この記念公演をきっかけに、笑川美佳にインタビューを申し込んだ。
以前、近江飛龍にインタビューに登場してもらって以降(こちらから読めます)、妻である役者・笑川美佳のことももっと知りたいという思いがあったからだ。同時に、浪花三之介に生前、取材を申し込む機会を逸してしまった後悔もあった。娘である笑川美佳の言葉で、浪花三之介を語ってもらいたい。そのことが、笑川美佳をより深く知る手がかりにもなると思ったのだ。
笑川美佳を最初に知ったのは、姿ではなくその声だった。コロナ禍真っ最中の、近江飛龍が配信する17ライブで、画面には映っていない横の方からハイトーンな笑い声だけが聞こえてきて、びっくりした。一度聞いたら忘れられない、インパクトのある、関西弁の笑い声(喋っていなくても、それは明らかに関西弁を話す人の笑い声なのだった)。
それが近江飛龍のライブ配信を、裏方としてサポートする妻・笑川美佳の声だということは、視聴者のコメントですぐにわかった。そうかと思うと、突然、ビニールのかつらと隈取のお面を被って、一瞬画面に登場することもあった。その姿は、なぜか視聴者から「大明神」と呼ばれ親しまれており(大明神誕生の経緯はこちらから読めます)、インパクトがありすぎるいでたちなのだが、存在としては黒子で、ライブ画面に登場している時の「大明神」は基本、しゃべらない。控えめなのに強烈、強烈なのに控えめという、絶妙なポジションで黒子を演じていた。
芝居のなかの笑川美佳を最初に観たのも、ライブ配信だった。緊急事態宣言が解除されて程なく、近江飛龍劇団が九州の龍登園で公演をする様子を、まだ劇場に来ることは難しい人も多いだろうからと、ほぼ毎日劇場中継をしてくれた時期があった。そこでの飛龍座長と笑川美佳の掛け合いのおもしろさといったら、小さなスマホの画面に向かって、ひとりで苦しいほど笑ったものだ。
外出もままならなかった当時、近江飛龍のライブ配信にどれだけ救われたかという話は、大衆演劇ナビを始めた初期の頃の「近江飛龍 取材後記」に書いた(こちらから読めます)。そこには、座長の近江飛龍だけではなく、笑川美佳にも特別な思いがあったという。コロナ禍が本格的に始まった当時の、忘れられない光景がある。
「なんであそこまでライブ配信を頑張ったかっていうと、緊急事態宣言が出て舞台ができなくなったのが羅い舞座京橋劇場で、いちばん最後の幕閉めて、舞台できませんっていうときに、泣きながら帰らはったんですよ、お客さんが。そんなとこ行ってコロナになったらどうすんのって家の人に怒られて、開演中に電話かかってきたらしくて、ごめんね、ごめんねって謝って帰らはるから。これは一大事やな。国あげての騒動やなって。こんな人いっぱいおる。泣いて帰られた方を見て、このままやったら笑いがなくなるなあって」
近江飛龍は緊急事態宣言が発令されていた当時、毎日どころか、朝に昼に夜にと、日に何度も配信をして、視聴者を笑わせた。化粧して着物を着ての舞踊配信もあれば、素顔のままのフリートーク配信、日常を記録したようなYouTube配信もあった。それはどれも、たとえどんなに自然体のように見えていたとしても、エンターテイメントとして演出されたものであることが、近江飛龍の配信の特徴だった。劇場をスマホの画面に置き換えて、視聴者という観客へのサービス精神が隅々にまで行き届いていたからこそ、見る側は安心して楽しむことができた。朝のラジオ配信は、いまも続いている。「配信は片手間ではやらない」と近江飛龍は言う。それを裏方で支えたのが、大明神こと笑川美佳である。
