2020年、津川祀武憙が25歳のとき、父・津川竜は亡くなった。50歳の若さだった。がんが見つかり、4年間の闘病を経ての旅立ちだったという。病気が発覚してからの時間、亡くなってからの歳月、外の人間には想像も及ばないいろいろがあっただろうけれど、津川祀武憙は、ほかの質問に答えるのと変わらない声のトーンで、父親との別れについて話した。そのことが、津川祀武憙の心の強さであり、父と生きた時間の確かさを物語っているようにも感じられた。
「5年近く、闘病期間がありましたから。もちろん病気を告げられたときのことも鮮明に覚えてますし、その間のこともありますけど。もっとめっちゃ永く感じたんですよね、僕らは。この間もおかんと言ったんですけど。もっともっと永かったような気がします。親父としても、たぶん永く戦った感じはあるやろうなと思うんです。それだけに、交通事故みたいに突然亡くなられた方に比べれば、幸せやと思うんですよ。何も託せなかったわけじゃない。仕事であれば、荷物を積むトラックの手配とか、音響とか、会計とか、親父がやってた実務的な仕事の8割はいま僕がやってます。1カ月の演目を決めるプログラムとか、冠婚葬祭とか表のつきあいは兄貴がやってますね」
ちなみに、剣戟はる駒座は1カ月の公演のプログラムを、月の初めにほぼすべて決めて公表する。父・津川竜が座長だった時代からのやり方なのだという。それはなぜなのかと聞いてみると、
「兄貴に聞いたわけではないから、たぶんなんですけど、僕もそうですけど、父親はめちゃくちゃ段取りの人だったんですよ。行き当たりばったりは嫌い。絶対に説明書は読むタイプ、みたいな。旗揚げしたころは人数が少なかったんで、より緻密に段取りを組まないと、コケるわけにはいかないじゃないですか。そのためには演目を早めに決めて、早めに段取りして、そこにみんなで向かって行くっていう。おそらく、そのころからの習慣なんやと思います」
いま、演目はほぼ兄が決めるが、「ここぞという演目をやるときは相談してくれます」という。
「そうやって親父がやってたことを、兄弟で分担することもできたんで。それも、親父が生きてるうちに引き継ぎができたので、わからんかったら、これどうやったっけ? って聞けたことはありがたかったです。亡くなった次の月から、どないしよ、っていうのはなかったんですよ。不幸比べすればきりがないんですけど、幸せなほうやと思うんですよね。役者は親の死に目に会えないって、ほんまに昔から言われてきたんですけど、会えましたし。ぜんぜん、幸せなほうやと思うんです」
言い聞かせるみたいに、何度も、幸せなほうやと言った。
「病気が見つかったのは、親父が外部公演に出てるときに病院行ったのがきっかけです。なんかあったんでしょ、体の不具合とか。それで親父がひとりで病院に行ってわかって、おかんが電話受けて。岐阜の葵劇場にいたときですよ。僕、舞台袖におって、おかあさんの顔が半泣きで、ぱっとこっち来たんで、尋常じゃないなと思って。どないしたん、っていったら、パパ、がんやっていわれて。え? ってなったんですけど、舞踊ショーの最中やったんで、舞台出てくるわっていって。女形でした。副座長になって、まだそんなに経ってないころで、めっちゃ覚えてます。それであらためて家族で話して。しっかり調べなあかんし、お医者さんとも治療のこと、どういうスケジュールでみたいな話もして。まあでも、そうですね。急に倒れて、急に亡くなる役者さんも大勢いはるから。それに比べたら、言いたいこと言えただろうし、親父も」
闘病の間も、つらい病気だということを津川竜は周囲に一切話さなかったと聞く。
「それはねえ、親父の美学やと思います。僕は、それめっちゃわかるんです。僕も怪我とかしても、言わないです。いやもちろん、たとえば腕の骨を折って舞台を休まなあかんような状況やったら、お客さんに説明せなあかんから言いますけどね。前にぎっくり腰になったときも、翌日が自分の祭で、一瞬心が弱ってしまって中止しようかと思ったんですけど、いや、やらなあかんと思ってなんにも言わずにやりました。で、その五日後に久留米で九州の大会があったんですよ。それにも何も言わずに出ました。コルセットしてるし、柔軟体操を異常なほどめっちゃしてたんで、楽屋でまわりにいた人は、どないしたん? って聞いてきましたけど、ぎっくり腰なんですよ、っていったら人の口にものるし。だからその場では言わずに、あとで言うんです。あのときぎっくり腰だったんですよって。それはいいんですよ、笑い話にできるから。口上のネタにもできるし。お医者さんに行った話とかも、ぜんぜんいいと思うんですよ。でも、リアルタイムで、舞台を休まへん怪我のことを、面白くもなんともなくSNSでつぶやくのはなにがしたいんかって思うんですよ。全部、怪我のせいにされるじゃないですか。今日、パフォーマンス悪かったのは怪我したからやって。いやいや、それは僕のパフォーマンスが悪かっただけで、怪我は関係ない。それは嫌やから、お客さんに言わないようにしてるんですよ。もちろん、人には別にそこまで押し付けないです。兄貴はすぐ言うので。もうすぐ言います。かまってちゃんだから(笑)。僕も痛がりなんでね、痛みに弱いは弱いんですけど。言うのは言えないんですよ、負けた気がして」
