紅ア太郎 愛情感じました。胸キュンしました!

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紅葉子追善、一見劇団インタビュー企画も最終回。トリを飾るのは、紅ア太郎花形。この1年、一見劇団の若手のなかで、誰よりも劇団の外に出て行って活動したのが、紅ア太郎だろう。

その皮切りともなった、昨年5月、篠原演劇企画が主催する「原点回帰 特別公演」に出演したときのことは印象深い。篠原演芸場創立70周年の記念公演の一貫で行われたこの舞台は、様々な劇団の若手を中心とした役者が、篠原演芸場で公演中の劇団美山の舞台に合流するという、いわば混合他流試合のような舞台だった。演目は「男幡随院 幡随院長兵衛」。紅ア太郎は、里美たかし総座長演じる幡随院長兵衛の、兄弟分である唐犬権兵衛を演じた。

若手役者同士の腕比べのようなこの舞台、しかも胸を借りるのは、当代切っての人気劇団のひとつ、劇団美山の舞台である。そんななかで紅ア太郎は、先輩役者にひるむことなく、同世代の役者のなかに埋没することなく、唐犬権兵衛の威勢を演じてみせた。

あの小さかったア太郎が、となんだかちょっとしみじみした。なぜなら、大衆演劇を観始めたころ、紅ア太郎はまだ10代半ばの少年だったからだ。子どもの面影が残る少年ア太郎は、それでいて何をやっても達者に見えて、大人の役者をからかうみたいにくるくると舞台を駆け回って、客席を沸かせた。

16歳のとき、4月の浅草木馬館公演の千秋楽で、「来年は、身長も役者としても、ひとまわり大きくなって戻ってきまーす」と威勢よく挨拶したことをよく覚えている。あれからもう7年も経つのかと思う。いまも紅ア太郎の背は小さいままだが、唐犬権兵衛を演じるその姿は、小ささを決して感じさせないものだった。大衆演劇を観続けることの面白みのひとつは、こういうところにもあるのだなと思った。

紅ア太郎は、平成11(1999)年7月6日生まれの、現在23歳。「生まれた場所は聞かされてないです。めんどくさいから、姫路ですって言います」というように、旅から旅の一見劇団のなかで生まれて育った。一昨年に亡くなった太夫元紅葉子の孫であり、座長一見好太郎、古都乃竜也の甥にあたる。女優・長月喜京が母であり、紅銀乃嬢が姉である。

今回インタビューした一見劇団の面々は、紅葉子にとりわけかわいがられた孫は、紅金之介と紅ア太郎だと口を揃えた。

「かわいがられてましたね。僕は金ちゃんと入れ替わりで、小学校に入るか入らないかくらいから太夫元の隣に寝てて、中学の2、3年くらいまでずっと一緒でした。お風呂あがりの太夫元のおっぱい、3億回くらい見てますから(笑)。なにかあったら、すぐ太夫元のとこに言いに行ってました。姉弟ゲンカして、どう考えてもオレが悪いんですけど、オレが先に太夫元に話を変えて言いつけちゃうんですよ。それでお姉ちゃんがおこられたり。ヒドイ(笑)、ヒドイんだけど、太夫元は後からほんまのこと聞いてもおこんない。子どもですからね、まだ。それは小学生、7つくらいのときかな。だから、オレからしたら、そんな悪い子どもを叱らないなんて、甘やかしすぎだぞって思ってました(笑)」

甘やかされもしたが、しかし、太夫元はこわい存在だったという。年頃になってからは、隣に寝ていればこその苦労もあったのだとか。

「プライベートでおこられたことでいえば、15歳くらいかな。夜中に抜けだして、ご飯食べに行ったっていう、ただそれだけなんですよ。それでも大変なんすから。寝静まったあとに出てくんですから。テレビの音量めっちゃでかくしておいて、バレない時間に帰ってくる。そしたら見つかって、いろはすのペットボトルの下をきゅっと持って、水をまかれたんですよね。ブワーッって。え、なんで水まいてんやろって思ったら、『そんな子に育てた覚えばないぞ』って。めっちゃこわかったです。チビリそうでした。でも、愛情感じました。胸キュンしました。言い返したりは……しますね(笑)。だからヒートアップしちゃうんですよ」

