追悼 篠原淑浩会長 ホワイトボードに残したメッセージ

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2021年11月26日に亡くなられた篠原淑浩さんを偲んで、大衆演劇ナビとしてお聞きしたかったことや思い出を語ろうじゃないかと、相棒のカルダモン康子と集った。大衆演劇を好きになって、浅草や十条の劇場に通うようになって、その楽しげな雰囲気にますますはまりこみ現在に至るわれわれである。しかも篠原さんには、大衆演劇ナビを立ち上げる以前にも別の企画の取材でお世話になっており、そのときのことも、あらためて振り返っておきたいと思ったのだ。

「大衆演劇を絶やしてはいけない」

 大衆演劇ナビを立ち上げる準備をしていた2020年6月に、興行主という立場の方にもお話をうかがいたいと、西は山根演芸社の山根大社長に、東は篠原演劇企画の篠原淑浩社長にそれぞれ取材依頼の手紙を出した。大きく分ければ、西と東、それぞれの興行を仕切るおふたりだったからだ。

 この手紙を出したことで、篠原さんが病気療養中であることを知った。声を出すことが難しいご容態であることもスタッフの方から伝え聞いて、カルダモンとふたり天を仰いだ。そんな大変な状況にも関わらず、すぐには難しいけれど、回復したら必ずと言っていただけたことも、本当にありがたかった。篠原演劇企画は、関東、北関東、東北一沿の興行を一手に担っているだけでなく、大衆演劇の檜舞台と言われる浅草木馬館、十条の篠原演芸場を筆頭に、いくつもの劇場やセンターを運営する劇場主でもある。そんな篠原演劇企画の三代目であり東京大衆演劇協会会長でもある篠原さんには、うかがいたいことがたくさんあった。それより何より、1日も早くお元気になっていただき、また劇場でお会いしたかった。

色とりどりの、のぼりがはためく篠原演芸場。

 それからほぼ一年近く過ぎた今年(2021年)の5月、篠原演芸場の外に置いた椅子に腰掛けて、少し遠くから客入りを眺める篠原さんの姿があった。駆け寄ってマスク越しに「ご無沙汰しております!」と挨拶すると、ニコニコしながらちょっと手をあげて返してくださった。折しも劇団美山の公演中で、1月からスタートした美山の関東公演の締めくくりの月とあって、コロナ禍とは思えないほど日を追うごとに観客が増えていた。劇場の脇まで長蛇の列で並ぶお客さんのために用意した丸椅子を、時には篠原さんが自ら片付けていることもあった。久しぶりにお元気そうな姿を拝見して、嬉しかった。そんなことがあったので、夏の初めにふたたび、一度お会いできないかと返信用の葉書を同封して手紙を出した。しばらく返事がなかったので、念のため篠原演芸場に行ったついでに、スタッフの方にも直接手紙を渡してくるよとカルダモンが言ったのは6月下旬のころだった。劇場のすぐ近くにある事務所をお訪ねしたら、なんと篠原さんがいらして、直接、ホワイトボードを介してお話することができたと興奮したカルダモンから電話が入った。「取材も受けてくださるって!」。これが、大衆演劇ナビが篠原さんと直接お会いして、お話した最後になった。

カルダモン(以下、カル) いってみればアポなしで乗り込んでしまったわけですけど、まさか篠原会長ご本人がいらっしゃるとは思わないじゃない。会長のほうから手招きしてくださって、ここに座って、みたいな感じで。手元に置いている小さいホワイトボードに「仕事ができるようになった」って書いて、ビュッビュッって力強く下に線を2本引かれたんですよ。「月に3回くらいは病院に行くけれど、それ以外は大丈夫。急に具合が悪くなることもあるかもしれないけど」とか、すごい気を遣ってくださって。大衆演劇ナビのことも「読んだよ。息子が教えてくれた」って。ご自分とは考え方が違うことについて書き出して、バッテンをつけられた。会長がバツを書かれたお気持ちもわからなくはないつもりだったから、「だからこそ、会長のご意見をうかがいたいんです」と申し上げると、うんうん、と強くうなずいてくださって。意見を戦わせるといったらおこがましいけど、考えをお聞きしたかったし、わたしたちもそれに共感したり反論したりしたかったよね。

