私共、旅芝居の業界は他業種の一般と異なる点が多々ある。
いや、ありすぎる。
その一つ一つをテーマとして稿を起こせばそれだけで何某かの読み物になるだろうが、先に申し上げると、それは良くある。
「この世界の常識、他の非常識」
といった類のものではない(勿論のこと、それはそれで枚挙に暇がないが)。
譬えていうならば、旅芝居の世界を支える柱そのものが、他と違う形をしているというか、他と立てている場所が違うというか。
他ではどうでも良い(かも知れない)ことが、とてつもなく重要視されているというか。
アーサー・C・クラークとかスタンリー・キューブリックの夢想であるなら、既に人類は木星近くまで到達していたはずの2001年が既に過去となったこの時代にあって、
「…またどうした訳でそんなことを?」
というようなことが、物事を進める上で「ど真ん中」に存在したりするのだ。
私の生業の中心は、劇団と公演先を繋ぐ公演計画の策定である。
公演先には大きく分けて二種類ある。大都市圏に位置する大小の常設劇場と、それ以外。
それ以外、は昔の表現で言うとヘルス・センター、今風(?)なら健康ランド(このネーミングセンスは先行した「ソープランド」と酷似していると思うが)と呼ばれる日帰り温泉施設、ホテル、旅館etcだ。
それ以外、には近年「都市型」も多くなったが、そもそもの意味合いからして、郊外であるとか、あっさり言えば田舎にあるのが普通である。
口が悪いというか、本音をさらっと仰る古い役者さんなら
「山の上、海の際」
と表現するあたりにそれはある。
そういう場所は多く「新開地」であって、古くからの因縁が脱色され、忘れられた後に開発されていたりするのが常だ。開発された時期には全てが記憶の風砂となって散ってしまっている。
が、掘り返して行けば何かある、こともあるようだ。
古戦場であったり、野辺の送りの場所であったり、というようなこともままあるだろう。
そういうことが前提にあって、以下の話になる。
私が公演先をプログラムして劇団さんに提示する。
例えばそれは某地方にある日帰り温泉施設だ。
劇団の責任者とのやりとりが始まる。
「(公演地名)でお願いしようと思うんやけど?」
「えっ?(公演地名)ですか…?」(あからさまに浮かぬ顔)
「何か問題ある?(公演地間の)移動の順序として適当やないかな」
「それはそうなんですが…」
「何?条件かいな?そんな悪いとも思わんし、交渉もできるよ」
「はぁ…それはそうなんですけど…」
「何よ?何が問題なん?」
「あそこの寮…」
「うん?寮がどないしたん?老朽化してるてか?」
「…出るんです…」
「え?出る?何が?」
この世ならぬものが出没する、と言うのだ。
実は、あそこの寮の近くに流れてる川は昔の大水害で沢山の骸が…などという因縁話がひとくさりあって、そのせいかあそこで公演すると、いつも必ず誰かが病気したり怪我したりドロン(それは人災ではないか、と思うが…)したり…だから気が進まない…と、こういう展開になってくる。
私は公演実現のための調整が稼業だから、条件面での折り合いなら着地点を探す方策もそこそこには心得ているつもりだ。しかし「出る」ものを「出ない」ようにすることも出来ず、「出る」ことが招来する厄災を防ぐ手立ても持ち合わせない(それは陰陽師とか霊能者の職分だ)。勿論、そんなことは気の迷いで、およそ根拠のない話だから、普通に行けば大丈夫、などと言ったところで思い込む相手に対して説得力はないのである。
さぁ、困った。
と、こういうことが割と良くある。
プロが仕事をする訳だから、条件面に拘りがあるのは当然のことで、それなら公演先にも話を持って行けるが
「申し訳ない。劇団さんの方があまり気乗りのしていない様子なんで…」
「どうしてですか?条件なら…」
「いや、あの、寮が…」
「寮がどうしました?」
「…出る、ってことで怖がってまして」
なんて話の出来ようはずがあるまい。
柱を立てる位置が違う、形が違う、肝腎が異なる、というのはそういう意味なのだ。
そも、考えてみれば我らの仲間は皆、天鈿女命(アメノウズメノミコト)の後裔なり。
場合によっては、この世ならぬ者をその身に招き入れ、舞い踊ることもあろう。
それ故か、近いのである。
常人よりも、遥かに、異世界との距離が。
この手の話もそれだけで何某かの読み物になる訳だが、当然に機会を改める。
前置きが長くなった。
そういう、謂わばオカルトと近接した我が旅芝居、という切り口に於いて、「申し子」とも言える存在がかつていた。
名を、恋川小純、と言った。
ご存知かとは思う。現在の二代目 恋川純の幼き日の姿である。