仕事のうえでの忘れられないエピソードもある。

「16、17歳くらいまで、着物やカツラは太夫元が作ってくれてました。最初は太夫元が選んでくれて、ある程度、歳いってからは、こういうのつくってほしいって頼んで。ちょうど新しい着物が出来てきたときに『風のキャシー』っていう曲を踊ったんですけど、音響担当の人がテープを合わせてなくて、曲がかかんなかったんですよ。え? かかんないじゃんって。そしたら太夫元が、お前が悪い、確認せんからって。そんとき、オレはテープ合わせられへんから、わからんから、オレは悪くないって思ったけど、お前が悪いって言われて。そのときね、オレ、舌打ちしたんですよね。そしたら、目の前で、新調した着物、裂かれました。ビーーーッて。びっくりしました」

ちなみに、ア太郎に限らず孫世代が10代のころの着物やカツラはみんな、太夫元があつらえていたという。

「それから自分で着物もカツラもつくるようになって、こんなに大変なことだったんだ。太夫元、すごいなあって。あらためて思いました。だからいま貯金が大好きです。支払いは一括で、をモットーに、今月はこれだけのものを買うぞって決めて。分割で支払うのが嫌なんですよ。支払いを終えて、できあがってくるのだけを待ちたいから。太夫元もそういうタイプでした」

「あとね、カッコつけすぎるとおこられてましたね。舞踊で。そんな曲まだ早い。18歳になってからにしなさいって。ポップな曲とか、ノリノリの曲はいいんです。バラードとか踊るとおこられた。だって、オレ、11歳で『失恋』踊ってましたから(笑)。意味はわかってないですよ。テンポが好きなだけだから。子どものころは、太夫元が僕の舞踊の曲、決めてたんですよ、ずーっと。だから普段はそんな曲は踊れないので、太夫元が好太郎座長に付き添って座長大会に行ったときとかに、いまや!っていう感じで踊ってました」

一見劇団の昔のDVDに、まだ9歳の紅ア太郎の姿が残っている。芝居「石松 閻魔堂の最期」の冒頭、「寿司食いねえ」で有名な三十石船道中の場面で、船に乗り合わせた石松(一見好太郎)と丁々発止の会話を交わす江戸っ子の役を、小さなア太郎が演じている。

「あのときは、本番が1月7日だったんで、年末も遊ばず、ずっと稽古しました。好太郎座長に教えてもらって、それを聞いて。ひらがなで書いた台本、自分でつくりました。あれが、石松の芝居に初めて出たときです。あの役を子役がやったら面白いんじゃないかっていう、好太郎座長と若手リーダー(美苑隆太)の策略で。めっちゃあがってました。鮮明に覚えてます。いま考えたら、子どもがやってるから盛り上がってるんだなって思いますけど、あのときは、あ、オレ笑われてるって思って、一回台詞、飛びました。頭んなか真っ白になって。でも戻さなきゃって必死で。後半の閻魔堂の場面にも出させてもらって、口の中に入れた血糊がかめなくて、結局、もぐもぐしたまま、楽屋に入ったことも覚えてます。お客さんに、ガム噛んでたでしょ、って言われて、いや違いますって(笑)」

DVDのなかでは、舞踊ショーでも、個人舞踊をきっちりひとりで踊るのだが、子どもらしいつたなさがまるでない。子どもの皮をかぶった大人みたいで、そのこまっしゃくれた感じが可愛らしい。曲はなんと「酒ごよみ」。太夫元のアナウンスにのって、団扇片手に花道を駆けていく。顔の形がいまと違って丸顔なことを除けば、9歳にしてすでに、ア太郎はア太郎だった。

♪まずはひとくち、そしてふたくち、呑むほど夜がうれしくて〜。「酒ごよみ」が板についてるベビーア太郎。

 

初舞台は2歳のとき。

「覚えてないですけど、写真で見ました。篠原演芸場でまちこねえちゃん(叔母の瞳マチ子)が、猿軍団の猿みたいに僕に紐をつけて落ちないようにして、自分より大きいお面つけて。女の子みたいに、ふたつしばりの髪で。それからしばらくして、大人の事情でいっとき劇団を離れてた時期があって、戻ってきたのが6歳のとき。戻ってきた次の日に舞台に出ました。新潟の古町演芸場です」

