「大衆演劇界の貴公子」小泉たつみ 文・山根 大

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今回は「たつみ演劇BOX」がお題だ。

 最初に断っておくと、同劇団には座長が二人いる。小泉たつみと、小泉ダイヤだ。二人は実の兄弟で、弟であるダイヤは座長として既に十年近いキャリアがあり、「押しもおされもしない」存在である。

 所謂「二枚看板」というやつで、その場合は二人並べて俎上することが当然なのだが、ここでは兄のたつみにスポットしている。

 理由は二つ。

 一つは、二人を一度で語ることがもったいない。それぞれに個性がある上に役者として優れているから、それぞれに取り上げるべきだと考える。

 もう一つには、現在の屋号に「たつみ」という名前を冠していることには意味があり、ダイヤが座長に昇進する素地を用意できるようになるまで、小泉たつみが一座を「作り上げてきた」ということをしっかりと示しておきたいからだ。つまり、現在の二枚看板はたつみが支えきった時代があってこそ訪れたのだ、ということを語っておきたい。

 そういう訳で、ダイヤ自身と支持者の方々には、一旦辛抱をお願いするものだ。

 と、言いながら、小泉たつみに直接に向かうということもできない。

 この劇団には、歴史があるからだ。それに触れずして、現在を検証することには意味がないだろう。

 その歴史は、数ある関西の劇団の中でも、特に長く、存在もまた大きい。侍集団に譬えるならば、「一方の旗頭」であることは間違いない(なればこそ、その後継者であるたつみを、私は「貴公子」と呼ぶのである)。

 私の親父(当社の先代社長)である岩根照登は、舞台内容と公演システムの両面で、旅芝居の変動期に立ち会った世代だが、少なくともそのキャリアの前半分は、未だに「旅回りの劇団」の中心が「お芝居の上演」であった時期に属する。

 すでに「歌と踊りのグランドショー」が演目に不可欠になっていたとはいえ、その位置づけはあくまで「添え物」「付録」であって、二本のお芝居、前狂言と切り狂言が中心であるということは変わっていなかった。一桁の座員数が当たり前になり、極端に言えば、ショウだけで公演が成立するような現在とは大きく異なる。

 その親父にとって、価値ある劇団とは、当たり前のことながら、お芝居が出来る劇団だったはずだ。

 どんな劇団かは、座員の構成で言うと分かりやすい。

 「あの劇団には、敵役がおって、おっ母さんがおって、娘役がいてる。(芝居は)何でもできるから、ええ劇団や」

 となる訳だ。

 その時代の座員名を書き上げた「連名表」を、今目にすることがあるなら、現在を知る人ほどに一驚するに違いない。二十名は当たり前だ。裏を返せば、それだけの人間がひとつの劇団で(満足できたかどうかはまた別として)居つくことができた、ということになる。

 …少しだけの寄り道になるが、そもそもこの点が今昔の最も大きな違いを生んでいる問題点だ。以前は、芝居が中心だったのだから、現在のように極端なショウの偏重がなく、ショウに必要な衣装類・道具類も少ない。それに対して、座員が多い。少ない荷物を大人数で運ぶことになるから、劇団が移動するときの負担が、現在とは比較にならないほどに軽い。今は10トントラック二台、下手をすると四台に満載した荷物を、少ない座員で持ち運びすることになるから、その手間たるや大変なことになるし、また、実際には少ない座員の手には余るから、公演先での搬入搬出に専業の人員を雇わなければならない。作業が複雑化・膨大化するのに加えて、費用も嵩むことになる。観客が華やかなショウに惹かれている以上、劇団が生き残るためには、物心両面でこの負担に耐えるしかないのだが、一方で劇場等への入場料金はほとんど値上がりしていない。流行り言葉で言うならばSDGs…持続可能性…に極めて乏しい、負のスパイラルのただ中にあるのが、旅芝居の世界の現況であると言える。…

 

 その「ええ劇団」の典型が、たつみ演劇BOXの前身たる「嵐劇団」だった。

 このあたりは聞き憶えなので不確かな部分もあるのだが、その前身は「浪に千鳥の」と枕詞がついた「功昇劇(こうしょうげき)」と、亡き二代目・小泉のぼる先生に聞いたことがある。

