第5回 近江二郎は浪花三之介だった⁈

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笑川美佳インタビューの最終回は、近江飛龍座長を交えて「劇団創設だいたい110周年記念公演」で上演した「二人のブルース〜天国の二人の父に捧ぐ〜」について座談会をお届けする。

芝居を見ていない読者にはあっさりネタバレで恐縮だが、近江飛龍の父・近江二郎と、笑川美佳の父・浪花三之介を主人公に近江飛龍が書き下ろしたこの芝居、物語の核となっている事実にびっくり仰天だった。一言でいえば「近江二郎は浪花三之介だった」という事実だ。一回聞いただけでは何のことやら、よく飲み込めないと思うが、最初に浪花三之介という芸名を名乗ったのは、実は近江二郎で、それを受け継いで浪花三之介を名乗った役者が、笑川美佳の父・浪花三之介の師匠に当たる。つまり、厳密に言うと笑川美佳の父である浪花三之介は三代目で、そして初代浪花三之介は近江二郎だったという、知る人ぞ知る、嘘みたいなホントの話だ。

「二人のブルース」。舞台は昭和54 年、近江飛龍演じる近江
二郎が54歳、笑川美佳演じる浪花三之介34歳の頃。昔を回想
するところから始まる。

ことの次第をかいつまで言うとーー。

九州出身である近江二郎は、役者の家に生まれたわけではないが、戦後、新派系の役者だった初代近江二郎に憧れて役者を目指す。

地元九州で乱暴狼藉をはたらく近江二郎。若き日の近江二郎
のエピソードは、どれもハチャメチャ。近江春之介演じる爺
(右)が、狂言回しとなって物語は進んでいく。

九州の興行師である中川興行社の長女と結婚、初代大川竜之助を名乗り人気を博すも、妻が早逝。大川竜之助の名を義弟に譲り劇団を去り放浪するなかで、やがて初代鹿島順一の長女・笑川ユリと再婚、大阪へ。

働いていた劇場にのっていた浪花千栄子一座が、ラジオ出演で忙しい座長の代わりの役者を探していると聞き「ここに九州の大川竜之助がおります」と売り込んだところ採用が決定。大川の名は義弟に渡してきたので、新たな芸名を考えることになった。

大川竜之介として九州で一世を風靡した近江二郎だが、その
名を捨てて大阪へ。ちなみに、二代目となった大川竜之介と
近江二郎は顔がそっくりで、当時、座長が入れ替わっても誰
も気が付かなかったとか。のんびりした時代である。舞台で
は二代目大川竜之介を不動倭が演じた。

このとき、浪花千栄子一座の、座長より一歩も二歩も下がって舞台をつとめます、という意味でつけた芸名が「浪花三之助」だったのである。舞台は評判になるのだが、そうなると天邪鬼な近江二郎は、雇われ座長は居心地が悪い。劇団の花形に浪花三之助の名前を「お前が初代を名乗れ」と譲り、自分は関係各位に了解を取り付け、師匠である近江二郎の名を名乗ることになったのである。

晩年の近江二郎が、若い浪花三之介と会う場面。初代浪花三
之介は実は自分なのだと告白する。縁があったらまたどこか
で酒でも、と約束するのだが、果たされることはなく、近江
二郎は昭和60年に亡くなる。享年60。

一方、浪花三之介を譲られた浪花千栄子一座の花形は、初代浪花三之介(厳密に言えば二代目)として座長に就任。しかしやがて借金がかさみ、借金取りから逃れるために、若い座員の三升武に無理やり借金ごと座長を譲り渡すという暴挙に出た。この三升武が誰あろう、笑川美佳の父である。初代三升豊を父に、母は泉艶子という、役者一家の長男。のちに大日方満、美里英二とともに、関西の三羽烏と呼ばれた大衆演劇界の大スター浪花三之助となっていくのであるーー。

「僕の知らない時代のことを、また色々教えてください」。

芝居はその事実を軸に、二人の役者の人生を、それぞれ時間軸を追いながら進んでいく。近江二郎を近江飛龍が、浪花三之介を笑川美佳が演じた。最後は、天国の二人が現生では果たせなかった再開を果たし、酒を酌み交わすところで幕となる。

それから約40年。天国で再会を祝して乾杯する近江二郎と浪
花三之介。近江二郎亡きあとの、さまざまな出来事を語り合
う。

――「二人のブルース」をつくろうと思ったきっかけは?