舞台は好きだったという。

「憧れやったですね。好太郎座長とか古都乃座長観てて、うわ、かっこいいなって。出たかったです。何をするにも出たかった。トップのショーも、ラストショーも。でも、子どもだから出してもらえないでしょ、当然なんだけど。嘘ついて出たりしてました。これ、前に出たことあるんですとかって言って(笑)。芝居も観てました、ずーっと。ちっちゃいときから、観て覚えました」

「初めてちゃんとした芝居をしたのは、7歳のとき。太夫元がこれやろうっていった『子別れ笠』っていう芝居です。オレ、そのときどうしても鬼のおっきいお面がほしくて、好太郎座長がこの芝居やったら買ってあげるよ、って言ってくれて。マジ?って。お芝居するの初めてだったしこわかった。大丈夫かなって思ってたら、めちゃめちゃ失敗したんです。声もちっちゃかったし、ああもう、おこられるって。でも、終わってから、好太郎座長がよう頑張ったなって、お面を買ってくれたんですよ。みんなにも、おこられると思ったけど、ほめてくれて。それで火がついたっていうか。そのとき気がつきましたね。オレはほめられて伸びるタイプだなって(笑)」

ほめられて伸びてきました(!?)。今年(2023年)1月に上演した「夏祭浪花鑑」では、主人公団七九郎兵衛の義兄弟、一寸徳兵衛を演じた。団七役の一見好太郎、三婦役の古都乃竜也、両座長と。

「それが初めてのお芝居デビュー。あとはそこから、大門力也さんが長期間ゲストに来られてたときに、子役を使った芝居をたくさんつくってくださって、出る場が増えてきてめっちゃ指導してもらいました。オレ、大門兄さんにすごいなついてて、うちのメンバーの部屋じゃなくて、大門兄さんの部屋で化粧してましたもん。奥さんの良美さんに着付けとかもしてもらって。ずっとそばにいるせいか、似てきたねって。小力だとか小大門だとか言われてました(笑)」

「化粧とか、立ち位置とか、基本的なことを教えてもらったのは全部、古都乃座長です。役者の師匠はいないですけど、しいて言えば古都乃座長かもしれないですね。舞台のことに一番きびしかったですからね。台詞の言いまわしとか、悪かったら悪いよとか、子ども相手にも言ってくれましたから。小さいときはオレの化粧とかも、してくれてたんです。8歳のときに自分で化粧してみなさいって言われて、チャレンジですよね、8歳の子が化粧するって。好太郎座長はね、甘々でしたね(笑)。しかられた記憶がないですもん。あ、一回ある。11歳の誕生日公演で、『花の六兵衛』やりたいって自分から言って、前日稽古したときに、台詞をちゃんと覚えてなかったんですよ。その前から稽古してもらってたのに、舞台好きだったけど、そのころは遊びたいほうが勝っちゃって。それで、『自分がやりたいって言ったんだから、ちゃんとやりなさい』って。それくらいかな。好太郎座長はね、ずっと一緒にいて、お風呂とかも入れてもらって。なんなら小学校5、6年くらいまで、頭洗ってもらったりしてましたから。パパって呼んでました、座長なんだけど(笑)。好太郎座長は、芝居に熱いっていうか、仕事に熱い。なんでも全力。稽古も本番も。あと、人にやさしい。そういうとこ好きです」

好太郎座長との抱腹絶倒の相舞踊、平手酒造と妙心。バナナ片手に、愛くるしすぎる妙心を熱演。

早くに死別した役者だった父のことは、ほとんど覚えていないという。

「亡くなったのは、僕が5歳になるかならないかくらい。そのときはね、亡くなったっていう意味がよくわからなかった。しゃべった記憶はないですね。写真でしか知らない。あとは人から聞いたり。名前、いろいろ変わってるんですけど、聞いたことある名前は、紅蝶二さん。僕が舞台に出るようになったときには、もういなかったから、一回くらいは一緒に出てみたかったなっていうのはあります。いま、すごく会いたいです。めっちゃ考えます。舞台のこともそうだし、おこってくれる人がいないから。オレ、おこられないんですよ」