この子役の異能は様々に語られていた。
曰く、ごく幼いころに九字の印を切った、とか、晴天の日に「傘を持って出た方が良い」と出かける者に伝えると雨が降って来た、とか。見えないものを「見る」とか。
かつてNHKテレビの昼番組で、旅芝居から期待の若手を集めるという企画があって、彼が出演したことがあった。
ありがちな質問だと思うが、司会の方が「尊敬する人」を訊ねた。
これまた、ありがちな答えだと、父母であったり、芸界の大御所であったり、憧れのスターであったりするものだが、彼、まだ十歳かそこらだったと思うが、の答えはまるで違っていた。私はそれを一字一句憶えている。
「弘法大師空海です」
と、恋川小純は答えたのだった。
嘘のようだが、本当の話である。
私はこの稼業に携わり、殊に初めの頃には屈託が多く、思い余って、当時はおそらくまだ幼稚園児くらいの年齢だった…神童、と呼ぶに相応しい…小純に真剣に聞いたことがある。
「あのな、おっちゃん(私の事だ)な、人を救って生きて行きたいんやけど、出来るかなぁ?」
まだ就学前の幼児への問いかけだ。今から思うとどうかしている。それに対し、小純はこう答えた。
「うん、ちょっとやったら出来るよ」
ちょっとやったら出来る。
白状すると、それを支えに今までやって来た、というところがある。
恋川小純は、私の救い主だったのだ。
桐龍座恋川は出発時点から非常にソリッドな劇団だった。
今となっては少人数の劇団こそが旅芝居の中心勢力になって(しまって)いるが、桐龍座の旗揚げ当時としては家族だけで構成された劇団は少なかった。夫婦親子を中心にして、福井県にあった、かまぶろ温泉という、それこそヘルスセンターで幟を掲げたのが始まりだった。
すぐに名子役という評判を取るにせよ、恋川純弥、桃子の兄妹もまだ小学生で、小純となるとこの世に転び出たかどうかというところだ。しかし、その当時から座長の初代 恋川純は完全主義の役者だったと思われる。
大日方満、勝龍治と言った名優の舞台遺伝子を受け継ぎつつ、妥協を許さない本人の気性もあって、座員の数云々、集客規模の大小の如何に関係なく、完成度の高い舞台を務めていた。
当然、子供も叩き上げられる。
幼い頃は桃子の評判が凄かった。十代前半に年齢がさしかかった段階で純弥がそれに追随する。そして十代後半、座長になることが宿命づけられた純弥はトップの一角を伺う存在にまで成長して行く。
純弥が座長の看板を引き継ぐと、日本最大の常設館である神戸新開地劇場にとぐろを巻くような観客の行列が現出した。
桐龍座恋川が最大の動員力を誇る劇団の、少なくとも一つとなったことは誰の目にも明らかだった。
ところが、その状況が一変する事態が出来する。
平成23年の二月公演、和歌山は岩出市にあった「ねごろ座」の千秋楽の舞台で、突然に純弥が座長からの引退を宣言したのである。
東日本大震災の直前、旅芝居の世界に、まさしく激震が走った。
私ども、番組制作を生業とするものにとり最も憂慮される事態…座長不在となった劇団をどうするか、という問題が圧し掛かった。それもただの劇団ではない。トップ・ランナー恋川純弥がいなくなる、ということなのだ。どの公演先でも、その一年の核となるものとして期待する予定が大きく揺らぐ。
こうした場合、当然に公演先それぞれに事情を説明した上で当該の劇団を受け入れてもらえるかどうか、伺いを立てなくてはならない。羊頭狗肉ではないが、羊頭がすっぽりなくなっているのだから、大きく番組表を組み替えるしかない、そう覚悟した。
ところが、意外なことに、どの公演先からも純弥不在であっても変更の必要なし、という返答を戴くことが出来、まさに事なきを得たのだ。
どうしてか?
「純君がいますから」
というのがその理由だった。
純弥の、年齢にして一回り下となる弟、小純 改め 二代目 恋川純。
彼は、既にその時点で兄・純弥に匹敵する評価を…あるいは、ポテンシャルに対する十分な期待を…観る者に抱かせる存在となっていたのだ。
兄の不在は、単なる不在に止まらない大穴だ。その穴を埋め戻して、そしてそのあとに土塁を築く。
生易しいことではないが、純は確実にそれをやりおおせた。
たまに純弥が劇団に戻って共演すると、初めの頃はさすがに押された。本人もそこで、まだまだ、との想いがあったろう。何といっても、二代目 恋川純は恋川純弥の「創作物」でもあったからだ。その域からどうやって離れるのか。純弥の影を強大な重力に譬えるなら、いかにそれを振り切って舞い上がるのか。
私は、その離陸の瞬間を見た、と思う。
その難事はどうして可能になったのだろう?
純は、どうしてそれが出来る役者になり得たのだろう?