近江飛龍(以下、飛龍) 当初、公演を予定していた6月19日が「父の日」で。「父の日」やからという思いつきやったんです。奈良健康ランドの一室で一気に、思いついてから二日間で書き上げました。しゃべりながら、うわーって書いて、できた!って。最初は違う芝居を予定してたんですけど。

――最初に浪花三之介を名乗ったのが近江二郎さんだったという事実は、浪花三之介さんはご存知だったんですか?

笑川美佳(以下、美佳) 知ってました。朝日劇場で、あんた、ほんとは三代目やでって言われたと。

飛龍  隠してたわけでもなく、聞かれたら言うくらいの感じやったと思いますけど。僕は昔、母親(近江竜子)から聞いて知ってました。で、お義父さん(浪花三之介)と飲んだときとかに、話を照らし合わせたら一致してたんで、ほんまやったんやなと思って。

往年の朝日劇場での浪花三之介公演ポスター。「二代目」の文
字が踊る。実は三代目だったという、まさかのほんと。

――近江二郎さんと浪花三之介さんは、生前、実際にお会いしてるんですか?

飛龍・美佳 一回は会ってるかな。逆に言うとそれくらいの感じだと思います。

――大正14年生まれの近江二郎さんと、昭和20年生まれの浪花三之介さんですから、活躍された時代も少しズレてるんですよね?

飛龍 同時代に舞台には立ってるんですけどね。芝居としてつくるときに、二人の人生をどうくっつけるか。それぞれ昭和何年に何をしてたかを洗い出して、無理やりくっつけてみたり。うちの親父(近江二郎)は、ほんまに闇に生きた役者なんで、資料が全くといっていいくらい残ってないんです。僕の記憶と、昔、母親から聞いたり、周りの人から聞かされたエピソードを元にしましたけど、でももう死んで40年くらい経つんで、知ってる人はほぼいない。どう書いてもいいやと、創作の部分もかなりあります。でも劇場のセットを燃やしてしまったとか、舞台でおしっこ撒いたとか、あれは全部ほんまのことです。盛ってるわけやなくて(笑)。まだまだ書けないエピソードもいっぱいあったんですけど。

舞台で放尿、過激な演出で劇場を燃やしてしまった、など近江二郎の仰天エピソードは、芝居にも取り入れた。

でもお義父さん(浪花三之介)は、去年亡くなったばかりやから、ちょっと美化しないといけない(笑)。悪いとこなんてなかったですけどね。

美佳 真面目過ぎるというか。破天荒な人じゃなかった。そういう意味では、役者っぽくはなかったですね。ただただもう、家族より座員さんという考え。家のことは置いておいても、劇団を食べさせていくという感覚でしたね。

浪花三之介を紹介する展示。浪花三之介は、初代三升豊、泉艶
子の長男として昭和20年、大阪・堺に生まれた。師匠は浪花千
栄子劇団の初代(ほんとは二代目)浪花三之介。大日方満、里
見英二とともに、三羽烏と呼ばれ一世を風靡した。浪花三之介
劇団座長を永年つとめ、晩年は近江飛龍劇団に所属。意見は合
わずとも、独自の道を行く娘婿の近江飛龍を認めていた。

飛龍 最後は天国で再会する、と決めておいて、そこから逆算してストーリーを組み立てていきました。お義父さんが死ぬところまでやるかどうかは、すごい考えました。まだ去年のことだから、現実の記憶が先に立って、あまりにも悲しすぎるんで。だから、そこはぼんやりとしておいて、あの世の話にもっていって、あとは逆算してつなげていくことにしました。

――天国で再会する場面があることで、観ている方も救われるというか、ファンタジーとして観ることができました。

飛龍 そうですね。

近江飛龍と笑川美佳が一緒になるずっと前から、実は深い縁の
あった近江二郎と浪花三之介。まさかそれぞれの息子と娘が一
緒になって、本人を演じる芝居が誕生するとは。二人の父も天
国で驚いているに違いない。

――浪花三之介さんは昔の話をされることもあったんですか?