美苑隆太の熊太郎、紅ア太郎の弥五郎で上演した「河内十人斬り」。血糊多めが好み。
美苑隆太とはハリセンコントも。

舞台に向かう気持ちは、年齢を追うごとに変わっていったという。浅草木馬館で、「身長も役者としても、ひとまわり大きくなって戻ってきます」と元気よくはじけていたころ、実は役者をやめたくてしょうがなかったのだという。

「隠さないで言いますね。16、17歳のころは、舞台が楽しくなかったです。反抗期だったし。同じ時間に集まって、毎日同じことやって。オレが出て、お客さん喜んでんのかな? ってすごいマイナス思考でした。あと、これ(天狗になってたというしぐさ)でした。めっちゃ。いまはほんと、観に来ていただいてるっていう気持ちだし、太夫元が毎日、オレらに教えてくれてた、熱と力と感謝を持ってやりなさいっていう言葉は常にあるんですけど、その当時は、耳に入ってなかったです。観せてやってるくらいの気持ちでした。人として全然ダメやったですね。劇団の誰とも口きかなかった。しゃべりたくなかったし。銀乃嬢とか注意してくれてたけど、聞く耳持たなかったし。なんなら言い返してました。最悪でしたよ。だから、誰からも話しかけられもしなかった。そのころの話すると、あのときのお前はなに言ってもダメだったから黙ってた、だから口きかなかったってみんな言います」

そこから抜け出せたきっかっけは、お客さんの言葉だったという。

「全然知らないお客さんに、送り出しのときに、『ア太郎くん、芸が止まったね』って言われたんですよ。あん?って。僕、あん?って言いましたよ。でも、それ言われてから、オレ、間違えてんのかな?って。1カ月くらい考えました。そのお客さん、そこからしばらく来なかったと思います。2年くらい経って、また来てくれて『よくなったね』って言われました」

自分は間違っていたのかもしれないと思い出してから、自分に対する考え方を少しずつ変えていったという。

「自分はまだまだなんだな、って。それまでは完璧だと思ってましたからね。それと、人に気を配るっていうことを、するようにしました。そうしたらね、お客さんが増えました。ご贔屓さんも増えたし、メンバーとよくしゃべるようになりました。みんなとしゃべるようになったから、舞台をつくりやすくなりました。しゃべんないうちは、言いにくいとこあったし。一緒につくってくなら、みんなとしゃべらなきゃなって。オレ、偉そうでしたね。ダメだったなあって」

「オレ、偉そうでした」

そんな17歳のころ、劇団をやめようと逃走を試みたこともある。未遂に終わった、いまとなっては、どこか情けなくてほほえましい逃走計画も、結果的には役者を続けていこうと思うきっかけになった。

「いわゆるドロンですよ。朝、ドロンしたんです。結局、見つかって、開演に間に合っちゃって。その日の芝居に出てました。神栖のセンターにいたときですね。書き置きしました。やめますって。オレ、字汚いんで、三回くらい書き直しました。ラブレターみたいに。当時、好太郎座長と相部屋で、オレが起きたら気づくような時間だったんですけど、一回のぞいたら、気持ちよさそうに寝てたので、そっーと抜け出して。書き置き、見つけてくれたのは銀乃嬢です。よくオレが寝坊してたから、時々、見に来てくれてたんですよね。60パー(%)はやめたかったけど、40パーは見つけてくれないかなって、どっかで思ってました。それを太夫元が見て、朝、出てから40分後くらいには、見つけられてましたから。リュック背負ってふらふらって歩いてたら、のんちゃんの車で太夫元が来て、車に乗りなさいって言われて、2秒で乗りました。はい、って。太夫元が『何がイヤなんや?』って言うから、こうでこうでって。単純に楽しくないって言ったら。そうか、そうかって。でもお前、これしかないやろ。ほかの仕事しようと思ったって。ちゃんと冷静に考えろって言われました。この仕事、好きなんやろって。車で大泣きしました。太夫元も泣いてましたからね。その日、結局、なにごともなかったように舞台に出てました。元気でしたよ、いつも以上に。すっきりしたんですよね。それまで言えなかったから。で、やっぱりこの仕事が好きだなって思ったし。それ以降は、やめたいと思ったことも、ほかの仕事したいと思ったこともないです。一回もないです。たまに休みがほしいと思いますけど」

