花道に入るとき、バシッとポーズを決めて決め台詞を言う。芝居のなかでもポイントとなる見せ場だが、鵣汀の身のこなしの美しさに目を奪われたことが何度もあった。身体の動きそのものに気持ちがあふれていて、台詞以上に身体がものを言っている充実感に満たされる。心に届くかどうかは台詞の良しあしだけではないということを、鵣汀を観ていると思う。
『片腕やくざ』で刀を右手でつかみ、下げ緒を口でくわえてビッと決まってから刀を舞台の方へ向け、鞘をスーッと向こうへ抜く。右手で刀をつかんでいるから、鞘を抜くのに手は使えない。勢いだけで鞘が抜け落ちていく。その落ちていくさまが伊太郎のこれからを暗示しているようだった。鞘トレではないが、鞘を抜く稽古を何度もするのかとアホな質問をすると、「やってないです」ときっぱり。
「あれは、親父のままですね。親父がああしてたんです。スーッと抜くのは僕の考案ですけど。よくよく聞くと、亡くなった二代目小泉のぼる先生もそうしてはったそうです」
合羽を両手でかき寄せることができないから、勢いをつけて体をひねって、その勢いで合羽を体に巻き付ける。その勢いに、風吹の寒さが見えるようだった。一連の所作が美しい。
「でもね、求めているのは、あの芝居ではきれいさではないんです。実(じつ)さなんで。もう少し重いというか、きれいさは邪魔するんですよね、役の。普通に暮らしてて事故かなんかで片腕がないんならかっこつけてるだけでもいいんですけど、島に送られてるんで、そこの泥臭さがあるんですよね。人間をさげずんで見てるっていうか」
「陰惨さが出ないとダメなんです、動きにも。どういう人生かで歩き方も変わらないといけない。声色はめちゃくちゃ気にしますけどね。喉がつぶれるんでも、酒でなのか煙草でなのかでちゃいますし、罪人として島にいたら食べもんも悪いですし、それで喉のつぶれ方も全然違いますから。まだまだやなって思いながら自分でもやってますけど」
勘三郎の歌舞伎座最後の舞台は『鈴ヶ森』だった。何年かにわたって仲たがいをしていたという吉右衛門との久しぶりの共演。勘三郎が白井権八、吉右衛門が幡随院長兵衛。初日、幕が下りるとすぐ、吉右衛門から勘三郎に歩み寄り、握手を交わしたという。勘三郎がやっと古典に戻ってきてくれたと、歌舞伎ファンの間でも話題になった。
「戻らざるをえなかったんですよね、先生は。おかしなもんで、新しいことむちゃくちゃしたけど、自分が会得することって少なかったんですよね。あわてたんだと思うんですよ。先生のなかで、自分の寿命もわかってはったんやと思うんです」
野田秀樹や串田和美、宮藤官九郎など、そうそうたる劇作家、演出家と組んで、新しい歌舞伎をつくり続けていた勘三郎のことを、得るものが実は少なかったはずと、なにげに言う。アイドルとして好きなわけではない。芸の師匠と思えばこその冷静な分析。
「僕らもそうですよ。新しい事したいと思って、いろんなことしますし、あーだこーだってなるんですけど、結果、何かっていうと元のさやに戻るんですよ。いま、大衆演劇って芝居の時代じゃないみたいなことになってますけど、派手なことを、たとえば男前の男優陣が何人かおって、揃いの着物に揃いのかつらで、特殊効果があってというのが華やかとされてますけど、結果、みんなどうなるかっていったら、売れてるときはそれをするんですよ。でもね、長続きするわけないじゃないですか。それが終わっていったあとどうなるかっていうと、元に戻るんですよ。昔やってた芝居をやったりとか、古いものの勉強が始まるんですよ。それならば、最初っからそっちをやっときゃいいじゃないかってことになるんですよね」
剣戟はる駒座は半月分の外題をバーンとSNSでアップする。
「外題を全部決めてから乗り込むのは劇場さんに対しての敬意ですよね。これだけのことを考えて、当劇場、当センターにうちは挑んでいます。中途半端なことをする気はありません。ちゃんとお仕事させてもらいますっていうお約束ですよね。お客さんに対してもですけど」
三吉演芸場(2023年11、12月)には、今回どういう芝居を選んだのか。
「横浜というか、関東はお芝居を客観的に観る方々が多いので、ザ・演劇というものを持ってきました。箸休めとしての喜劇も入れて。去年は13年ぶりの三吉でしたから、題名だけでわかるものを多めにしましたけど、長い目で見て、次にのるときに、違うジャンルのものを持ってこられたらいいかな、と」
客の入りがよかろうと悪かろうと、いったん決めた外題は変えない。
「自分で出したものに自信をもって出せへんかったら役者やってる意味がないですもん。成功するも成功せぇへんも自分の問題ですけど、間違いじゃないと思って出さへんかったらなんの意味もないじゃないですか。せやったら、ごはん屋さんもそうですけど、やめてしまえって話です。うちのメニューは謎ですって言うてる飯屋さんなんてないじゃないですか」
エキサイト気味に語りまくる座長に静かに感動していた。誰が主演なのか、どういう芝居なのか、はる駒座では口上や前説で必ず説明をする。それは、こういう心意気があってのことだったのだ。いろいろ予定をやりくりして劇場に駆け付けたものの、お目当てではない役者が主演とわかってがっかりしたことも二度、三度。大衆演劇ってそういうものなのかなとあきらめていたので、目が覚める思いがした。
「月末に朝の4時とか5時まで、あぁでもないこうでもないって思いながら、前回やってないもんは何かなとか、ひとりで考えます。だから、1年に1回帰るところってものすごい困るんですよ。そんなにパラッパラ新しいもんできてこないし、リメイクしたりいろいろするんですけど」
いい芝居は何度でも観たい。そんなに新しい外題にはこだわらない気もするのだが。
「こっちは新しいものを、と思いますね。勝負をかけたいというか。たとえば、去年は20代、30代の方に集まってもらいました。今年は40代、50代の人に来てもらいます。次、じゃあどうするかって言ったら、家族ぐるみで来てくれる人たちが来やすい演目にしよう、みたいな。っていう考え方ではおるんですけど。まあ、やっぱりそれがうまくいくときと、いかないときがあるけども、自分が自信をもって、『これでいきます!』って出しきらへんかったら、観にきたほうは、?ってなるし」
うまいとか下手という以前に、鵣汀という役者が人として強いから、舞台から響いてくるものが強いということがよくわかる。いい食材はあれこれしないで塩で食べるのがベストだが、いい役者も同じこと。そこにいるだけでいい。何をやってもいい。外題を出す出さないという次元はとっくに超えている。
第7回につづく!
(2023年11月28日、12月7日)
取材・文 カルダモン康子