そしてようやく、近江飛龍劇団が心斎橋角座で公演したとき、初めて生の舞台で笑川美佳を観ることができた。演目は「ゲロ松お仙」。コロナ禍の飛龍座長のブログや17ライブに登場してなじみになっていた、近江飛龍演じる丁稚のキャラクター・ゲロちゃんが活躍するお笑い時代劇で、笑川美佳は番頭をたぶらかすヤクザな姐さんお仙を演じていた。誰もが心おきなく楽しめるお笑いの舞台。たっぷりとした笑川美佳のお仙がふらりと舞台に登場したとき、何も喋っていないのに、明らかに空気が変わった感じがした。映像を通して聞いていた、よく通るハイトーンな声が劇場いっぱいに響くその前に、いかにもワルそうなお仙がそこに立っていて、すでにしてこれから何かおもしろいことが起こらないはずはないという気配を満々にたたえていた。
実は浪花三之介を初めて見たのもこの舞台で、いわゆる大衆演劇界のレジェンドと言われる役者を観たこと自体が、初めてだった。角座は江戸時代から続く道頓堀にあった演芸場だが、いまは移転して新しいビルのなかにある、ライブハウスのような劇場である。しかも公演当時は、コロナ禍もまだ開け切らないころで、客席にはパイプ椅子がまばらに置かれているような状況だった。しかし浪花三之介が現れたとたん、たしかにそこはにぎやかな笑い声が響く、ぎゅうぎゅうにお客さんが詰まった劇場になったような気がした。いまの時代からは考えられないほどの、たくさんの観客を沸かせ続けてきた大衆演劇の役者というのはこういうものかと、レジェンドがまとう空気の濃さに圧倒されたのだった。
笑川美佳は、そんな浪花三之介の長女として昭和49年、大阪に生まれた。その当時、浪花三之介は大衆演劇界の大スターだった。
「全盛期はわたしがまだちっちゃかったころですけど、覚えてます。キラキラしてた。きれいなぁ、と。おとうさんなんですけど、キラキラしてる。化粧してる後ろ姿とか、すごいおっきかったです、背中が。劇場は、朝日劇場とか新開地劇場とか。おっきい劇場といわれるところばかり、回らしてもらってました。70年代後半から80年代にかけてかな。生の舞台ブームというか。ちょっとおめかしして、舞台を見に行くというのが流行ったころです。今みたいにサンダルがけではなくて、その日のために服を買って、着物を着てという人ばかり。新地のママさんとかね、いまやったら、お店に行かないと会えないようなママさんたちも劇場に来てましたから。いい時代やったですね」
お花(ご祝儀)も盛大だった。
「金額も違ってましたし、派手でした。鉢に生け花のようにお札が立ってたりとかね。傘にいっぱいお札が吊るしてあって、パッと回したら、ふわーっとお札が回る、メリーゴーランドみたいに(笑)。座長が座長らしかったというかね。いまでこそ、若い子でも正絹の着物を着させてますけど、昔は座長さんでないと着られなかったです。だから、お父さんの着物は、たたむのにもすごい緊張した。いい着物だから。ご飯も別で、品数も違う。ザ・座長って感じでしたね。いまはお友だちみたいになってますけど。フィナーレにトークなんていうのも、昔はありえなかった。口上はありましたけど、どうもありがとうございましたと、明日のお外題を言って終わり。毎日のことですから。送り出しもありましたけど、いまみたいではなかった。役者のそばに寄るなんてことはなくて、ほんとのご贔屓さんしか近寄れなかったです」
「そうそう、わたしお父さんのお客さんに、監禁されたことがあるんです。ちっちゃいころ。公演してる、同じホテルに泊まってたらしくて。お父さんのことが好きすぎて、わたしが邪魔やったんやないですか。そういう存在やったんですよね」
淡々とこぼれ出すエピソードも、超ド級。しかし笑川美佳自身は、決して舞台が好きではなかったという娘時代。そんな役者人生、始まりの物語は次回へ!
第2回へと続く
(2024年7月15日)
取材・文 佐野由佳