第7回 親父に教わった生き方だから

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『瞼の母』の初演は昨年(2023年)4月、博多新劇座での誕生日公演だった。

「うちの親父に30になったら『瞼の母』をやれって言われてて。思い出して恋川純弥座長に台本をもらって見たら30代の話なんで、そういうことかと。親父は見映えを、役にふさわしく見えるかどうかをすごい気にする人やったんで。それは今でも大事にしてますけどね、役作るとき」

360度円形劇場のノリで、客席の通路をめいっぱい使う演出だった。

芝居の眼目、母との対面シーンで大切にしている台詞がある。

「忠太郎は母親を二十数年探し続けている。その自分になんら恥じるところはない。やくざをやってることも恥じていないんですよ。でも、なんでそんな恰好で来たって言われるから、『そのお指図はご辞退すらぁ~』となる。『親にはぐれた小僧っ子が愚連(ぐれ)たを叱るは少し無理』って、みなさんここを大事にしはるんですけど、僕、ここじゃないと思ってるんです。『堅気になるのは遅咲きで、やくざ渡世の泥沼に脚もすねも突っ込んで、洗っても洗ってもとれやしねぇ。今さら堅気になったところで、誰が喜んでくれるんでござんす』。ここが大事やと思ってるんです。喜んでくれる人がおるんやったら、なんぼでも堅気になる。堅気になって苦労したところで誰が喜んでくれるんですか、って。ここ、ものっすごい大事なとこやと思うんです。あなたが喜んでくれるなら、やくざなんていつでもやめる。そりゃ貧乏しようが苦労しようが、あなたと一緒におれるんやからってことなんですよね。僕は、『愚連たを叱る』よりも、ここの台詞がものすごくかわいげもあり、かわいそうと思ってて」

博多新劇座の棟梁が鵣汀の話を聞いて、全てイメージ通りの舞台にしてくれたという。クライマックス、忠太郎を母と妹が追ってくる場面で、

「橋を作ってください、高土手が欲しいって言いました。なんでかっていったら、橋の上に親たちがおるときに、忠太郎は橋の下におるんですよ。たった1日のためだけなのに、川に水を張ってくれたんで月の反射でお客さんには忠太郎が見えてるんです。上では母親たちが忠太郎を探していて、妹が『近くにいるような気がする』と真上で言うんですよ。その真下で忠太郎は人を殺して口をおさえている。それが辛いんですよ、忠太郎は。上下におんのに母親たちは行ってしまうんです」

スマホに残してある大道具の写真を見せてくれる。映画か何かでそういう演出があったのかと聞くと、

「違います。僕が考えました。映画で橋は使ってましたけど、上下で進行していくのは僕が考えました。で、ラスト、幕外に忠太郎が出た時、雪を降らせたんです。忠太郎の立ってるところだけ雪が降って、雪に降られながら忠太郎が泣く。で、周りの人に泣いているとさとられたくないから、寒いから顔を隠すふりして合羽で顔を隠して入っていく。本当は泣いているんです」

忠太郎は妹とわかって、妹は兄と知らずにすれ違う。

もうひとつ、鵣汀版の忠太郎が大きく違うのは、ラストで帯に花をさしているところ。水熊から出て妹とすれ違うとき、妹が落とした花を忠太郎はもらう。

「一目会いたい、それも愚痴かって言いながら、たまたま妹に会う。忠太郎は妹だとわかってるから、妹が落とした花を拾いながら、もらってもいいですか?とわざと言う。少しでも長く妹の顔を見ていられるように。で、よく似てらぁ〜って花道を入るお兄さんと、なんやお母さんに似てなかった?という妹と。ここが忠太郎がいう、縁は切れても血はつながる、切っても切れねえというところにつながってくるんですよね。で、なんの気なしにずっとさしてるんです、妹からもらった花を」

月明かりだけの悲しい場面に白い花びらが浮かんで、とても美しかった。

「きれいな作品やと思います、もともとが。花は映画にも出てくるんです。白黒映画なんで、最初何やってるか全然わからへんかったんですけどね」

人を斬ってもなお、忠太郎の背中で花は咲き続ける。映画を参考に、歌舞伎を参考にと言っても、本当に作品の意図を理解して血肉にして自分の舞台に活かすことは並大抵のことではない。舞踊ひとつ踊るにしても、歌詞の解釈を考えることが楽しいと思える、思ってしまう鵣汀だからこそ、より忠太郎の悲しみが客に伝わりやすい大道具を考えることができるのだろう。ゴージャスにしたいからではなく、芝居をよりドラマチックにするための大仕掛け。

