第4回 油と団七

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2022年10月21日、津川祀武憙は自らの座長就任3周年記念公演を、父・津川竜の三回忌に合わせて上演した。芝居の演目は「夏祭浪花鑑」。役どころはもちろん、主人公の団七九郎兵衛。そしてこのインタビューの翌月2023年12月にも、「祀武憙祭」で「夏祭浪花鑑」を上演することが決まっていた。大阪住吉の、むせ返るような夏祭の日に起こる惨劇が見せ場の、歌舞伎でおなじみの演目である。上演の日が近づくと、口上挨拶で、真冬にやる「夏祭浪花鑑」について、「この季節に暑さ(熱さ?)を感じてください」と演目にかける思いを語った。

芝居と舞踊ショーの合間の口上で、津川祀武憙はよく芝居の解説をする。その日上演した芝居について、その背景や登場人物について。あるいは数日後に予定している芝居の見どころを、予告編のように語ってきかせる。

芝居のこしらえのまま口上挨拶。物語の背景や時代背景、ときには用語解説などもはさみながら、かつて同じ演目をやったときの思い出も盛り込んで充実のトークタイム

12月のその週末は、翌日には、兄・津川鵣汀の主演で「女殺油地獄〜餓鬼を宿した男〜」をロング公演で上演することになっており、大きな演目が立て続けの二日間なのだった。「女殺油地獄」も歌舞伎でおなじみの演目だが、剣戟はる駒座が上演するのは、関西の興行を仲介する山根演芸社の山根大社長が脚本をアレンジした、いわばオリジナル版。津川祀武憙は、主人公与平衛に殺される人妻お吉を演じる。

人妻の色気と母性が入り混じったお吉の、意識と無意識が悲劇の引き金を引く。

そしてこの演目もまた、2023年10月21日に津川竜の追善特別公演として上演したものだった。自身のインスタグラムで津川祀武憙は「女殺油地獄〜餓鬼を宿した男〜」のお吉を演じることについて、「恐らく、人生史上一番大変な役。笑笑。頑張ろ、やったろ」と綴った。

娘(右)、息子とも共演。

「夏祭浪花鑑」にしろ「女殺油地獄」にしろ、いずれも山根社長に、三吉に行く前に「油と団七は横浜でもやるべき」と言われてきた演目なのだという。

「ほんまはね、『夏祭…』先月もやってるんで、え!と思ったんですけど。あれ、めっちゃ人数がいるんですよ。しかも、団七の髪型は、結いたてで、剃りたてって決まってるし、仕掛けでぴゅっと髷を解くので、わざわざカツラ取り寄せて、しかも昼夜分用意せなあかんので。ヘンな話、予算もめっちゃかかるんです(笑)。だからそんなしょっちゅうしないようにしてるんですけど、それでも、三吉で油と団七はやれ!っていうのは山根さんの親心だと思うので、そうか、ほなやろかと思って」

「女殺油地獄」の脚本アレンジを手がけた山根演芸社の山根大社長。劇中、原作者である近松門左衛門に扮して登場する。

剣戟はる駒座にとって、山根演芸社とは先代社長のころからのつきあいになる。津川祀武憙は、父・津川竜から、劇団を旗揚げしたころ世話になった先代の話を聞かされて育ったという。

痴情のもつれの果ての刃傷沙汰ではないのだが……。人間の不条理が炸裂する、クライマックスへの助走となる場面。

「うちの劇団、最初は関東で旗揚げしたらしいんですよ。旗揚げしてすぐ、青森とか行って、それは僕は覚えてないですけど。半年くらい関東まわってから関西に戻ってきたんです。劇団旗揚げしてそんなに経ってないころ、うちほんまに人気なかったんですけど。いや、ほんまに。関西に戻ってきて、山根のお父さんにお世話になることになって、そのときに、いきなり新開地劇場にのせられたらしいんですよ。4人よりちょっと増えたくらいのころですかね。それはもう、当時、新開地にのってるほかの劇団に比べたら、比べもんにならないくらいに、人数少ないし、知名度もないし、親父の座長歴も薄いし、みたいなときにのしてもらって。そこから休みがほぼなかったらしいんですよ。親父いわく、そんな人気もないし、人数もいなかったけど、山根さんが休むなっていって、どんなところでも打たしてくれたと。それがどれほどありがたかったか。そこがなかったら、いまはない。だから代は替わっても、その恩は忘れるなとずっと言われてきました。向こうから、もうおつきあいやめます、って言われる以外は、お前らから縁を切るようなことは絶対したらあかん、というのが父からの遺言にも近い教えです」という。

油屋の土間で揉み合う場面では、本物の油に見えるように粘度の高い透明な液体を使用。「この日は油まみれなので、送り出しはありません」とあらかじめアナウンス。

親子4人で始めた劇団の、旗揚げからの大変な時期に力を貸してくれた恩義を終生忘れなかった津川竜の、義理堅さがしのばれる。それは同時に、周りの人間が親身になって応援したいと思わせる、役者として人としての魅力が津川竜にあったればこそだろう。