「正直、太夫元が言ってた、熱と力と感謝を持ちなさいっていうのは、気づきだしたのは18歳くらいで、それまでわかってなかったです。入場料払って観にきてくれてるだけじゃないんだなって。新幹線乗ったり、バスや電車に乗って来てくれてるわけで、それまでのお金や時間もあるわけで。それで入場料払ってくれて、3時間や3時間半の時間を言ってみれば僕らにくれてるわけだから。お客さんの前で、しんどい顔したらダメだなって。いまはね、こっちが全力がやってて、ほんとにお客さんに伝わったときに、おもしろいなあって。伝わってるんだなって思います。おもしろいし嬉しい。10人いて、10人に拍手してもらえるのは無理だし、100人、200人になったらごくわずかだと思うんですけど、伝わってるって思える瞬間があるんです」

いま、やってみたい芝居、好きな芝居について聞いてみると。

「劇団でもまだやってないですけど、天草四郎はやってみたい。憧れはあります。ただね、ちょっと背がちっちゃいからねー。タッパがあったほうがかっこいいでしょ。オレがやると幼少期になっちゃうから(笑)。あとはね、なんの芝居っていうことはないですけど、敵役とか悪役が好きですね。普段の自分と正反対なんで。敵役をやるときに、お客さんがコイツやなヤツ、っていう顔して観てるとき、わ、やったって思う。いい役って、いいことしか言わないから、お客さんも普通に観てるでしょ。敵役は、お客さんの表情でわかるから、楽しい。悪役のときは、絶対、ふざけないですよ。あとで舞踊があるから、そのギャップも楽しいんですよね」という。

舞台のことでほめてくれることはなかったというう紅葉子だが、子どものころから役者が好きでやってきたア太郎の、だからこそ揺れ動く胸のうちを、よくわかっていたのかもしれない。いや、誰よりわかろうとしていたのだろう。19歳の誕生日公演で、役者仲間の友人やたくさんのお客さんに祝われて、終演後の口上挨拶でつい涙ぐんだア太郎に向かって、陰マイクから太夫元が「役者になってよかったな、ア太郎」と声をかけたことがあった。そのひとことには、太夫元にとっても万感の思いが込められていたに違いない。

そんな太夫元との最後の思い出は、どこかスピリチュアルな気配に縁取られている。

「太夫元が亡くなる前の月、新潟のホテル飛鳥さんで、初日が開く前。休みの日で、みんなで朝ごはん食べに行くことになって、僕は遅れて行ったんですよ。一番端の席があいてたから座ったんですけど、そのときに太夫元が『ア太郎、悪いけど今日は隣に座ってご飯食べてくれるか』って。それが最後に食べたご飯です。反抗したりしてた時期も正直あって、しゃべんない期間があったりしたから。それは思い出だなって思いますね。なんだったんだろう。すごい不思議」

反抗期の思い出が最後では、悔いが残ってかわいそうだと上書きしてくれた、太夫元からかわいい孫への贈り物だったのかもしれない。毎日楽屋にいた太夫元が、突然のようにいなくなった。「うまく言えないけど、空気が変わった」という。そして太夫元が亡くなったことは、なるべく思い出さないようにしていると言った。

「いや、思い出しますよ、もちろん。でも、そういうときは、あ、出かけてるんだな、って思ってます。パチンコ行って、飯のころになったら帰ってくるんやなって」

書き置きを発見してくれた、七つ年上の姉・紅銀乃嬢と。

このインタビューをしてから、ちょうど一年ほどが経つ。紅ア太郎は、きっといまでも、そしてこれからも、ちょっとどこかに出かけている太夫元のことを思いながら、毎日の舞台をつとめていくだろう。少しずつ変わっていく劇団の、変わらない思い出として、紅葉子太夫元は劇団のひとりひとりのなかに生きている。「熱と力で」と言い続けたその言葉は、まさに紅葉子の人生そのものであるように思う。

(2022年3月8日 川越湯遊ランド)

取材・文 佐野由佳

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