第2回 楽屋は個室で!

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一見劇団のなかで、いわゆる「他人の釜の飯」を経験しているのが古都乃竜也である。19歳のとき劇団を辞め、九州大衆演劇協会会長(当時)であり、熊本で片岡演劇道場を主宰する玄海竜二のもとへ修行に出た。

「きっかけは親子ゲンカです。おかあさんと。で、劇団辞めますって。そのときに、以前からかわいがっていただいていた、玄海竜二先生に連絡して、修行させてほしいとお願いしました。退団する前に話をするのが筋かもしれないんだけど、辞めてから、こういう事情だから勉強させてもらいたいって話をして。先生もうちのおかあさんに『比呂志(本名)あずかるから、まかしとってくれ』って言ってくださった。ほかの劇団に行かすよりは、玄海先生のところなら安心だからっていうことで許してくれました。親からすれば、19の息子は子どもだし、失敗させたくない、こけないように、間違えないようにって思ったんじゃないかな。僕が同じ立場なら、同じようにしただろうと、いまならわかりますけどね。僕も若かったし、一回外に出て勉強してみたいっていうのもあった。そこは、おかあさんもわかってくれたのかな。おとうさんが亡くなって、おかあさんが劇団を継いでから、外に出してくれたのは僕だけだから」

少しずつ、役者としての欲が出てきたのもそのころからという。

「初めて舞台に出たときは、あんま好きやなかった。11歳?くらいかな。化粧して人前に立つって苦手だったから、出たいっていうのはなかったかな。半分無理矢理、家業だから仕方なくっていう感じでやってたけど。16歳、17歳くらいに、ちょっと頑張らなきゃいけないかなと思い始めて。18歳で名前を変えたんですよ。それまで人見花太郎っていう名前で出てたんだけど、一見味男、ひとみちかおっていう名前になった。味男と書いてちかお。イッケンアジオってねえ。どういうこと?! 読めないよね(笑)。おかあさんが誰かに見てもらってつけたのかな。劇団の名前も、人を見るっていう人見から、漢数字の一見に変えたんですよ。うちの劇団、人の出入りも多かったし、公演場所に迷惑かけたりしてたから、いっぺん名前を変えてみようかというのがあったんじゃないかな。お父さんが人見多佳雄だったから、それに近づけるようにっていうので、ちかお。味男じゃ読めないけどね。僕は名前なんてなんでもよかったから。それで8カ月くらいやったあとに、一見劇団を辞めて玄海さんとこに移籍して、最初の一カ月は一見味男で出てましたけど、劇団に名前を返上しないといけないということで、つけた名前が古都乃竜也です。姓名判断の先生にみてもらいました。でも九州に行ったときに、ちかおって呼ばれてたから、いまでも昔から知ってる劇団では、ちかお。若い座長からも『ちかおにいちゃん』って呼ばれる。古都乃じゃなくて(笑)」

「古都乃竜也」の文字をデザインした柄の着物と帯。帯のロゴは、橘流寄席文字・江戸文字の書家、橘右之吉さんのデザイン。

「そうやって外に出てみると、玄海先生のところはもちろん、他の劇団の役者さんにも会うじゃないですか。自分には実力が足りないんだってことが、よくわかりました。ほかの劇団の、同じくらいの歳の座長さんは、着てるものでも被ってるカツラでも、自分とは全然違った。お芝居、舞踊ショー、すごいなと思って。僕は全然追いついてないなって気づいたかな。当時、同じくらいの歳の子って、レベル高かったからね。がんばろうと思った」

九州で約一年。そのまま帰るつもりはなかったが、呼び戻されてふたたび一見劇団へ。戻るにあたっては、条件を出したという。

「玄海先生のところから、他の劇団に僕が移籍することになってたんですね。そのころに、一見劇団の関東公演が決まった。2001(平成13)年の2月から。で、その前月の正月公演は、久留米のリバーサイドパレスっていうとこで公演をするんだと。当時、劇団員が減っちゃったの。残ったのが、好太郎座長と、マチ子さん(瞳マチ子)、太紅友希、美苑隆太、紅金之助、川上章太朗、南條明、女の子がひとりと、おかあさん、これだけだったのかな。前の年の12月に、仕事が終わってから玄海先生とご飯食べに行ったときに、先生がちょっと家に来いっていうから、はい、ってついて行ったら、おかあさんがいた。『比呂志、おかあさんが迎えにきてるから、劇団に帰ってあげなさい』って。劇団員が少なくなってて、好太郎座長の相手役をする者がいないんだと。関東の公演も決まっている。劇団として、恥はかきたくない。比呂志を劇団に戻してほしいって来てるんだと。おかあさんは、佐賀の嬉野から来てたのかな」

「いや、でも僕は勉強もしたいしって言ったんだけど、玄海先生が『比呂志、劇団に戻るのであれば、おかあさんに条件出して呑んでもらえ。親子でも五分と五分だから』と。わかりました、考えさせてくださいと」

そこで条件を考えて、呑んでくれたら劇団に戻ると伝えると、紅葉子太夫元はほぼ呑んでくれたという。それは……。

「ひとつは、個室をください。大部屋がイヤだから。わがままなんだけどね。大所帯で団体生活で、個室ってね。わかったと。それとお客さまのおつきあい、よその劇団とのつきあい、業者さんとのつきあい、いろんな友達、プライベートは、オレの自由にさせてほしい。おかあさんは、外部交流を嫌う人だったからね。それも、わかったと。呑んでんでくれた。おかあさんも劇団のこと、一生懸命がんばるから戻って来いと。それで2000(平成12)年12月で片岡演劇道場を引きあげました。玄海先生が、『もし何かあったら、帰ってこい。立ち会ってるのはオレやから。条件をひとつでも叶えてくれなかったら、帰ってきたらええやないか』と。わかりましたー、行ってきます!って。劇団に戻ったら、花形にしてくれました。なんもなかったらかわいそう、と思ったのかな。二十歳そこそこでね、個室が欲しいとか偉そうにね。みんな雑魚寝しよるのに。外とのつきあいも、だまってさせてくれた。でも、うん、がんばろうっていう気持ちでしたね」

破格の条件で、花形としてふたたび一見劇団に戻った古都乃竜也は、玄海竜二のもとで学んだことを劇団に持ち帰る。それはいまでも、劇団の舞台に生かされているという。

「精一杯しましたね。お芝居もそうだし、ラスト舞踊とかは、先生の劇団で教えてもらったことを真似させてもらいました。芝居の演目でいえば、いま僕が主役でやってるものの9割は、玄海先生から教えていただいたものです。『赤尾の林蔵』『遊侠三代』『男十三夜』『人生夢芝居』『花簪』……。もちろん、父や母が残した芝居もあるんですけど、僕がやってるのは、お師匠さんである玄海先生の舞台を観て、いつか自分もやってみたいなと思ってたのを、させてもらってます」

ちなみに、楽屋はいまでも個室である。

第3回へ続く!

(2022年2月19日立川けやき座・3月12日川越湯遊ランド)

取材・文 佐野由佳

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