『瞼の母』の上演前、祀武憙座長の取材で舞台袖にいた。取材を終えて外に出ようとしていたら、ふらっと鵣汀がやってきて、「『瞼の母』は先生(勘三郎)もやってはるし、すでに正解がある。朗読や客席を使うのも、言ってみれば逃げなんですよ」と言った。勘三郎のDVDを完コピして、そのまま舞台にかける劇団も少なくないなかで、自分なりにかみ砕いて、より良い舞台にと工夫することを「逃げ」とは決して思わない。全ての工夫が吉と出るとは限らないが、でも、工夫しようとした気持ちは客席には確実に伝わる。一度やってみてだめだったら、次に変えればいい。一発勝負をしいられる大衆演劇だからこその自由であり、日々の舞台の向こうに大衆演劇の未来はある。

忠太郎が弟分の半次郎を助けるくだりは朗読劇にした。「戯曲が元という感じを出したかった」と、鵣汀。

父、津川竜も努力の人だった。

「親父は、舞台、芝居、役者、すべてにおいて義というものに生きた人でした。人間の筋道もそうですし。生き方を常に追求した人。『かもめのジョナサン』というお話があるんですよ。えさの取り方とか飛び方を研究するかもめの話なんですけど、ジョナサンみたいな人です」

リチャード・バックの『かもめのジョナサン』は父・津川竜が好きだった小説だ。そのジョナサンに似ていると息子が言ってくれていると知ったら、津川竜はどんな顔をするだろう。

「妥協がないです。おんなじ曲を僕ら百何回躍らされたことありますから。合わないって。それはなぜか。明日見るお客さんのため。これ、ひとつだけなんで。津川竜が演出、監修した以上、中途半端なものは見せられない」

とはいえ、役の解釈などを説明してくれる人ではなかった。

「違う、としか言わない。考えろと。僕は正解をもらったことはないです。死ぬまで、どの役も。はたから聞いただけです。生きてるうちって親父のこと嫌いではなかったですけど、めっちゃ苦手やったんです。でも、そうですね、どう出るか、どう演じるかということをものすごく考えた人ですね。座長は誰でもなれる。座長としてどうあるべきかということを考えた人なんで。うん、だから、僕も親父の芸とか継ぐ気も全くなかったですし、当時、名前なんか継ぐかって思ってたし。でも、亡くなった日ぃかな、朝、5時に楽屋に戻る道中で、しみじみ、あぁ、親父のこと好きやったんやなぁっていうことに気づくんですね。でも、それを本人に言わないまま終わってるんで」

『山河』のサビ、「愛する人の瞳に」というところでハッとさせられた。凛々しさだけで押し通すのではなく、切なさも見せるのが、いかにも鵣汀らしい。

「たまたま、次の日の舞踊が全部、親父が踊ってた曲やったんですよ。一週間前に作った香盤表なのに、なんか親父の曲が続くなぁって思ってて。で、総舞踊で『竹とんぼ』っていう曲を踊ってたんですけど、親父がよう歌ってたんです、カラオケで。親父が歌って、横で踊るっていうのが昔からずーっとあって、たまたまそれが重なって、ずーっと泣くの我慢してたんですけど、その瞬間だけ。親父がやってた芝居も何本かお蔵にしました。名前継ごうかという話もいろんな方からありましたけど、全部丁重にお断りして。継ぐんやったら五十過ぎたときに。親父、五十で亡くなってるんで。自分もこの名前でどれだけやれるかわからへんし、いつ死ぬかわからへんけども、どう失敗したとしても、これだっていう生き方をしないと意味がない。それをまっとうしたのが、親父なんかなって思いますけどね」

亡くなってから、父の映像を観ていないという。

「記憶に残っているほうが信じられますから。そやし、親父は親父なんでね。僕が親父を真似たところで津川竜になれるわけじゃないですし。観たら、なんか認めることになるじゃないですか、いないということを。先生(勘三郎)のDVDも観ないです。先生はどっかで芝居してる、親父もどっかで芝居してる、って思ってるんで」

2人の舞台に、津川竜という役者はこれからも存在し続ける。父のことを話すとき、空を見上げることも。

口上でよく鵣汀は、単身赴任してる親父が、という言い方をする。繊細な鵣汀が、そういう言い方をする気持ちがよくわかってしまうだけに、その言葉を笑いながら聞けるようになるまで、昔からのファンはきっと少なからず努力がいったに違いない。私たち大衆演劇ナビは残念ながら津川竜の舞台を観ることができていない。単身赴任だったらよかったのに、と心底思う。

第8回につづく!
(2023年11月28日、12月7日)
   取材・文 カルダモン康子

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