 功とは「いさを」、昇とは「のぼる」の兄弟であり、この二人を座長としたのがその名の由来だ。二人には姉がいて、初代・辰己龍子、その夫が劇団の責任者だった嵐九一郎だ。九一郎と龍子の間に生まれた長男が二代目・小泉いさをこと勝龍治(現・剣戟はる駒座総裁)、次男が辰己賀津雄(現・賀美座座長・不動倭の父、故人)、そして三男が、勝小龍という名前から二代目として小泉のぼるを襲名する。

 この系譜の中で、伝説的なのが嵐九一郎と初代・小泉のぼるだ。

 嵐九一郎は言わば「アクターズ・アクター」で恐るべき芝居の達者と伝えられているし、初代・小泉のぼるは、私の親父に言わせれば「吉本(新喜劇)のやっているようなことは全部小泉のぼるが先にやっていた」ということになる。

 その後継者であった「嵐劇団」には、勝龍治、辰己賀津雄、勝小龍という実力者三人を中心に、梁山泊のごとく腕達者が入れ替わり立ち替わり参加していた。個人的に、私が作劇の師匠と私淑する美影愛もその一人だ。

 親父が「ええ劇団」と考えても無理はあるまい。

 三人兄弟では、次男賀津雄が「笑い」の人だったと聞く。

 勝龍治は、これぞ「ザ・役者」という人だ。先年、芸能生活の「古希」を寿ぐ公演が開催されたが、枯淡には程遠い艶と凄みを見せつけてくれた。

 勝小龍、二代目・小泉のぼるは、おそらく、旅芝居の歴史にあって最高の知恵者だった。何でも知っていた。そして、それを分かりやすく人に伝える才があった。もちろん、芝居はめちゃくちゃ巧かった。

龍治は天成の役者、のぼるは芝居の博士だった、と思う。

 その、二代目・小泉のぼるの長男こそ、小泉たつみ、その人だ。

 嵐劇団は、記憶に間違いがなければ、座長だった小泉のぼるの意向で、「辰己功昇劇」を屋号とした時期があった。その後、過渡期的な措置だったと思うが、座長の妻である二代目・辰己龍子と、その娘である辰己小龍がポスターを飾り、「のぼる會」という看板を掲げることになる。

 小泉のぼる率いる嵐劇団は、まことに玄人受けのする一座で、芸達者で博識の座長を中心に、内容的には常に見事な舞台を見せていた。

 しかし、それが興行成績に直結しない時期が続き、親父は首を傾げることになる。良い芝居をしてもお客様が来てくれない…ショウが公演の軸になる変動期が訪れていた。

 思うにまかせない状況だった「のぼる會」を変えるには、原動力が必要だった。それには座長の子供たちの成長を待つ必要があったのだ。

 生前中の小泉のぼる(と呼ぶと恐れ多いので、以下先生)は、私にとっては緊張感を持って接することが当然の人だった。

 私は、二十代も後半になろうかという年齢で劇界に出入りするようになった新参者で、親父の顔があるからこそ、あちらこちらと行かせてもらえるものの、そうでなければ鼻もひっかけてもらえない「ぺーぺー」である。おまけに親父は「よろしくお引き回しのほどを」などと親切なことを言ってくれる人でもない(そもそも私の存在が、親父にとっては迷惑だったと思う)。役者さん、小屋主さん、関わりのある人たちとの繋がりは、自力で作って行くしかなかった。

 役者と、興行師。

 初めから難しい間柄だ。興行師は舞台には立たない。そのくせ、公演企画の全体を仕切る。本来、一匹狼で、一国一城の主に他ならない座長たちが、舞台については門外漢の興行師に生活の手綱を預けるのだ。もちろん、興行師にも言い分はいくらもある。ただ、立場が違えば、それぞれが尽くす「ベスト」の結果が一致を見ないことはままあることだ。だから妥協、折れ合い、色んな手管が必要になる関係であることは分かりきっている。

 私は、この道も三十五年を越えてしまうというのに、未だに改まらないところがあり、それが「曖昧な部分をなるべく残さないよう心掛けた」話し方だ。大してうまくもないのに、かみ砕こうとするから、言葉数も増えるし、時に言いすぎる。そして殆どの場合「当たりのきつい」話し方をしている。

 「ぺーぺー」で、興行師の小倅というだけで劇界の「ごまめ」にしてやってる奴が、楽屋に座り込んで一丁前の口を利く。クソ生意気と映って当然であり、ましてや、プライドの高い先生はそのように感じただろうと思う。