「そうですね、うちの親父の人間性もあったと思いますね。劇場さんとの間にどうしても納得できないことがあったりすると、休まされてもいいからのれへんみたいな、一本気なところがありました。ほんまに、いまやったら考えられへん。その劇団のキャパで、そんなこと言うか? みたいなことですよ。親父はほんまに、意地と張りで生きてきた人やから。劇団立ち上げたのも、27歳のときで、いまでも27歳で座長って遅いですよ。僕でも24歳で座長になったとき、ちょっと遅めやね、って言われました。いまは平均二十歳くらいでしょう。昔はもっと15、16歳で座長当たり前やから。その時代で27で座長なんて、遅いも遅い。それは兄貴が二十歳になったら座長っていうことが決まってましたし、兄貴が自分で言ってたし、親父との約束やったから。そのための旗揚げでもあったからやと思います。もしそうでなかったら、親父は小泉さんとこ(嵐劇団 現・たつみ演劇BOX)にそのままいたかもしらんし、わからないですけどね。そのあたりのことは、僕も生まれるか生まれないかのころのことなので、覚えてないですけど」

「兄貴が二十歳になったら座長にっていうのは、逆に言うと、二十歳になるまでは、つまり社会的に責任取れる年齢になるまでは座長にさせへんっていうことで、それは親父の方針だったんです。それまでは自分が座長で頑張ると。資金もなかったんで、花魁ショーやってって言われても、花魁の衣装なんてないからできなかったんですよね。うち、花魁ないですって。それでもやり続けられたっていうのは、ほんま意地と張りですよ。言うてましたからね、俺は意地と張りでしかやってこられなかったって。もちろん若かったから勢いもあったでしょうし、時代も、大衆演劇自体も、いまより勢いがあったんでしょうけどね」

現在、28歳。父が劇団を旗揚げした年齢を越えた祀武憙座長に、自分で劇団を立ち上げたいと思ったことはないのか聞いてみると、

「いまの劇団の状態で、独立したいとかは絶対思わないです。基本、めんどくさがりなんで(笑)。ほんなめんどくさいことはしないですけど、人数がめっちゃ増えたらどうするの? っていうのは、たまに聞かれます。そうなったら二分割するでしょと、おかんもよく言ってますけど、それは40人50人になったらのられへんし、劇団としてまわれへんしっていう、現実離れした人数になったらの話ですけどね」

子役も多い。劇団のこれからについて聞いてみると。

「そりゃあ、この子らが大きくなってみんな役者やるっていったら、すごい戦力になりますけど。そのとき座員も増えてたら、分割して、どっか大きいホールでやるときにはがっちんこして合同で、っていうのは理想です。僕の夢っていったら大げさですけど、5つ6つの劇団で、はる駒座っていうひとつのグループができたらいいなって。普段は別々に活動しながら、ときにはみんなで集まって、大きなホールで3日間くらい公演やるとかね。それができたらめちゃくちゃうれしい。親父にも自慢できるかな」

そんな大きな夢とはべつに、目先の目標としては、再開した朝のランニングで「スタミナをつけたい」という。

「前からやってたんですけど、下の子が生まれてすぐは、ミルクの時間があったから僕も寝不足続いてできなかったんですけど、最近また復活してます。いまも、三吉演芸場から山下公園のあたりまで4〜5キロ、走ってるんです。そのほうがスタミナつくんですよ。しばらくやらなくなってたら、トラックの荷物積んでてもすぐへばっちゃう。舞台でもへばる。自分でわかるんですよね。それがすっごい情けなかったんで」

朝のランニングは、口上で芝居の説明をするための、情報収集の時間でもある。

「落語、講談、あと歴史ものの番組とか。関係あるかもなって思うものは、興味がなくても、流しっぱなしにしてとりあえず聞いておきます」

日々の舞台をつとめながら、見えないところで重ねる努力。自分自身をすり減らさないように、もっとよいものをと鍛え続ける。その目には見えない日々の努力こそが、剣戟はる駒座の舞台から感じられる、折り目正しい心地よさであるように思う。その折り目正しさは、自分の人生に筋を通し続けた津川竜が、座長である息子たちに生涯をかけて残したものだ。津川祀武憙は、「自分が小さいころにやってた役を、自分の子どもがやって、親父さんがやってた役を自分がしてると、なんかジーンときた」とインスタグラムでつぶやいたことがある。往年のファンも、おそらく同じ気持ちで舞台を観ているはずだ。けれどそれは、親子だから伝えられるのではない。親も子も、日々の舞台を精一杯やり抜く意志がそこにあるから、明日へと繋げることができるのだ。そのことが、観るものの胸を打つ。親から子へ、続いていくことの奇跡を、剣戟はる駒座の舞台は教えてくれる。

おしまい

(2023年11月26日 三吉演芸場にて)

取材・文 佐野由佳

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