美佳 私にはあまりしなかったですね。

飛龍 僕にはようしてくれました。そうやって聞いた話と、こっち(美佳さん)から聞いた話を混ぜて、ちょっとおもしろくしてみたり。

――晩年、浪花三之介さんは浪花劇団を退いてから、近江飛龍劇団に移籍されたわけですが、飛龍座長から見て、浪花三之介さんはどういう役者でしたか?

飛龍 意見が合わない(笑)。いや、僕がお義父さんの言うことを聞かないんですけどね。

美佳 太平(飛龍座長の本名)は言うこと聞かーん、あいつはほんまにってよう言うてました(笑)。

飛龍 義父さんには、ゆっくりパチンコでも行ってねって言うんやけど、行けへんしな。

美佳 もう気楽におってね、言うてたんですけど。

飛龍 舞台の話をすると意見してくれるんですけど、お互いに看板張ってた人間やから勝ち合うんですよ。お互いが演出するタイプでしょう。思い描いているビジョンが違うんです。向こうはそれが最善やと思ってるけど、僕は違う。こっちのほうがいいと。絶対、合うことがない。最後に雪を降らすか降らさんかくらいの細かいことにしても。いや、ここは降らした方がええ、降らさんほうがええ。で、やっぱり最後は僕が自分の意見を通してしまう。

美佳 でも、お父さんは、座長はあれでええねん、あのままでえぇと、認めてました。

近江飛龍劇団に移ってから、実際に浪花三之介が愛用していた
ジャンパーと帽子、眼鏡。芝居のなかで、笑川美佳が着用した。

――飛龍座長のブログにも書いてありましたね。

飛龍 お義父さんの残した名言ね。「近江飛龍はそんなに上手くない!でも『飛龍』というブランドを作り上げ、人に文句を言わせない唯一無二の舞台とパフォーマンスは認めざるをえない。だから教える事は何もない。それよりも近江飛龍独自の芸を磨いた方がお客様は喜ぶんだ」って。亡くなる前に、去年の誕生日公演でお互いに意見を出しあって、初めて一本芝居ができたんです。最後の最後に。座頭市ものなんですけど、この芝居をやりたいんやって言うたら、そんなんやり尽くしてるから新しぃしようやって。そこに博打のシーン出したらどう? それやったらこうしましょう、ああしましょうって、全く違う芝居が出来上がって。これで行こう!って。

――そういえば、座頭市をやっている近江二郎さんの貴重な写真も、公演の時に飾られていましたね。

飛龍 うちの親父、若い頃、勝新さん(勝新太郎)に似てたんですよ。名古屋で公演してるとき、勝新さんが御園座で公演してて。わしの物真似してるやつがいるって噂を聞いて、スタッフと出演者で見に来たらしいんです。劇場を貸し切って。親父が知らんと出ていったら、勝新さんが座ってたと。そっから宴会みたいになって、勝新さんがそこは違ういうて、二人で座頭市やったって聞きました。50、60年くらい前の話ですけど。

近江飛龍の父・近江二郎の貴重な写真の数々。下の写真が座頭
市。手前は近江竜子。近江二郎は大正14年九州の生まれ。48歳
のときに授かった待望の長男が近江飛龍である。役者を退いて
いた時期もあったというが、長男誕生で劇団の再興を決意。し
かし近江飛龍12歳のときに他界。誰もやらないことを先駆ける
精神は、息子近江飛龍に脈々と受け継がれている。

――貸し切ってでも見に行くというのは、かなり話題になってたんでしょうね。

美佳 50年も前に、そんなね、劇場のセット燃やしたり、水にひたしたりしてたら、そりゃ評判になりますよ。うちのお父さんは、飛龍座長のお父さんは無茶苦茶や、無茶苦茶な人やった言うてました。それくらい、誰もやってなかった、誰も考えつかないことをしてたと思うんです。