もともと桐龍座恋川には確固たる芝居の「核」がある。
初代 恋川純は「達者」といえる舞台を見せてくれる人で、芝居は何を演じても形になるが、水際立った二枚目などより、やはり人の匂いが濃くなる芝居が良い。喜劇を演じても「笑われる」ことはない。「笑わせて」くれるからだ。本物の実力者なのだ。
これは舞踊にしても同じことで、舞踊の中に豊かな芝居心がある。
勝新太郎の唄で、題材ゆえ放送禁止歌になったと記憶するが、受刑者が刑務所を離れる経緯を題材にした「橋ぐれる」という曲がある。
一度見たきりなのだが、初代が踊った(いや、「演じた」)ヴァージョンを忘れることが出来ない。白髪の入った散切をかぶり、地味な着流しに風呂敷包みひとつで、4分の間に、見事「うまくやれなかった男」の人生を見せてくれた。
舞台の背後に、夕陽が見えた。
旅芝居と名前はつけてみるものの、ことお客様の好みに寄り添うなら、その好みの中心が芝居そのものから「歌と踊りのグランドショー」に移ってもう久しくなる。
芝居が良い劇団は男性客が多い、という。それはそうだろう。男でショウに傾く方はやはり珍しい。芝居を観なければ、旅芝居で観るものがない。と、いうことは、女性客が少ない。と、いうことは、興行としては苦戦となりがちだ。観客層の中心が、妙齢を越えた女性であってみればそれは当然のことで、いくら芝居を見せたいと役者が力んだところで、観客あっての興行である以上、お客様の求めるものを提供しなければ上手くはいかないだろう。
だから、ショウが大切になる(芝居を見せるための興行、これも術はあると思うが、それについての考察をするには紙数が足りない)。
とはいえ、ことは舞踊だ。
歌舞伎にも舞踊公演がある、とは皆様ご存知の通りで、役者にとって舞踊は必須科目であるかも知れない。ただ、それが余技であることも、また間違いがない。技術を競って、役者が舞踊家に勝てるわけはないのだ。
あっさり言えば、旅芝居における舞踊は「歩く・回る・止まる」の組み合わせであることが多い。それでもお客様が観て下さるのは、その動きが、テーマとして選んだ曲の「こころ」を伝え得るからではないか。
逆に言えば、そのレベルに達して初めて旅芝居の舞踊は「観るに足る」。
旅芝居に見巧者がいるとするなら、そこを見分ける方であろう。
だから、初代 恋川純の「橋ぐれる」なのである。
それは舞踊に託した芝居であって、取り上げた曲の優れた解釈でもあれば、掌に載せたドラマでもあるのだ。
兄の恋川純弥はいわば父の完全主義を受け継いで舞踊そのものを厳しく修練した。その舞踊は日本舞踊の一編として十分通用し得るレベルに達している。
弟の純は、それに対し、父の芝居心を受け継いだ、と私は見ている。
純の舞踊は多彩で様々なタイプのものがある。
ダンスのテイストが強いものでは、何種類もの仮面を鮮やかに扱って見せる「Bomber Girl」。短い芝居と言うなら女形を演じる「飢餓海峡」。
そして、その二つの要素、芝居心を持った舞踊と言うなら、私は迷うことなく「翼をください」(秋川雅史ヴァージョン)を挙げる。
前もって言うと、旅役者の舞踊は同じ曲でも同じ振り付けに収まることは少ない。踊るたび、「手」が異なる(それが面白い場合もあるにはある)。
しかし、純の「翼をください」はいつも同じだ。
これは亡き美里英二の「あばれ駒」や、大日方満の「昴」と同じくひとつの「作品」として完成していて、今世紀に入ってからでは突出した傑作だと思っている。
純自身に、これは東日本大震災のあと、考えて舞うことにしたものだと聞いた気がする。
裃着用の「袴踊り」だ。
袴を着用すれば飛んだり跳ねたりできるはずもなく、舞いは歌詞をなぞるように端然と進む。
秋川のドラマチックな歌唱に合わせるようにして動きは大きくなり、やがて静止する。そこから再び動き出した時…純は舞台上を飛翔するのだ。
…翼が、見える!…
私にとって、兄の強大な重力を振り切り、二代目 恋川純が離陸した瞬間がそこにあった。
その時の震えるような感動を、忘れることが出来ない。
以来、私が彼を表現するキャッチフレーズはかく定まった。
「翼あるもの、二代目 恋川純」。
長く稼業を務めて来て、天才的な役者を何人も発見して来た。
純は間違いなくその一人であると断言出来る。
かつての神童は、今や押しも押されぬ座長となったのだ。
親譲りの芝居の腕、兄を受け継ぐ型の美、そして自身持ち前のセンス。
その全てを毎度高いレベルで表現する純の舞台には裏切りがない。
多くの方、特に、様々な舞台をご覧になって来た方にこそ、彼を観てもらいたい、と心から思う。
そこには、未体験だった感情の扉を開く何かがあるかも知れない。
二代目 恋川純がこの先、より高く飛翔する姿を見続けられる歓びは、旅芝居を愛する者全てにとっての珠玉なのだ。
山根 大(やまね はじめ)旅芝居のコースを切って山を張る。心の旅は山歩き。浪速きっての興行師、山根演芸社三代目社長。