 おまけに、この若造は、何やら芝居も書いたりして、催し物を上演するわ、口上の席に居並んで喋ったりするようにもなった。目障りだとしても無理からぬところだろう。

 とは言え、そのクソ生意気な本人は、先生に一目も二目も置いている。どんな大御所さん相手でも割合平然としていたと思うが、先生の前では構えてしまってそれができない。だから、他の人と向かい合うときと違って、世間話をしてお茶を濁した、という憶えがまるでないのだ。

 その先生が、「のぼる會」の座長に小泉たつみを据え、披露公演は役者仲間から「記憶に残る」と評された。いかにも、である。工夫と達者が図抜けているから、分かる人ほど凄さが分かる。

 しかし、それでも、実力に見合った評価(つまり観客動員)にまでは距離があった。

 そうするうち、先生自身が大きな病を得てしまった。

 役者そのもの、という豪快な呑みっぷりは誰しも知るところだし、人一倍の知性と繊細さは隠しようもないのに、慕い寄る者はひきもきらずで、付き合いもおろそかにする人ではない。様々な重圧もあったことだろう。

 病状が一進一退を繰り返す間にも、決して楽屋を離れない、そんな姿をどのくらい見ただろうか。

 東京の篠原演芸場の公演中に、私が楽屋を訪ねた時のこと。

 「先生、調子が悪くて横になってまして…」

 ということだったから、もちろんのこと恐縮して、二言三言座長と話すうち、気が付くと、何と楽屋の前まで先生がおいでになり、正座されていた。

 そのこと自体に驚いたけれど、さらに驚いたのは、巨体と言ってよい体躯だった先生が本当に小さくなっていたことだった。例えるならば、ぬいぐるみの中から、背中のファスナーを開いて人が出て来たような…。

 先生は、私に挨拶するためにだけ、そのようにしてくれたのだ。よりにもよって、この私に、鼻持ちならないクソ生意気な若造の、この私に、である。

 さすがの盆暗(私のことだ)も悟ることがあった。

 私ごとき、頼り甲斐がないのはもとよりではあれ、遺る劇団を…というお気持ちなのだな、と。

 それからしばらくして、二代目小泉のぼるは他界した。

 五十代、早いと言うも愚かな若さであり、劇界にとって大きな損失だった。

 生前中、先生からの言葉で、一番印象的なものは、横浜・三吉演芸場で開催された催し物の前夜、稽古終わりの居酒屋で戴いたものだ。

 「あんたら親子は混ぜんとあかん。親は何を言ってるのか分からん。子供は言いすぎる」

 親父と私を、この上なく的確に言い表している。

 小泉たつみの素晴らしさを、私が発見したのは、実は、のぼる先生の葬儀の席でのことだった。

 告別式の終了にあたり、彼が遺族を代表した挨拶は忘れられない。言葉はこの通りではないだろうが、次のような内容だった。

 「お通夜の席から、皆さんに、明日からどうする?大変やろう、とご心配を戴きました。小泉のぼると言えば少しは名の通った役者だから、その跡を継いでやっていかなくてはならない私を気にかけて下さり、有り難いと思います。でも、私は、子供として、もう少し父と一緒にいたかっただけなんです。父は、自分の身をもって、病の恐ろしさを教えてくれたのだと思います。だから私は」と隣に立つご母堂の辰己龍子さんの肩を抱いて「これからこの人を大事にして行こうと思います」

 そして、こう付け加えた。

 「皆さんも、ご自分とご自分の大切な方を大事になさって下さいね」

 商売柄もあって、悔やみ事には数えきれないくらい列席して来たが、それまでも、またその後も、これくらい見事な挨拶を聞いたことはなかった。

 そして、その瞬間、ああ、のぼる先生はなんと見事な子育てをなさったのだろう、と考えた。

 これは始終口にしていることだが、旅芝居においては、舞台のすぐ裏が(楽屋という)家だ。だから、その暮らしぶりは否応なく舞台に現れる。

 楽屋が荒れていれば、当然に舞台は粗雑なものとなり、楽屋に和気が満ちているなら、舞台も明るく楽しい。

 その道筋で考えるなら、父亡き後、屋号を「たつみ演劇BOX」と改めたこの一座は、まさにそれぞれの人柄・暮らしぶりが端正なものであるに違いない、と想像させる劇団になった。