飛龍 でも晩年は、親父では集客できなかったんです。お客さんがあんまり入らなかった。ただ、同業者にファンが多い役者でした。

破天荒ではあったが、丹精な顔立ちの役者だった近江二郎。

――近江二郎さんと浪花三之介さんは、また全然違うタイプの役者ですね。

飛龍 時代がちょっと違ういうのもありますけど、うちの親父はお義父さん(浪花三之介)と真逆なんです。お義父さんのお客さんは上品なお客さんでしょう。近江二郎のお客さんは日雇い労働者ばっかりです。そもそも、のる劇場が違った。芸の質が違ったから。

――そういう区別が当時ははっきりしていた?

飛龍 僕が子どものころでも、浪速クラブは、客席見たら男しかいなかったですから。お客さんと役者が喧嘩したり。その横で、朝日劇場ではきれいな舞台をやってたんですよ(笑)。

美佳 浪速クラブは、ほんとに芝居小屋という雰囲気でしたね。お客さんがつけてくれるご祝儀が、握りしめたようなお札でね。その日働いて、もらってポケットに入れたお金を、そのままつけてくれるみたいな。

――いい話です。どちらがいい悪いではなく、浪速クラブと朝日劇場には、そういう違いがあったんですね。

美佳 朝日劇場は先代の社長さんがお芝居が好きで、役者さんに、負担をかけるなという方で。役者さんに道具を手伝ったりさせたらいかんと。いまでもそうです。朝日劇場は裏方さんの人数が多い劇場で、珍しいことです。いなかったことないです。

飛龍 多い時は7人くらいおったな。照明とかも全部、劇場がやってくれてます。

2022年、朝日劇場で。浪花三之介には花道のある劇場がよく似
合う

――大衆演劇は音響も照明もみんな劇団がやるというのを聞いて、むしろそのことに最初は驚きました。

美佳 音響は劇団がするというのは昔からですね。朝日劇場の社長さんは、ほんまにお芝居が好きやったんですね。社長室から芝居を見てはるんです。カメラ撮ってはって、カメラのアングルが変わると、社長見てるなってわかる。それでね、昼の部にあった道具が、夜なったらないとか、あるんですよ。この役者はこの道具をよう使い切らんかったから、なおせって。裏方に指示を出す。そんなお芝居好きな社長さんで。もう亡くなりました。

――劇団がそうしてくれと言っているのではなく、社長さんが密かに指示するわけですね。実際そうすることで、芝居がよくなる?

美佳 それだけ見ててくれるんだから、役者ががんばろうっていう気になる。褒めてくれるときは社長室から座長部屋に電話かかってきて、お前とこのあの役者よかったで、とか、ええ女優おるやないかとか、言ってくれる。

近江飛龍劇団に浪花三之介が移籍してからは、再び父と同じ舞
台に立つようになった笑川美佳。

――そういう劇場主、社長はほかにもいましたか?

飛龍 亡くならはった、篠原の先々代の会長はそうでした。

美佳 舞台を知ってるから。劇場の社長が芝居が好きすぎて、お父さんと夜中まで舞台で芝居の話をしたりとか、立ち回りはこうやるんやとか話したり。昔はそんなことがいっぱいありました。

――その当時を思うと、いまは変わったと感じますか?

美佳 わたしが思うことですけど、劇場と劇団の温度差があるかな。劇場は劇場で思うことがあるし、劇団は劇団で違うこと思ってる。薄くても壁があるというか、お互い守りに入っているような感じがして。

飛龍 わかりやすう言うたら、朝日劇場は、昔はギャラが高かった。ごつ高かった。いま、売り上げっていうのは、劇場と劇団は折半でしょう。朝日劇場は劇場なんですけど、とてつもない金額で買い取りやったんです、劇団を。センターと同じように。しかもセンターよりも高く15日間で買ってくれる。観客が入っても入らなくても。

美佳 だから、入れようと努力しますよ。

飛龍 あ、いまは違いますよ。12月の公演は、僕らは1カ月公演ではないんで、1日なんぼで借りてます。

今年(2024年)の近江飛龍劇団の公演ポスター。この公演期間だけ
のスペシャル日替わりゲストを迎え、「近江飛龍劇団MIX」としての特
別興行。連日の大入りだった。ほかの大衆演劇の劇団と違い、近江飛龍劇団は毎月の
1カ月公演ではなく、年に数度の不定期自主企画公演を行っている

――基本いまは、どこの劇場でも1カ月公演する場合なら、売り上げは折半ですか?