佐野 ほんとに取材させていただきたかった。篠原さんにしか聞けないこと、語れないことがありますもんね。

カル 伝えたいことがあるというお気持ちが、ビシビシ伝わってきましたから。で、続けてホワイトボードに「大衆演劇を絶やしてはいけない」と書かれた。すごい筆圧で。

佐野 篠原さんの思いのすべてが、凝縮されたようなメッセージですよね。

カル このときに、会長のお声も聞いたんですよ。かすれてはいたけど、はっきり聞き取れて。しゃべり続けるのはおつらかったのでしょうけど、とてもシャンとしてらして、これからまだまだひと仕事するぞ、という気合いも十分に感じられて、本当によくなられたんだなと思ってました。

佐野 カルさんからの電話の声が、すごい明るかったもの。

カル スタッフやご家族にしてみたら、そんなよけいな仕事を持ちこまれてご心配だったと思うんだけど、インタビューの日程を出してくれたら調整するからとまで言ってくださった。でもご連絡してから、しばらくお返事がなかったんですよね。夏も暑かったし、ご無理なさらないでいただきたいと思っていたら、秋になってまた劇場の外でお姿をお見かけしたことがあって。よかったなと思って11月になってから、たまたま篠原演芸場の売店にいらした若女将に、会長はお元気ですか?と聞いたんですよ。そうしたら、療養で痩せてしまったから外の方に会うのは控えているんですけど、最近はプリンとかが好きになって、食べて元気にしていますって。

佐野 そうそう、そのとき客席に戻ってきたカルさんが、嬉しそうに報告してくれたのよね。お持ちするならどんなプリンがいいかな?って、手土産の相談までね。だから11月公演の千秋楽の最後の最後に、小泉たつみ座長が、会長が26日に亡くなられたとお知らせくださったときに、本当に驚きました。たつみ座長のお話でも、前日には散髪にも行かれて、会社の書類にも全部目を通されて「これでいいです」とおっしゃったと。それは何かを覚悟されてのことだったかもしれないけど、そうではなくて、さっぱりと身なりを整えて千秋楽を迎えたい、また気持ちもあらたに今年最後の12月の興行を見届けたいというお気持ちだったんじゃないかな。

カル そうですよね。仕事ができるようになった、ってボードに書かれた力強い文字を一生忘れないですよ。お話を聞けなかったのが本当に無念です。

佐野 でも6月のあの日、カルさんが直接、篠原さんと会って筆談でも話せたという出来事に、篠原さんの律儀なお人柄がにじんでる気がします。偶然だけど、偶然じゃないっていうか。約束を果たしてくださったんだよね、きっと。

浅草木馬館。浅草寺境内から脇に入った「奥山おまいりまち」にある。1階がチケット売り場、2階が劇場。

カル 2015年の4月に、浅草木馬館に一見劇団を観に行ったのがそもそも大衆演劇を観るようになったきっかけなんだけど、佐野さんを誘ったのはその月の千秋楽だったよね。

佐野 そう。とにかく一度観るべきと。

カル だから千秋楽より前だと思うんだけど、何度か行ってるうちに、浅草木馬館の向かいの「まえ田」で飲んでから昼の部を観る、みたいなのが素敵だなって思ったんだよ。

佐野 カルさんらしいよ。

カル 4月下旬のうららかな日で。「まえ田」の店先の席に座って、わたしはひとりでビールを飲んでたのね。(歌舞伎役者の)猿之助の話をしてる人が近くにいて、なんか話しやすそうな人だったから「今月、猿之助観たかったんですけど行けなくて。どうでしたか?」って声かけて話していたら、通りの向こうの木馬館の楽屋口のほうから、ふわ〜っと大きなおじさんがこっちにやってきて、ごく自然に慣れた様子で、鍋の下にかがんで勝手にお皿を取り出して、勝手に煮込みをよそって、私たちが座ってたテーブルの端に座ったんだよね。で、もう一皿よそって、わたしたちにも「どうぞ」ってくださった。タダモノではない感がハンパない。なかなかの圧の強さで、え? お店の人? 誰? って思った。それが篠原会長との出会いだったんだよねえ。

佐野 素敵な出会いです(笑)。

カル 「まえ田」があんなに、劇場関係の人や劇場の常連さんが来る店だっていうことも知らないからさ。結構なアウェイ感もありながら、でもわたしは気持ちよく昼からビールを飲んでたっていうね。その煮込みがことのほか美味しかったのよ。で、会長が行っちゃってから、その猿之助の話をしてた人が「あの人が会長よ」って教えてくれたんだけど。