 座長たつみを支えるメインの顔ぶれを見てもそれが分かるだろう。

 たつみの後を追って座長に昇格したダイヤは、美貌と天才的なセンスを持ち、しかも芸熱心と来て、役者としての死角がない。

 たつみの実姉である辰己小龍は、その舞台を瞥見した玄海竜二が、「あれは何者だ?」と一驚したと伝わるほどの女優で、しかも、特別公演ともなるとそれに応じた台本の殆どを手掛ける才女でもある。

 そして、親睦団体「のぼる會」の会長でもある責任者、「大衆演劇界の聖母」辰己龍子の存在が、大きく、温かく劇団を包んでいる。

 座員数こそかつてのようには行かないが、私の親父が言うところの「ええ劇団」であることに変わりはないと、誰しも納得する陣容だ。

 そしてこの「ええ劇団」は年来のテーマをも克服して、今や間違いなくトップ劇団に駆け上がった。

 年来のテーマ…先にも触れた、観客動員、である。

 それを実現したのが、「観客の呼べる劇団」へと一座を変えたのが、小泉たつみの魅力と努力だったのだ。

 たつみの美しい舞台姿、芝居に関する理解力と舞台さばきが水際立ったものであることは、公演を一通り見れば誰でもが理解する。

 しかし、それだけでは群雄割拠する旅芝居の世界の中で抜きんでることは出来ない。

 誰もが見て分かる魅力を更に後押しする努力があればこそ、観客は魅了される。それが「嵐劇団」以来の弱みとなっていた、「客席とのつながり」を作ることだった。

 その面で劇界をリードするのは、以前にも紹介した通り、都若丸、ということになるが、幕間のトークはもちろんのこと、芝居中にあってのアドリブでも、小泉たつみの工夫と能力はそれに匹敵するものを見せてくれる。

 短く言えば、何せ喋りが面白い。

 旅芝居にあっては、客席との「コミュニケーション」は必須項目で、(親父風に言うなら)芝居が「もひとつ」ショウが「(さば)けん」としても、そこが出来ていれば劇団は生き残って行ける、というくらいに重要なファクターだ。

 先代である小泉のぼる伝来の精神は

 「ひらがなの芝居」

 という一言で表現される。

 歌舞伎や人形浄瑠璃は、言わば漢字で書き連ねられた芝居だ。漢字が読めない人には、理解ができない。素地となる情報を知らなければ、楽しむことができない。

 対して旅芝居は、歌舞伎や浄瑠璃が由来の演目であったとしても、ひらがなでやさしく読み下して、誰にでも楽しんでもらえるものでなければならない。

 「ひらがなの芝居」とはそういう意味だと、私は思っている。

 だからと言って、それは「くだけて良い」という意味ではない。崩すことなく、分かりやすくする。そこに肝腎がある。

 だから、分かりやすく、面白く、楽しくはあるけれど、格調は損なわれない。上品なのだ。

 それが、先代の精神を受け継ぐ「たつみ演劇BOX」の芝居である。

 だから、芝居に導きさえすれば、そこには間違いないものがある。誰にでも楽しめるものがある。ただ、道案内がないと、人はなかなかついて来ない。

小泉たつみは、そのコミュニケーション能力で、道案内を買って出たのだろう、と思う。

それによって、多くの観客が「質の高い」旅芝居に触れることができるようになったのだ。

「神は細部に宿る」という。

小泉たつみの舞台を考えるとき、私はいつも、おそらく彼自身にとっては何気ないに違いない舞踊のひとつを思い出す。

曲は梅沢富美雄の「恋曼荼羅」だった。

雨の中、傘を差したたつみが小走りで舞台に上がる。曲が進むうちに雨は上がり、たつみは傘を閉じる。傘の雨露を払う。雨だけに、裸足だった。手ぬぐいを出す。足の裏を清めて、帯に挟んだ下足(げそ)を穿く。

こうして書いても全く何気ない。しかし、その所作のひとつひとつが理に適い、そして流れるように美しく無駄がない。

私にとっては、それが細部に宿った芝居の神に思えた。

「たつみ演劇BOX」は、旅芝居の「レベル」を保証してくれる劇団のひとつだ。

これからもそうであってほしいし、また、そうであってくれるに違いない、と確信している。

父が作り、母が守り、子供たちがそれを大きく育んだ。

一座の物語として、まことに美しいのではないだろうか。

だからこそ、私は口上の席では、小泉たつみをかく紹介している。

「親の譲りは芝居の腕と、並ぶ者なき品の良さ。皆様ご存知、大衆演劇界の貴公子、小泉たつみ」

 と。

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