第5回 ギターを抱いた赤パンツ

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憧れた役者・明石秀雄のもとで修行を積み、友人たちと劇団を旗揚げ。一国一城の主人になったとはいえ、座長人生の始まりは、食べるものにもこと欠いたという。トタン屋根の劇場の楽屋で、みかん箱に電球を仕込んだこたつにあたって年越しをした。

劇団を旗揚げされたのは、おいくつのときですか?

「劇団におった友だちが、座組みたいんや、アキちゃん(本名章彦)一緒にやろやー言われて誘われて、じゃあやろういうて、3人でお金を出しおうて劇団組んだんです。19歳のときに。若いもんばっかりで座持ったもんだから、地方のね、和歌山の、人があんまり知らんような公民館とか。いまこういう小さい劇場が多くなりましたけど、そのときも、お客さんが入らん小さい小屋、そういうとこへやられとったんです。そしたらお客さんが入らんから、座員に給料払うのに、3人で毎月何千円ずつか出しとったんですけど、僕ひとりもんやから、いるこというたら自分のことだけやからいいんやけど、ほかの2人は家庭持ちやったから、お金が出せない。1年そこそこで、アキちゃん悪いわ、辞めるわって手ぇ上げてもうたんです。実際、ひとり者は僕だけやったから、どうしてもお客さんが僕につく。奥さんがいるっていうのは、役者にとってはハンデなんです。それで、ある程度の土台ができとったから僕は楽だったです。じゃ、このままやってもいいかって言ったら、いいよ、そのかわり俺も半年くらいおるわ、とか言ってね、一緒にやってくれました。だから、運もよかった」

そこから座長としての役者人生が始まったんですね。

「座長になり始めたころはね、苦労ばっかりで。いま若い人が劇団つくってする苦労といったら、おそらく自分の遊ぶお金がないいうことで、本当の苦労っていうのは知らんでしょうねえ。僕らの苦労は食い物がなかった。ほんまに。正月前なって、給料払うこともできずに、自分のオーバーとか大島の着物とかそういうもの質屋に持って行って、給料払ったこともあったし。で、その時分、12月京都の伏見劇場っていうところでやってて、屋根がトタンなんですよ。もう寒いじゃないですか、京都は。こたつに入りたくってね。正月前の休みに出かけるいうたってオーバーもなければ何もない。部屋でこたついうたって、こたつがないから、みかん箱みたいなのの真ん中に穴あけて、30ワットの電球をそこへ入れて、ほいて、布団をかけて。そこで恥ずかしいけど、ホルモン食べて、どぶろく飲んで正月迎えたいうこともありましたし。僕がいちばん苦労したのはその時でしたけどね。それを助けてくれたんが、尼崎の、杭瀬(くいせ)の寿座というところの劇場のお父さん。それからずっと今日にいたって、解散もせずによくやってこれたと思いますけどねえ。60年、ねえ」

苦労続きのなかから、徐々に関西にその名を知られていくようになる、座長大日方章彦の20代は、映画の全盛時代でもあった。スター俳優のスタイルを大衆演劇の舞台にも取り入れようと、ジーパンもパンタロンも率先してはいた。股旅ものからギターを抱いた渡鳥まで。何をやっても自分流に、「キザでええカッコしい」の美学でモノにした。

「十八番いうたらおかしいけれども、『一本刀土俵入り』とか、『沓掛時次郎』とか、『雪の渡り鳥』とか、長谷川伸シリーズの股旅ものをよくやりました。大川橋蔵さんが好きだったんで。大川橋蔵、中村錦之助、あの人たちの全盛時代ですから。東映の全盛のとき。僕も大衆演劇でまねさせてもらったんです。映画のようにはいかないから、幕も5幕くらいとか縮めて」

ご自分でアレンジして?

「座長になってからは、自分で考えて、劇団の人数に合わせていいところ取りだけをしてね。『雪の渡り鳥』だったら、旅に出る前、喧嘩場で、好きなお市っちゃんと別れて旅に出る。その次になったら、お市っちゃんが、うのと一緒になって貧乏している。悪いもんにいじめられてる。そこへ旅人で帰ってくる。中抜きでポーン、雪の中を。事情聞いて、俺に任せとけって見得切って、旅に出るときにお市っちゃんに合羽を着せてもらって、雪をだーっと降らしてもらってね。合羽をこうこうね(身振りを入れて)、雪のなかをずーっと入っていく。だいたいそういうのが自分も好きだったんで」

「王将」の坂田三吉を演じる大日方満(昭和60年代浅草木馬館)。永年、大衆演劇を撮影してきた写真家の臼田雅宏いわく、「『王将』で見せた後年の老けは素晴らしかった。老けを演じる役者は数々いても、私のなかでは、これを超える役者はいない」という。撮影:臼田雅宏