佐野 なんの会長だろう、って思うよね(笑)。

カル そんなこんなで、煮込みをよそってくれたその人が、篠原演劇企画の社長で、東京大衆演劇協会の会長だって知るわけですよ。

「まえ田」の店先で、篠原会長、何やら腕組み。気になる視線の先は劇場入口? 隣はお店の人ではありません。瀬川伸太郎座長です。

佐野 篠原さんはよく「まえ田」やあの並びの店先で、お客さんや座長さんたちと話してましたよね。

カル 劇場に来るお客さんの様子をよく眺めてらした。たぶん、お客さんがいる劇場の風景がお好きだったんじゃないかと思うんだよね。芝居を見に来るお客さんの笑顔を見るのが。その気配というか存在感が独特だったな。

佐野 寡黙なんだけど熱いというかね。

カル 篠原演芸場で、会長が切符を売る窓口にいらっしゃることがしばしばあって。最初は、会長自ら?!ってメチャ驚いたんだけど、会長にとっては、あの名物のおにぎりをにぎっている売店を背にして座る、切符売り場が特等席だったのかもしれないよね。

佐野 そうやって劇場でお見かけしていた篠原さんに、取材でお会いしたときは緊張しました。いい意味で、取材の前も後も印象が変わらない方でしたね。

カル 2015年と2018年にインタビューさせていただいたことは、いまとなっては貴重な記録です。当時ね、古典芸能の本をつくるためにとにかく資料を集めてて、大衆演劇の本も随分探したんですよ。大衆演劇関連の資料ってほんとにないから、どうしても手に入らない本が2冊あって古典専門の手塚書店に行ったんですよ。そしたら、その本あったけど2冊とも木馬館の方が買っていったと言われた。結局、わたしは別の古書店でどうにか手に入れて、篠原さんの取材のときに持っていったら、「その本、よく買えたねえ」って言われました。そんなふうに、古書の資料も集めていつも勉強されてるんだなと感心したんですよ。感心したっていう言い方も失礼だけど、日々の現場の仕事をしながら、本からも学び続けるってなかなかできることじゃないですよね。

佐野 当時の篠原さんのインタビューを振り返ってみましょう。

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篠原演劇企画のルーツは?

篠原淑浩(以下、篠原) もともと埼玉だったの。わたしのおじいちゃんが興行師をやっていたわけ。おじいちゃんには会ったことないんで詳しいことはわからないんですけど、いわゆる地方都市の興行を仕切っていて、浪曲をやったり、お芝居をやったり。そういう関係の仕事をしてたみたいです。それをうちの親父が継いで、東京で劇場を持ちたい、仕事をしたいということで戦後上京してきたんです。それで昭和26年に、十条に篠原演芸場をつくった。当時は、東京に50軒近く大衆演劇の常打ち小屋があったっていいますから。

浅草木馬館はいつからですか?

篠原 木馬館はもっとずっとあと、昭和52年からです。もとは安来節(やすきぶし)の会館だったんですよね。で、安来節が下火になってやめるというので、知り合いがいたので借りたわけよ。そのころには、大衆演劇の劇場が東京都内で十条(篠原演芸場)だけになっちゃって、劇団も関東には6劇団しかないと。どん底の時代だよね。もうひとつ劇場がないとこれから大変だということになって、木馬館を借りて始めたのがきかっけです。何度か改装もしてますけど、木馬館はいまでも借りてます。

どん底の時代に、劇場をもうひとつというのは大変な決断ですね。

篠原 浅草っていう場所はかつて大衆演劇のメッカだったでしょ。だから浅草で劇場を持つというのが、親父の夢だったわけ。どうしてもやりたいと。賭けだったんでしょうね。

篠原さんご自身は、若いころから跡を継ごうと思ってましたか?

