小さいころから芝居が好きで、父・二代目小泉のぼるに憧れた。
「主役をやるお父さんはものすごーくカッコよくて、大好きでした。聞いた話では、わたしの初舞台は1歳半のころです。でも、そこから子役をずーっとやったわけではなくて、幼稚園生くらいからは舞台には出ないで、中学2年まで普通に家から学校に通ってました。たまに休みのときに、通り流しの人とかで舞台に出させてもらうくらいで。わたしは小学校6年生くらいから入団したいって言ったんですけど、なかなかさせてもらえなくて、中学3年から入団しました。それも劇団の人数が少なくなって、母が借り出されたのについて行っただけなんですけど。でもわたしとしては、入団したらカツラや衣装は自分で揃えなければならないことはわかっていたので、子どもながらにコツコツ貯金をしてましたね。舞台に立てたあかつきには、絶対にカツラをつくるんだ、あーしてこーしてって夢見てました」
やりたい役は台詞の多い役。父のように「座長になりたかった」という。けれど父に向かってそんなことは、とても怖くて言えなかった。何がそんなに怖いのか、二十歳を過ぎて気がついたことがある。
「わたしは体も小さいし、声も高いし、役には自分に似合う似合わないがあるというのが、ある程度の歳になってわかるじゃないですか。それで指向を転向しましたけど、やっぱり父みたいになりたかったですね。だからいまだに男役をやりたくてしょうがない(笑)。父はね、めちゃくちゃ怖かったです。たぶん、姉弟三人ともお父さんには言いたいことは言えなかったと思います。あ、でも末っ子のダイヤだけは、かわいがってもらってた感じがします(笑)。師匠としてだけでなく、父としてもわたしにとっては怖かった。もちろん叩かれたことなんて一度もないし、怒鳴られもしない。何が怖かったんだろうと思ったときに、わたし、この人に嫌われるのが怖いんだ、と。二十歳過ぎたころに気がついたんです。父が失望するのが怖かった、自分に対して。何か言って、オレの娘やのに何でこんなつまんないこと言うんだろうとか、こいつはやっぱりダメだなって思われるんじゃないかって。わたし自身もちょっと劣等感があったので。弟たちに比べて、ちんちくりんだし、すごく太ってたんです。いまも肥えてますけど、もっともっと太ってて、動きも遅かったし、踊りも苦手で。お父さんからボロクソに言われてました。だからなんか、これ以上父に嫌われたくないような気持ちがあったと思うんです。それで、言いたいことが言えない。二十歳過ぎてダイエットして、1年かけて20kgくらいきっちり痩せたんです。一応平均の体重にしたのが自分のなかで自信になって、やればできるでしょっていうのを父に見せられたっていうんですかね。そこから自分の意見というか、考えを言えるようになった気がしますね。オープニングでこういうことやろうと思うんですけど、どうでしょうか? とか。この芝居やりたいんですけど、立ててもらっていいですか? っていうようなことを言えるようになりました。それまでは、台詞ひとつとっても、こういう風に言いたいけど、どうやったらいいのかわからないんです、っていうことも聞きに行けなかったんです。弟たちも話したと思いますけど、録音したら怒られますしね。メモを取るみたいに、書くのも怒られます。書いてたら、顔見ろって言われるんで。他の人は許されても、わたしたち子どもは許されなかったですね。というか、書かないと覚えられない人は書いてたわけですけど、わたしにしたら、父が書くなと言ってるのに書くこと自体が信じられなかった(笑)」
「父は機械でも楽器でも、探求心がすごいんです。三味線も父から習いました。テナーサックスも、ギターもドラムも、太鼓も、みんなうちは父から教わりました。当時は、自分たちで楽団をやってましたから。父がギターを弾いて、わたしたちは後ろで伴奏をするだけですけど。実はパソコンを使うようになったきかっけも父なんです。まだわたしは役者になる前、小学校5年生くらいに、ワープロが欲しかったんですけど、間違えてパソコンが欲しいって父に言ってしまったんですよ。そしたら、父がすごい頑張ってパソコンを買ってくれたんです。あれ?パソコンが来ちゃったよと思ったんですけど、しょうがない。使い方わからないですけど、いちおうワープロだけは使えるようにならないとと思ってやってたら、父は父で座長大会とかの脚本をつくるのに、手書きがめんどくさくなっていて、わたしにワープロで打てっていうわけです。父が言う言葉を聞きながら、文字に起こす。これがいまみたいに、パソコンを使うようになったきっかけです。自分が打った脚本を持って、父について行って座長大会でみなさんに配って稽古してました。当時は脚本があったとしても、みなさん手書きでしたから、そういう意味で父はハイカラでしたね。それから父も、私のパソコン見て、お前それいいなあって言いだして。昔、『書院』っていうワープロがありましたよね? あれを買ってきて、自分でカチャカチャやってました。そのうちお前は打つのが遅いからまどろっこしい、って言われたりして」
父は厳しいだけでなく、座長としてはどこかざっくばらんな、むちゃくちゃなところも魅力的な人だったという。
「昔は、若手がやる前狂言、座長がやるメインの切狂言とあって、私たちが前狂言を昼のお芝居でやってたら、自分はまだ昼寝してるから、静かに芝居しろって言いだすような人だったんですよ(笑)。上手い芝居だったら聞き心地いいけど、下手な芝居は耳に引っかかってしょうがないとか言われて、すいませーんって」
そんな父は、辰己小龍が28歳のときに亡くなった。
「父がいないと、晩御飯のおかずさえ決まらない。いつも、父が今日は何を食うぞっていうのが当たり前だったから。今日はフグ!とか、今日は肉!とか。母と買い物に行って、つくってくれるんですよ。それを食べるのが当たり前だったから。父がいなくなったら、何食べる? なんでもいいよ(たつみ)、なんでもいいよ(ダイヤ)、なんでもいいよ(わたし)っていう家族になってしまって。そこからまた、だんだんまとまっては行くんですけど、当初は父がいないとご飯も決められない家族だなあ、って思いました」
誰よりも憧れて、認めて欲しかった師匠としての父がいなくなってしまった喪失感は、大きかったという。
「父がいなくなると、父についてきてくれてた人っていうのはやめてってしまうので、ガクンと座員も減りました。やっぱり世代が変わるとね、どうしてもやり方が変わってくるので、当然、ついてこない人っていうのは出てくる。どこの世界でもね。そうだろうなと、思ってた通りになりましたけど。わたしは正直言って、父にさえ認められていれば誰に認められなくてもよかったから、父がいなくなったあと何をしていいかわかんなくなった時期がありました。何が上手いのかもわからなくなった。誰に下手やって言われても信じなかったし、誰に上手い言われても信じなかったですね。しばらくして、たつみさんが観客動員数を気にし始めているのに気づいたとき、お客さん呼べない役者はダメなんだというのを、ようやく思うようになりました。お客様に楽しんでいただける舞台を考えないといけない、ということで兄弟が一致したんですね。別に話し合ったわけでもなく。自分たちであれが上手い、これが上手いっていくらいったからって、お客様に認めてもらわないと始まらない、っていうことに遅ればせながら気がつきました」
第3回につづく!
(2021年10月26日 三吉演芸場)
取材・文 佐野由佳