剣戟はる駒座を意識したのは一昨年のこと、勝龍治総帥の取材(こちらから読めます)がきっかけだった。芝居も舞踊も骨太で本格派。大衆演劇が猛スピードで変わっていく今だからこそ、はる駒座をもっと知りたいと思った。大衆演劇が見失ってはいけないものが、はる駒座にはあるという気がしたからだ。
昨年(2023年)末、横浜の三吉演芸場で晃大洋代表、津川鵣汀座長、津川祀武憙座長の3人に話を聞いた。まずは、鵣汀座長のロングロングインタビューからお届けする。
津川鵣汀が座長になったのは2013年、20歳の時だった。今の姿からは想像もつかないが、周りから反対されまくっていたという。
「10歳から副座長やったんですけど、お客さんから座長の邪魔をしてると言われたり、小屋主さんやスタッフさんたちからもむっちゃ向いてないって言われてました。大会とかも全然出てなかったんで、人の目にも触れてなかったし」
自分は座長にはなれないかもしれないと思っていた。
「そんな僕に『座長になって、うちの劇場にのれ』って言ってくれた人がいたんです。当時の僕にそんな風に言ってくれたのは、その人だけやったんですよね。あぁ、嬉しいなあと思って。『ほな、座長の襲名はうちの劇場でせぇよ』って、そんなことまで言ってくださって」
2020年に亡くなった新開地劇場の森本利雄会長だった。
「会長は僕の舞台が観たいからって、うちの劇団を呼んでくれてたんで。うちの親父にもろに言ってましたね。竜ちゃん(父・津川竜座長のこと)はえぇねん、わしら、こっち(鵣汀のこと)やからって。10代の頃ですね」
にもかかわらずタイミングが合わず、襲名は別の劇場でやらざるをえなかった。
「でも、僕、2013年の9月に座長襲名して、翌年の2月に新開地にのってるんです。2月は別の劇場に決まっててポスターまで送ってたんですけど、急に新開地劇場に変更になって。で、新開地行ったら『お前、うちで襲名するんとちゃうんかったんかいッ!』って会長、むちゃくちゃ怒ってて(笑)。『すんませーん』つって、もう忘れもしないですね、会長がぐっと身を乗り出してきて、『お前、楽しいかぁ?』って言われて。『うち来て楽しいか?』って言われて、『ハイ、楽しいです!』。ほんまに楽しいからそう答えたら、『(あのときの)約束守ったぞ』って言われたんです」
その日から、鵣汀ではなく、座長と呼ばれるようになった。
「ひとりで舞台で照明作ってたら、会長がふら~っと突然来たんですよ、夜中の2時、3時ですよ。『わっ、おはようございます!』『おはようって夜中やんけ』『ハイッ』『お前ひとりでやってんのか』『ハイッ』。で、いきなり『10年、のり続ける自信あるか?』って言うんですよ。『えっ?』てなってると、『即答せぇ、どっちやねん』『ハイッ』って言うて、ちょうど今年で10年なんです」
座長になって10年、毎年、新開地劇場にのり続けた。
「ほんまにかわいがってもらいましたね。座長なった頃って、大きい劇場ってそんなに寄せてもらうことなかったんですけど、いきなり新開地なんて光栄なことで。そんなに人気なかったんで、大入も9回か10回しか出せなかったし。でもね、ママさんが優しかったんですよ。ほんまに、思い出すとあれですけど、『すいませーん、大入少なくて』って言うたら、『大入は回数じゃなくて中身よ』って言われて。『ちゃんといつか、フルで毎日出せるようにします!!』って返事するしかなくて。でもね、コロナ禍の前の2月かな、お邪魔したときにフルで出たんですよ」
当時、大入は200人だった。毎日、大入は出ていたが2月は日にちが少ない。
「このままやと29回しか出ぇへんな、やばいな~って思って、鵣汀祭りでちょっと変わったことしたんです。こんなこと、あんなことしたくてって言ったら、珍しく会長がえぇよ、えぇよって全部やらせてくれはって。で、ダブルが出たんですよ。400人入って、ちゃんと大入30回出て。そしたら会長が、『誕生日公演、来年5月な』って、その場で決めてくれはって。でもコロナになって、半月お休みになって断念するんです。なんで、僕は新開地で誕生日公演ってできたことないんです、会長が生きてはるときに。『鵣汀なぁ、気を落とさず、またのれや~』っていう電話が最後でしたね。あの、いろんな思い出ありますけど、いっぱい教えてもらいましたし、いっぱい怒られましたけど、僕がいまでも送り出し走っていくのは新開地の会長の教えなんで。『走っていけ。ひとりでも多くのお客さんにお礼を言える役者になれ。追っかけていってもえぇからお礼を言えって。そうしてるうちに、お前が出てくるのをお客さんが待つから』。ずっとやってますね、それは。やってるかな~」
第2回に続く!
(2023年11月28日、12月7日 三吉演芸場にて)
取材・文 カルダモン康子