篠原 そうではないですね。僕、4人兄弟の一番下なんです。継ぐ気はなかったんですけど、兄はそれぞれ別の仕事に就いちゃったんで、木馬館ができたのと同時にこの仕事に入ったんです。23歳のときです。もうほかに跡継ぎがいないからね(笑)。そのまま。

劇団も少なかったんですね。

篠原 当時はね。木馬館を始めて少し経って、大阪との提携公演が始まったわけ。昭和55年くらいか。大阪の劇団がこっちでやる、関東の劇団も向こうに行く。そうしないとマンネリになるから。最初のうちは同じ劇団が1年に2回くらい同じ劇場にのってたから、飽きてくるでしょ。もう一回、お客さんを戻すために、提携公演というのを始めました。山根演芸社もうちも、親父の代が中心にやってたころのことなので詳しい経緯はわからないんだけど、いろんな劇団でやってみようというのがあったんじゃないかな。

(2018年6月4日)

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夜の篠原演芸場。提灯に灯がともるころ、夜の部が始まる。

カル わたしは昔から歌舞伎が好きだったから、それなら大衆演劇も観たほうがいいよって、写真家の鬼海弘雄さんに前から言われてたんですよ。でも機会を逸していたら、小劇場演劇の人からも、大衆演劇をすすめられた。一見好太郎っていう、いい役者がいるって。それで観に行ったら、なんだこれ!?って最初ビックリしたんですよ。一見好太郎座長の芝居から伝わってくるものがすごかった。うまかったしね、カッコよかった。しかも場内アナウンスが、やたらファンキーで何を言ってるかよくわからない(笑)。それが一見劇団の紅葉子太夫元の名物アナウンスだってことも最初は知らないから。その熱量とカッコよさと、わけのわからなさにやられて通うようになったんですよ。そうしたら芝居で「夏祭浪花鑑」のような歌舞伎の演目なんかもやってて、あの泥場をどうやるのかと思ったら舞台にベニヤ板を張って水場をつくって。そりゃあ、広い歌舞伎座の立派なセットとは全然違うんだけど、だからこそ、そこから伝わるものの強さが際立ってた。それをかぶりつくような近さで観る迫力といったら。

浅草木馬館で「夏祭浪花鑑」の団七九郎兵衛を演じる一見好太郎座長。

佐野 やはり過去につくった本のインタビューで、一見好太郎座長が、木馬館や篠原演芸場のような劇場は、これだけの舞台をつくってくれたんだから、この道具に応えたい、つくってくれた人たちのためにも頑張りたいと思わせてくれると話してましたね。篠原演劇企画が、大道具制作部を持っていることについても、篠原さんがお話くださってますね。

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篠原演劇企画はいま何人いらっしゃるんですか?

(註:文中の数字や内容は、すべて2018年のインタビュー当時)

篠原 スタッフは18人くらい抱えてる。家族は7人。場内係、切符売り場とか売店、舞台係、大道具制作部っていうのがあって、劇場だけじゃなくて外注も受けて、大道具を製作する。それは長男と次男が受け持ってます。ほぼふたりですね。大きな倉庫を借りていて、そこに制作部があるんですよ。息子は3人です。上から37歳、35歳、33歳。一番下が木馬館で支配人をやってる。舞台制作部という形にしたのは、ここ10年くらいかな。それまではうちの劇場だけの道具をつくってたのが、みなさんが欲しがるので、じゃあ販売しようかなっていうことで、劇団とか関西や九州の劇場からも注文があればつくって販売もします。道具だけじゃなくて、刺青の肉襦袢(にくじゅばん)とか、傘に絵を描いたりとか。ショーバックもつくるし。

演目に合わせてつくるんですよね?

篠原 こういうのが欲しいっていうのがあったら、打ち合わせして提案して、こういうのでどうでしょうか?って下図を描いて。芝居は毎日日替わりだから、いつもやってるものはストックがあるのでそれを使いますけど、新作とかは前もって打ち合わせしないと、今日や明日じゃできないから。特殊な舞台は早めに打ち合わせをしてつくります。道具帖があるんですよ。歌舞伎とか、いろんな舞台専門の本がいっぱいあるので、背景幕とか舞台道具とか、本やDVDを見ながら研究して。それを十条や浅草用につくりかえる。だから東京に来ると、自分たちの思う舞台が組める。(全国で)うちだけだね。

木馬館でやった芝居を篠原演芸場でもやりたいというような場合は、保管しておくんですか?