飛龍 折半です。そこもちょっとおかしいと思ってますけどね。一歩外に出て俯瞰で見たら、おかしい。それだけの努力してくれたらわかるんですけど、いま何もしない劇場が大半ですから。

美佳 私が思てるのは、前進ばっかりせんでもええんやない? ていうことかな。いいカッコして、改革ばっかせんでも、戻ればいい。1カ月で入らなかったら、15日に戻せばいいし。昔は15日で移動やった時代もあるんです。そういうふうにやっていかんと。お互いしんどくなる。劇団も劇場も。お客さんもしんどくなる。

――昔は劇場についているお客さんが多かったと思いますが、いまは劇団と一緒に動く、みたいな感じですしね。

美佳 民族大移動みたいな(笑)。

飛龍 劇団が増えすぎたんです。昔に比べたら、劇団の数はめっちゃ増えてます。お客さんが選べるようになっちゃった。自分が気に入った劇団を観にいったらええし、って。昔は選択肢がそんなに多くなかった。案外、どこの劇団も同じようなカラーやったし。

美佳 いまはルールがない。今日は500円でやりますって言っても誰も怒らない。そういうとこ、あるんですよ。

飛龍 一番ひどいのは、前売り券1500円を買うともう一枚ついてくるっていう。実質タダでしょ。それをやってしまう劇団がある。

――そこまでしてでもお客さんを入れたい?

飛龍 入れたいんでしょうね。その場合、前売り券の1500円は劇団が負担してる。劇場は売上げにはなるから反対しない。劇団が勝手にやってることだと。普通は劇場が反対するでしょ、劇場の格を下げてしまうわけだから。

美佳 かつては、劇場に威厳があったというか。自分の劇場だというプライドがあったんでしょうね。一日目、舞台公演するじゃないですか。そこの劇場の社長が気にいらん座員が出てるとするじゃないですか。あの役者、使わんといてくれってって言って、使わせなかったり。自分の思うような興行ができないと、もう休んでくれ、給料渡したるから休んでくれ。うちの劇場ではお前らは立たれへん。使われへん、っていうような世界でした。

――名のある劇場はみんなそんな感じだったんですか?

美佳 寿座(昭和57年まで尼崎市杭瀬にあった劇場)の親父さんがそんなだったです。

飛龍 さらに昔の、九州の劇場には、先に劇場に着いた劇団から公演できるというとこもあったみたいですよ。

――先着順ですか!?

飛龍 そう。着順で取れるんです。でも、二番目に来た劇団のほうが人気やったら、最初に着いてたけど、お前らええわって言われて。その人たちは、近くの神社とかに掘っ立て小屋を立てて、そこでやる。

――それはいろんな意味で必死になりますね。

飛龍 戦後すぐの頃ですよ。三日で劇場変わってたような時代です。あ、僕は生まれてないですよ(笑)。親から聞いた話です。

芝居の話から始まって、いつの間にか今昔の劇場談義へ。話題は尽きないまま、約束の時間を過ぎた。名残惜しくも、ありがとうございましたと解散したのだが、その日のうちに、笑川美佳から「父のことで思い出したことがあるので、オンラインでもいいので話したい」と連絡をもらった。喜んでと日程調整をしたものの、双方なかなか予定が合わず、1カ月ほど経ったころ実現。画面越しに話を始めると「それがねえ、なんやったかなと。あのとき、メモしておけばよかったんですけど。忘れました」。大爆笑で幕となった。そんなオチもまたふるっていた。

「あれや!」となったらいつでも。

いまだにどんな思い出話だったのか、聞けていないのだが、思い出したらいつでもご連絡お待ちしております。

おしまい

(2024年7月15日・8月13日)

取材・文 佐野由佳

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