津川竜の舞台を、われわれ大衆演劇ナビは残念ながら観ていない。しかしその名前は、思いがけないところで何度となく耳にしてきた。恋川純弥が、2021年の小誌インタビューのなかで(こちらから読めます)、旗揚げ前の津川竜たちが、初代恋川純が座長時代の桐龍座恋川劇団に、短い期間だが在籍したころの思い出を語っている。当時まだ15、16歳だった恋川純弥は、「お兄ちゃん」と慕った津川竜の舞台を観て、芝居が好きになったという。「いつか津川さんがやっている役をやってみたいと思ってましたね。だから、津川さんがやっていた役の台詞は、誰にも聞かずに全部覚えてました」と話した。さらに津川竜から、台詞は書いて覚えるな、録音もするな、一回で聞いて覚えたほうが絶対にたしかだからと言われたという。「津川さんは録らない。一発で聞いて覚えるんです。当然、自分の台詞だけではなく、全体の流れと台詞のなかの名前、地名とかそういうものも一発で覚えて次の日できる。初めて聞いたものでも」。努力の天才恋川純弥が、若き日の津川竜に抱いた敬愛の念は、おそらく役者恋川純弥をつくりあげる細胞のひとつになったはずだ。そして、のちに大衆演劇界屈指の座長になった恋川純弥に憧れて「座長になりたい」と言ったのは、のちに津川竜の息子として誕生した津川鵣汀である。わずか4歳のそんな鵣汀のひとことが、津川竜が劇団の旗揚げを決意する背中を押したというエピソードは(津川鵣汀インタビュー第2回 こちらから読めます)、どこか不思議な巡り合わせのように思える。
そしてもうひとり、10代の津川竜との印象的な思い出を語ったのは近江飛龍である。父・近江二郎が亡くなって、右も左もわからずに、母・近江竜子のもとで役者修行が始まった12歳の近江飛龍は、劇団にやってきた4つ年上の「コウジ兄ちゃん」こと、のちの津川竜との思い出を、津川竜の葬儀の当日、遠く離れた三吉演芸場の舞台の上で観客に話してくれた(近江飛龍「口上」として掲載 こちらから読めます)。
16歳の「コウジ兄ちゃん」が、何軒も掛け持ちでお客さんと待ち合わせる喫茶店で、そのたびお腹ペコペコのふりをしてオムライスを食べる話は、どこか切ない。津川竜という役者の芯の強さと律儀さをよく表している。若干16歳にして、ストイックな苦労人としての輪郭が見え隠れする。
そしてほどなく、津川竜は生涯の師匠・二代目小泉のぼるに出会い、生涯の伴侶となる晃大洋と出会うのである。津川竜が亡くなってから四十九日が過ぎ、晃大洋が更新した「総座長 津川竜逝去のご報告」と題した劇団のブログに下記の一文がある。
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……
実は彼は16歳初めて出会った時いつも拗ねてました 人も心から信じられず
内向的で陰気な人でしたでも・・・・舞台に立ち皆さんのおかげで変わりました
いつの間にか優しく笑う 津川竜になっていました
なんでも一生懸命な人でした
すぐ怒り すぐ機嫌が治り すぐ笑い すごく感動してました 生き生きしてました
……
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生の舞台を見ることはかなわなかったが、いろんな場所で津川竜の思い出は語られる。それだけたくさんの役者の、観客の、記憶のなかに津川竜は生きている。
晃大洋が「みなさんのおかげで変わりました」と書いた、それと同じだけ、津川竜はたくさんの人の心をはげまし、変えていった役者でもあったのだろう。そしてその魂のようなものを、剣戟はる駒座の舞台を通して、津川鵣汀・津川祀武憙という兄弟役者を通して、われわれはいま観ることができる。
いつだったか、兄・津川鵣汀が、僕の世代が親父である座長から、昭和のやり方で厳しく鍛えられた最後の世代ですからと、ぽろりと言ったことがある。わずか二つ違いの弟・祀武憙でさえもはや、そんな厳しい父親を知らないというのだ。それは世代の違いでもあり、座長になるために帝王学を授けなければならなかった長男と、生まれながらにそこから解放されている次男との、接し方の違いでもあったかもしれないとも思う。あくまで想像だが、厳しく躾なければと常に心を鬼にして向き合った長男だけでなく、全く違うタイプの次男がいたことは、津川竜にとってひそかな救いではなかったか。津川祀武憙のいつも変わらない笑顔の向こうには、苦労も多かっただろう津川竜の人生のなかで、劇団という家庭を持ち、厳しさのなかにも安らぎを得た、人としての穏やかな時間を見るような思いがする。
第4回へ続く!
(2023年11月26日 三吉演芸場にて)
取材・文 佐野由佳