紅葉子は劇団で生まれた孫たちを、分け隔てなく、親になりかわってわが子同然に育てたという。瞳マチ子の4人の子ども、一見劇団の若手リーダー美園隆太、花形紅金之助、劇団の食事から着物の着付けなど裏の仕事を仕切るふたりの娘も、そうやって「母に育ててもらいました」という。
「特に金之助は、おかあさんが孫のなかでもかわいがってたから。金之助、金之助って。金之助が泣いてたら、誰がやった!? って始まって、親が叱ったからだとしても、包丁持って叱ったわたしを追いかけてくる。そういうことするから、金之助が言うこときかんのよって言っても、『きかんでもどうでもいいわ、お前が育てとるんやないやろー!』って」
紅金之助だけではない。生まれたときから劇団で育った孫、ひ孫たちは、紅葉子が全員、めんどうを見た。同じ部屋で枕を並べ、親に代わって育ててきた。どの子にも分け隔てなく、何かを買ってやるなら全員に。みんなに買えないときは、ひとりにも買わない。その精神は、子どもに相対するときだけでなく、劇団全体に対して行き渡っていたという。
20代のころから、一見劇団に特別ゲストとして、永年出演してきた二代目梅乃井秀男は、紅葉子を孫たちと同じように「ちゃーちゃん」と呼んで慕ってきた。
「よく冗談で、『あんたはうちがよそで産んだ子や』って言ってくれました。みんな歳が近いんで。いっこ下が好太郎座長、その下が古都乃座長、僕は太紅友希さんと同い年なんです。ちゃーちゃんからしたら、みんな自分の子どもやって。ちゃーちゃんは、他人の子、自分の子っていうのはなくて、僕がいろいろあったときも親身になって相談にのってくれて、心配もしてくれて。そんな人、いまいないですよね。夜、遊びに出かけると、何ふらふらしてんだって注意されたりしましたよ(笑)。食べるのも、寝るところもみんなと一緒。ご飯も楽屋のなかで、みんなで食べてましたし、『今日はいらないです』って言うと、『なんでやねん、食べていきやー』って。ヘンな話ですけど、出前を取るにしても、値段の高いものでも、自分だけとか、孫たちだけで食べるとかじゃなくて、裏方から何から全員分取ってくれる。ステーキ食べたいって誰かが言ったら、全員ステーキ。お好み焼き屋さん行くで、焼肉屋さん行くで、ってなったらみんなを連れて行く。かっこいいですよね」
去年の8月、つくばユーワールドで会ったのが最後になったという。
「せがれを連れて遊びに行って。そのときも、みんなで焼肉屋さんに連れてってもらったんです。だから10月に亡くなったときに篠原会長から連絡もらってびっくりして、たっちゃん(古都乃竜也座長)にあわててLINEしました。僕がこのところ、あんまり一見劇団さんに行かないから、そろそろ来いって大がかりな芝居打ってるんじゃないかって思ったくらい。まさか亡くなるとは思ってなかったから」
そんな梅乃井秀男いわく、紅葉子亡きあと「一番変わったのは、まっちゃん(瞳マチ子)が舞台によく出るようになったことじゃないですか。きれいなんですから、出なきゃ損ですよってよく言ってたんですけど、『いや、うちは孫のお守りしてるだけだから」って。うまいし、昔から、ほんとまっちゃんきれいやったから』という。
当の瞳マチ子は、芝居は好きだが、もっと芝居に出たいという気持ちは「ないですねえ」という。
「結婚して旦那さんが座長やり始めてから、舞台にはほとんど出てなかったし。好太郎座長の代になってから、舞台やめたんですよ。関東に来てからは少し出てましたけど、のらりくらり出たりやめたりしてるのはよくないと思って、自分のものを処分したの。衣装はみんなに使ってもらったり、カツラは張り替えて合わせ直しして、隆太に全部あげました。化粧品は窓からブン投げた。忘れもしない、茨城県の神栖(かみす)で」
舞台を降りてから、生きる気力を失っていた時期が永くあったという。そんな日々に希望ができたのは、孫の誕生だった。長男美苑隆太に娘が生まれたのだ。ただいま6歳、劇団のひとつぶ種として、お客さんからもかわいがられている。
「孫ができるまでは、本当にどうしようかと下向きに生きてました。孫ができてから、そうだ、この子を1年でも多く見ていたいと思うようになりました。無理かもしれないけど、この子が18、いや20歳になるまで生きていたいとかね。ちょうどひなかが生まれた年に、悪かった腎臓の数値がさらに悪くなって、透析しなきゃだめだよって病院から言われたんです。その当時から、透析せずに5年もってるんですよ。じゃあ、あと3年もつんじゃないか。そういう欲を出しちゃうんですね。でも、そういう欲はいいと思うんですよ。いま、この子はずっと私と一緒に寝てるでしょう。この子も親が離婚して母親がいませんから、病気させたら申し訳ない。予防接種なんかは、母子手帳に貼ってあるやつは気をつけて、わたしが全部させるようにしています」