王道の二枚目ですね。

「二十代のころに、新国劇の役者の、島田省吾、辰巳柳太郎のような、若いけど渋さがあって、ちょっとした老け役が似合うっていうのに、すごく憧れたときがあるんですよ。顔汚して髭描いて。二十代やから、かえってお客さんにウケると思った。二十代でこんだけできる、って思ってくれるだろうという自分のうぬぼれで芝居やってた。そしたら、わたしとこの文芸部のような人だった、双見章太郎という人が僕の芝居を観て、座長、あんたこんな芝居しとったらあかんよって。その人も、大江美智子劇団という大きい一座で随分苦労した人で、うちに来て、僕のために本を書いてくれたりした人なんですけども。その人が、中狂言で、いまでいう吉本新喜劇みたいな芝居やれって言うんですよ。パーマネントのかづらかぶってね、スカートはいて、赤のパンツをはいて、それが茶店いうとおかしいですけど、喫茶店のね、ウエイター。ポーンと突かれて、ワーッてひっくり返って、パーンと脚を上げて赤のパンツ出して。それをやれと言うんですよ。俺はできんよそんなことはって言ったら、いや、それをやらなあかんねんと。話を聞いたら、僕の藤間流の踊りのお師匠さんでもある大導ひろしが座長のときにその芝居をやって、そのあとの切狂言で『雪の渡り鳥』のような渋い二枚目をやったと。それで、この人はなんでもできるうまい役者なんだなとお客さんは思う、そう言われてね。やりましたよ。そりゃ恥ずかしかったですよー、20代ですからね。赤いパンツばっかりじゃイヤやから、ギター抱えてええカッコして、自分なりにいろいろ。そういう笑うお芝居ができたっていうのは、その人のおかげです」

お客さんの反応も変わりましたか?

「はい。大日方さんほどいろいろな芝居に挑戦した人はないだろうなって、よく言われましたよ。自分もギターを弾いとりましたから、小林旭さんの映画『ギターを抱いた渡り鳥』とかをまねて、ああいうジーパンはいて、ギター抱えてっていうのもやりましたね。悪い役に女の人が連れていかれるところにええカッコして、テーブルにボーンとあがって、拳銃出してバーンって撃って、ほいで音楽鳴って、ギター弾いて『アキラのダンチョネ節』とかね、その時分の小林旭の。そんなんを中狂言でやりました。いま考えたら、わけのわからん芝居やってるなーと。テーブルの上にあがって、バーン撃ってギター弾いてる。その姿だけがやりたかった(笑)。ストーリーはあるようでない。たぶんない。それなのに、お客さん、キャー言うてくれてねえ」

プロモーションビデオみたいなものですね。

「そうですねえ。ほんま、ヘンなことやってましたねえ。筋があるようでないんですからねえ。だってこんなところで、助けた女がどうして小さいときに別れた妹だということがわかるんだっていう(笑)。いまやったら、うちの孫なんかにさしたろかな思たりしますけど、なんか恥ずかしゅうてね。自分が思いつきでやった芝居やから」

ぜひやってください。

「はは。当時は映画が全盛でしたからね。小林旭、石原裕次郎、時代劇は東映のお盆と正月はオールスターで、知恵蔵、錦之助、橋蔵。絶対観たくて、若いときはとにかく、間ぁみて、朝何時からやってるっていう映画があると出かけて行って。仮病使って舞台を休んで行ったこともありましたよ(笑)。裕次郎さんの映画はほとんど見てます。憧れました」

それは舞台に取り入れたくて?

「はい。なんかこう入れたい、自分の頭のなかに。裕次郎さんのスタイルとか。ほいで自分が歌うたうときには、その時分に人がはかないパンタロンはいたりとか、宝塚の人が着るようなパーッとしたシャツ着て襟立てて、ロックの帽子かぶったりして、歌謡ショーのときにね。だから、僕と美里英二くんと浪花三之介くんと大阪で三羽烏と言われたときでも、僕が先頭きって洋服着たりとか、ピストル使ったりとか。そういうことやってましたですねえ。それと先代の山根の社長がよく言ったのは、大日方の座長とにかくキザや、ええカッコしいや、って。自分でもそれはわかります。普通は、お客さんのほう向いて、兄貴あばよ~とするじゃないですか。僕は違うんですよ。おい、言うたらキリッと回って後ろ向いて、あばよ~。裾ぱっとめくって、ちょっと持って上げて。それでチョーン鳴らしてくれって言う。みんなは前向いてカーッてカッコつけるけど僕はしない。背中を見せる芝居いうんですかね。泣くんでも前向いて泣かない。男やから後ろ向いて泣く、いうのが好きだったですね」

「下北の弥太郎」を演じる大日方満(昭和60年8月浅草木馬館)。「振り向いたときの、道中合羽の裾のヒダまでよくぞ撮ってくれた」と大日方が気に入った一枚。役それぞれに、演じる際の独自の美学がある。撮影:臼田雅宏

次回につづく!

(2021年10月17日 演劇館 水車小屋)

取材・文 佐野由佳

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