篠原 そうそう。倉庫はかなりの数あるから。昔から、背景なんかはつくってたんですよ。うちの親父のつきあいで、大道具の制作会社にいる本職が夜だけアルバイトで来てた。その人が定年で会社をやめてうちに入ったの。10年くらい長男に絵を教えてくれて。せがれがある程度できるようになったから、いいでしょうということで、もう辞められましたけど。大衆演劇の場合、小さい舞台っていうか客席と舞台が近いから、写実的に描く。大舞台は遠くから見るから大づかみでもいいんだけど、目と鼻の先で観るでしょ。背景の絵とか、細かいですよ。刷毛だとかも自分たちで加工してね、つくって描くんですよ。

背景幕は写実的に。こういった感じの刺青柄の肉襦袢も注文に応じてつくる。一見好太郎座長の舞踊ショーから。

今年の1月、劇場で隣に座った女性が舞台を指差して、「あれはうちの息子が初めて描かせてもらった幕なんです」って言われて、びっくりしたんです。

篠原 中学卒業して入ってきた子がいて、3年目かな。いまその子を教えてる段階。道具の製作だとか、絵の描き方だとか。あのくらいの年齢から教えればね。

(2018年6月4日)

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カル この青年が、いま篠原演劇企画の大道具制作部のゆうた君ですよね。だから、このとき隣に座った女性はゆうた君のお母さんだったという、偶然の出来事だったんですけど。いまから思うと感慨深い。

佐野 今年5月の劇団美山の公演のときに、三人吉三をモチーフにした大掛かりなセットを使ったラストショーのあとで、舞台にゆうた君が引っ張り出されてましたね。里美たかし総座長が、昔は各劇場にいた棟梁がいなくなっているなかで、篠原演芸場と浅草木馬館は、僕たちがやりたいことを言うとちゃんと道具をつくってくれる、こんなありがたい劇場はないと。ゆうた君、照れまくってましたね。

里美たかし総座長に、舞台の上でねぎらわれるゆうた君。篠原演芸場にて。

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なぜ大道具制作部をつくろうと思われたのですか?

(註:文中の数字や内容は、すべて2018年のインタビュー当時)

篠原 入場料1600円だもん。そのなかでお客さんに満足してもらうために、舞台をよくしていこうと。一般的に大道具の制作会社って、大舞台の請負でつくるところばかりで中間がないんですよ。明治座とかコマ劇場とかやってるとこは、非常に値段が高い。大衆演劇の劇団や劇場が使えるものではない金額だから。うちは材料代だけで舞台を組めるからいいけど、外注したら劇団はお金がかかっちゃう。うちの場合は、木馬や篠原で上演するものに関しては、大道具の制作費も材料代も劇団からはもらわない。

入場料はどうやって決めているのですか?

篠原 大衆演劇だから、低所得の人たちの金額に合わせていかないと。所得の高い人を基準にはしない。入場料だけじゃなくて、実際に使うお金は交通費もかかるし、飲み物も買ったりするから、月に10回来たら大変なお金でしょ。2000円や2500円じゃ、何回も来られなくなる。安い入場料で回数来てもらうのが大衆演劇だから、そのなかで満足してもらえるように、演目は日替わりで、送り出しがあって。1000人も入るような劇場にはない距離の近さが、大衆演劇の味だし、よさなんですよ。

毎日来てるお客さんもいますね。

篠原 浅草あたりだと結構いるね。20日以上来てる人、結構いますよ。

(2018年6月4日)

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カル つまり、1600円(現在は1800円)なんだけど、こんなに道具が立派な芝居が見られるんだっていうお得感、っていうことを篠原さんは大事にしておられたんでしょうね。いい舞台をつくるっていうのはもちろん大前提なんだけど、そのよさというものの照準が、一般的な商業演劇とは違っている。そこにこそ熱と力の大衆演劇の面白みがあるっていうことを、木馬館や篠原演芸場で教えてもらった気がします。

佐野 大衆演劇を観るようになって、全国にこんなに専用の劇場があるっていうのも知らなかったから驚いたし、そういう劇場は必ずといっていいほど古いアーケード商店街を抜けた先とか、ショッピングセンターのなかにある。こんなにも日常に根付いた演劇が、脈々と続いてあるんだっていうことが驚きだったんですよ。贔屓の役者や劇団を追いかけて来るお客さんとは別に、近所に劇場があるから来るっていうお客さんが結構な割合でいるじゃないですか。毎日来てるお客さんのなかには、いつも寝てるんじゃないかっていうような人もいて(笑)。なんか、それはそれでいいなあって思ったんですよ。劇場が町の人の居場所になってる感じがして。それもひとつの、演劇の楽しみ方なんだって。