曽祖母にあたる紅葉子のことを、ベビーひなかは「おかあちゃん」と呼んだ。紅葉子は孫と同じように、亡くなる直前まで自分の手元に置いてめんどうをみたという。
「母が亡くなったことは、子どもながらにわかってるんですよ。『おかあちゃん、ウソついたよね。具合悪いから1日お泊まりして帰ってくるって言ったのに、何も言わないおかあちゃんが帰ってきちゃった』って。そう言われたときに、ドキッとしました。お葬式のときにじっとお経を聞いてましたけど、最後のお別れのときに大泣きしてましたよ」
いまや、一見劇団唯一の子役として、ベビーひなかは舞台でも活躍する。
「わたしのことは、『ばあば』って呼ぶんですけど、わたしがちょっと舞台のことに口だしたりするでしょ、そうすると『ばあば、舞台に出てもいないのにうるさいこと言わないで』って。日頃、舞台に出てる人の言うことはきくんですよ。わたしが出てるとこ見てないからね。あ、そっかって思って『明日、舞台に出るからね』って言っても、全然見にこない(笑)。おばあさんの化粧して楽屋に戻ってきたら『ばあば、今日、出てたの? 台詞、ちゃんとしゃべれた?』って逆に心配されちゃって」
自分が子役のころと違って、のびのびしている孫は幸せだと思うのだそうだ。
「わがままに育ってるっていうか。マイペースっていうか。舞台のうえで曲なんか流れて台詞しゃべってると、自分で入り込んで、自分で泣いてきますからね。わたしなんて、台詞言ってて泣かなきゃならないとこで泣けないと、父親がつねって泣かすっていう感じでしたから。この子に舞台のことを教えてやるときは、みんなで教えるんですよ。銀之嬢が教えてくれる、ア太郎が教えてくれる。この子を最初に芝居で使ってくれたのは、古都乃座長だったの。3歳なる前にやった『幡随院長兵衛』の長松の役。他の劇団さんからも、よく頑張ったねって言ってもらって。古都乃座長は、ひなかが台詞をちゃんと覚えるまで何回でも稽古してくれる。とことんまで付き合ってくれるんですよ。本人の頭の中では、1、2、3、4、5、6って1から順に覚えてるらしい。初め喋るときは1とか2とか、頭のなかで、これは3番目、4番目って。この頃字が書けるようになったから、書くようにもなったけど。最近は、ひとりでお芝居やって遊んだりして、おもしろいんですよ」
のびのび育っているのは、母・紅葉子のおかげだという。
「劇団のなかで育つ子は、大人の顔色を見る子が多いですよね。あの人の顔色、この人の顔色って。身内だとしても、いじめられる子もいる。でもそれがないんですよ、うちは。それは、おかあさんが厳しかったから。子どもに顔色だけは見させてくれるなって。子どもをいじめたりしたら、いじめた人がおかあさんに殺される(笑)。みんなそうやって守られて、大きくしてもらったから」
もの言えぬ子どもを脅かすものからは、何がなんでも守ってやらなければならないーーたとえその相手が親だったとしても。家長として太夫元としてというよりも、母性を持った人間として。紅葉子にとって劇団は、自分の体内に近いものだったのかもしれない。
いつかは母のような人間になりたいが、それはできないと、母のやっていた役をやりながら舞台のうえで迷うこともあると瞳マチ子はいう。
「お母さんはあれだけの人だったから許されたことも、私はどこまでやっていいんだろうかと。お客さんに対してね、そういう気持ちは持ってます。たとえばお母さんが最後に、舞台を降りて楽屋に入ってくるときに『終わり』って入る芝居があるんですよね。私が母と同じように『終わり』なんか言うと、馬鹿にしてんのかって思う人もいるでしょう。いくらおかあさんがやってた役だからって、そこまで真似してしまうと。母は劇場のなかでも客席でも冗談言って、元気いっぱいな人だったから許されても、私はどこまでやればいいんだろう。どこまでが自分なんだろう。どこからお母さんを超えちゃいけないんだろうって思います」
孫の成長を楽しみに、舞台に欲はないという瞳マチ子だが、裏を返せば迷うほどの意欲があるということではないだろうか。劇団の最近のヒット演目「浪人街」ならぬ「老人街」のなかの、荒牧源内の女・お新の役を、いつかやって欲しいと伝えると「わたしに来るかと思って、待ってたんだけどね」と腕組みをした。やる気まんまんと、お見受けした。
(2022年2月14日 立川けやき座・3月12日 川越湯遊ランド)
取材・文 佐野由佳