カル ほんとにね。歳を取ってから気の進まないデイサービスに行くくらいなら、近所の劇場に行くほうがよっぽど楽しいと思いますよ。

篠原演芸場のある通りは、地元ではまさに「演芸場通り商店街」と呼ばれている。

佐野 それに劇場って、ひとりじゃないけどひとりになれる場所じゃないですか。わたし、カルさんと一緒に泣いたり笑ったりしながら観るのも楽しくて好きだけど、ひとりでふらっと行って、しばし日常を忘れてあの暗がりにひっそり身を鎮める感じも好きなんですよ。

カル 佐野さんはよくそれを言うよね。わたしには、その楽しみ方がよくわからないんだが(笑)。でも、歳を取っていてもいなくても、いろんな人を受け入れてくれる居場所なんだという感じはあるよね。通ってるうちに受付の人が顔を覚えてくれて、にっこり挨拶をかわすようになったりとか、場内係の人が座席の好みを覚えてくれて、空いてる時とかだと、こっちの席もありますよと教えてくれたりとかさ。なんかそういうやりとりのなかで、親しみのある場所になっていくことって、いまなかなかないもの。マニュアルにないことはできない、みたいな店ばっかりだから。

佐野 去年から続くこのコロナ禍のなかで、大衆演劇にどれだけ救われたか知れません。免疫力、あげてもらいましたよ。

カル ほんとにね。だからね、今年に入っていつからだったかもはや忘れてしまったけど、木馬館のチケットを売る受付窓口がなくなって券売機が置かれるようになったときに、なんかすごいショックだった。お金を入れる場所が高いとこにあって、最初まごまごしちゃったこともあって。閉め出されたみたいな気分に一瞬なっちゃった。これだと高齢のおばちゃんとか、わからなくてあきらめちゃうんじゃないかなあとか思って。結局、お金入れるのを手伝ってくれる人と検温の人と、いつも券売機の脇にふたりついてくれるようになったけど、だったら前の窓口に戻してもいいんじゃない?と思ったり。

佐野 いやまあね。このコロナ禍で感染対策も徹底させなきゃいけない、席も減らさなきゃいけない、客足も当然減るなかで、劇場も劇団もお客さんも必死の毎日ですから。いろんな事情があるんでしょうけどね。

カル もちろん、もちろんそれはわかっておりますよ。ただなんというか、効率化みたいなことを優先する感覚と大衆演劇って、一番ソリが合わないじゃない。だからそういうちょっとしたことで、場所の印象って変わるんだなと、あらためて思ったんですよ。これからも、ほっとできる場所であり続けてほしいなあと思って。

佐野 そうだね。これからも美味しいおむすび頬張りながら、お芝居観たいよね。

カル 居場所という点でいえば、大衆演劇の場合、役者さんにとっての劇団もそういう場所として存在しているように見える。歳を取って第一線を退いても、息子や孫世代が率いる劇団のなかで、舞台に立ったり、裏方をやったりする。頼り頼られて居られる場所があるっていうのは、ある意味幸せなことだよね。

佐野 大衆演劇の世界には、いまはもうない大家族の暮らしというか、共同体のよさみたいな感じが残っているもんね。もちろんいいこともある代わりに、ご苦労も同じだけあるでしょうけど。家業としての劇団だから、子どもからお年寄りまで、それぞれができることをやって力を合わせてる感じがする。だから最後は、そこに居てくれるだけでいいという存在になれるんだろうね。

カル わたしたちが大衆演劇を観るきっかけになった、一見劇団の紅葉子太夫元も今年の10月7日に82歳でお亡くなりになりました。8月のつくばユーワールドでは、お元気なアナウンスの声を聞いていただけに驚きました。でも亡くなる2カ月前まで、劇団という家族のなかで、にぎやかな楽屋で過ごされて、お幸せだったのかなと思います。

佐野 12月17日につくばユーワールドで紅葉子太夫元の「お別れ会」が開かれて、会場であのファンキーなおかあちゃんのアナウンスの録音が流れたときは泣けたね。

カル うん、あれにはもうグッときてしまった。

一見劇団の紅葉子太夫元の「お別れ会」のあった日の舞踊ショーで。タオルのハチマキがトレードマークだった「おかあちゃん」の笑顔の前で、一見好太郎座長(左)と古都乃竜也座長。

カル 一見劇団はこのところ若手強化のためなのか、一見好太郎座長主演の演目がガクンと減って、好太郎座長ファンとしては正直、大いに不満なんですけど。ひとえに、好太郎座長のゲキ熱な芝居が観たいから。それに尽きるんですけどね。でも篠原さんはかつてのインタビューで、若手にチャンスを、若手が育つことが大事だということを、かなり力を入れて話されてるんですよね。

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篠原さんが有望だと思っている劇団はどこですか?

(註:発言の内容は、すべてインタビュー当時)

篠原 そういう個人的な意見は言えない(笑)。やっぱり子どもが成長するのが楽しみですよね。後継者がいる劇団は。企業も一緒だけどね。長くやるには、後継者ですよ。

お客さんを呼べる劇団というのはどういう劇団ですか?

篠原 いまはねえ、やっぱり若手がいる劇団かな。客層も若い女性が増えてる。でもだからって、若い子がいてもお芝居ができなきゃしょうがない。年配の人はお芝居が好きだろうし、そこのバランスが取れてるところかな。

(2018年6月4日)

舞台の構成は昔とどう変わっていますか?

篠原 昔より舞踊の比重が大きくなっている。昔は、前狂言と切狂言、芝居がふたつあった。前狂言は若手が勉強のために上演して、座長は脇にまわる。切狂言は座長たちがやるというふうに分けてたけど、いま芝居は一本だから、座長が主役ばっかりやっちゃう。若手の子がやりたいと思っても、そういう機会がない。若い子にチャンスをあげる劇団も出てきてますけどね。いま人気がある劇団でも、世代交代が必ずくるから、若い子を育てて欲しい。お芝居をちゃんと教えることですよ。基本的には大衆演劇なんだから、お芝居を相続していかないと。

(2015年7月4日)

舞台の見せ方も昔とかなり変わってますか?

篠原 昔は照明器具も道具も、そうないなかでやってたから。いまは照明も素晴らしいし、化粧や衣装やカツラも昔と全然違うから。役者がよく見えるよね。お客さんがついてご祝儀があがるところは、ほとんど舞台のものにかけてますから。みなさんが思ってる以上に、お金がかかってる。

(2018年6月4日)

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2017年、篠原演芸場のお正月公演で、篠原会長と紅葉子太夫元。三番叟のあとの鏡割りで乾杯。客席にもふるまわれた。「飲めないおばちゃんたちのコップが三つも四つも集まっちゃって、すんごい飲んじゃったのもいい思い出」(カル談)

カル わたしが篠原さんにお聞きしたかったことのひとつに、興行師というのは、興行のスケジュールを組むだけじゃなくて、劇団や役者のプロデュース的なことに、どこまで口を出すのかということです。たとえば、子役から大人に変わる年頃の役者がいたとして、やっぱり年頃だからダイエットとかしてかっこよくなりたいと思ってたとするじゃない?でもその子は、子役のころからぽっちゃり系で、それが愛嬌にもなっておばちゃんたちから人気があったとしたら、興行師からみて、その路線を貫いたほうが人気が出そうだなとふんで、色気づきたいのはわかるけど、ダイエットするのはもうちょっと待ってみ、ちょっと太ってるくらいのほうがお前は絶対人気が出るからってアドバイスするとかね。そういうとこまで踏み込むのかどうか。

佐野 どうなんでしょうね。一見好太郎座長が、午後の紅茶のミルクティーが発売された当時、美味しくてそればっかり飲んでたらどんどん太ってきちゃって、篠原さんから、もう午後ティーを飲むのはやめてくれと注意されたという話は以前お聞きしましたけどね(笑)。そういう話じゃなくてね。

カル 興行主がどこまで興行をコントロールするのか、上記のインタビュー当時は、まだ大衆演劇を観始めて日が浅かったから、そこまで聞く発想がなかったんだけど、いまなら聞いてみたいし、篠原さんはどう考えていたんだろう。

佐野 篠原演劇企画もまた、家業として興行と劇場を代々引き継いできたわけですよね。篠原さんが何をどう託してきたのか、いずれ四代目である息子さんたちにも聞いてみたいですね。

カル そうだね。「大衆演劇を絶やしてはいけない」とホワイトボードに力強く書いた篠原さんは、興行師としてこれからの大衆演劇がどうあってほしいと考えていたのかなあ。

佐野 では、最後に。

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仕事をするうえで大切にしていることは?

篠原 祖父の代から引き継いできた大衆演劇やその劇場を、守っていくということかな。せがれ3人ともこの世界に入ってくれたから。誰かが引き継いでいかないと、そういう文化がなくなっちゃう。

(2018年6月4日)

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カル・佐野  篠原会長、ありがとうございました!

(2021年12月)

構成・文 佐野由佳

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