第5回 座員のケツはちゃんと拭きます

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かつてドサまわりと呼ばれていた時代の大衆演劇のイメージを、変えていきたいとずっと思ってきたという。そのために、里見要次郎はラジオ番組を続け、テレビドラマに出演し、番組をつくってきた。

サンテレビの「要次郎夢枕」や、ラジオ大阪の「要次郎、なつきのとっぴょうしナイト」、is-fieldラジオ放送「里見要次郎のkanameClub」など、関西ではなじみの視聴者も多かったのではないだろうか(現在はいずれも終了)。

「大衆演劇っていう言葉が一般的になったのは、僕らのころからですから。そんなに昔のことじゃない。それまでは旅役者とか旅まわりの一座とか、その前がドサまわり。何かあると『ドサだし』って言われちゃう。実際、素行が悪い子が集まってくる場所だったから、親や警察もさじを投げたような子を、うちは預かってきました」

岡山後楽座開場14周年記念公演、「みちのく仁義」より(2025
年4月17日)。

先にも書いたように、大衆演劇界には珍しく、里見劇団進明座は、総座長である里見要次郎の子や兄弟、親戚といった血縁の役者はひとりもいない。全員が、外から入団してきた弟子である。里見要次郎自身にも息子が3人いて、ひとりは劇場スタッフとして関わっているが、それぞれ違う仕事に就いて役者にはならなかった。跡を継げとも言わなかった。「大変な仕事だし、だいたいこんな親父がいたら、やりづらいでしょう」という。長男の息子である小学生の孫が、自身の子どものころに「そっくり」で、役者に興味がないわけでもないらしいのだが。

里見劇団進明座は、座長里見直樹、同じく座長里見龍星、副座長里見祐貴、花形里見ひかり以下、現在16名の役者を抱える。インタビューの間、師匠の脇に控えていた里見ひかり花形に「お前、入って何年?15年か」と声をかける。「そうです。今年で30なんで」。里見ひかりは15歳で劇団に入団したという。

「こいつはたまたま、お母さんたちと芝居観にきてて。本人もフラフラしてる時期で、役者やってもええんちゃう?って言ったら、はい、入りますって。祐貴もそうやな。誕生日公演観にきて、誕生日パーティーやったときに、お前男前やな、役者になったらええのに言うたら、そのまま。
うちはそうやって入るケースが多いですよ。直樹は、3歳、4歳から親と芝居観に来てて、ずっと出入りしててね。小学校5年か6年ころに、お母さんが、どうしよう…学校からも見放されてっていうんで、連れておいで、面倒見るわ。ええのん?って。そこからはもう厳しく。3年間、鞄持ちさせて。小学校も僕が連れて行って、中学校も入学させて、卒業までめんどう見ました。で、その直樹に男の子の友だちが5人ついてきて、劇団に入ったんですよ。ほとんどいなくなりましたけど、1人残ったのが龍星です。その後に入ってきたのが翔聖(劇団寿座長寿翔聖)。翔聖はドロンしたの。で、違う劇団に戻ったんですけど、いろいろあって、すぐ僕んとこに助けてくださいっていってきた。ドロンしてんのに(笑)。お前、俺んとこよう来れんな、いうて。半年、仕事取ってやったりして。逃げてったのに、困ると来るっていうヤツも多いですよ」。

そんなエピソードは枚挙にいとまがない。まさに親代わりとなって、70人近い弟子を送り出してきた。

里見劇団進明座 座長里見直樹

座長里見龍星

副座長里見祐貴

花形里見ひかり

かつて10代のころ「くそ悪ガキだった」という里見要次郎は、世間がもてあます、いや、世間をもてあます若い男の子の気持ちがよくわかるのかもしれない。怖い父親に叱られて、まわりの心ある大人に人としての在り方を鍛えられた。自分自身が怖い大人であり続けることも、総座長のつとめであり、広い意味で大衆演劇の底上げをしていくことにつながると考える。

「里見要次郎芸道60周年記念公演」の朝、JR尼崎駅で起きた事
故の影響で、お客さんの到着に支障が出ているため、開演が少
し遅れますということを、芝居のこしらえで役になりきったま
ま座員が客席に伝えにきた。こうした細かい気配りとアドリブ
が、舞台全体に活きている。

「親の言うことも聞かず、挨拶もできないような子を預かって、挨拶ができるようにして。いろいろ問題起こしたら、最近は厳しく怒らず言い聞かせます。延々と言い聞かせる。3日間くらいずっと同じこと言います。世の中はこうなんだぞ、ってことを延々。もう全部、責任は俺にあるんだから。なにかあったら、監督できなかった俺の責任。座員のケツはちゃんと拭きますよ。昔はね、怒ってゲンコのひとつもゴツンとやってましたけど。それももうしんどいんで、言い聞かせてます。俺が怖いのはみんな知ってるから、なんかやらかしたら、何も言わずに朝から2、3人、坊主頭で座ってますよ。言われる前に。何回も坊主になるヤツもいます(笑)」

いまや当たり前のように飾られている写真をプリントしたタペ
ストリーも、最初に流行らせたのは里見要次郎である。

舞台の上の失敗は、その場で叱る。

「ちゃんと叱ります。幕が閉まったときに教えます。違う、何回教えたらわかんのか、いまの言い方違うって。形はこうで、言い方はこうでって教えます。前の日の稽古のときにも教えますけどね。いま、若手の大会というのをやってるので、そのときの稽古はもう手取り足取り、歩き方からなにから。そこで寸止め、ここはこうって。台詞の回し方、動き方、全部やってみせます。全員の役を。しんどいっスよ。若手の大会はクタクタです」

それまで黙って話を聞いていた、里見ひかり花形がポツンと「総座長が言った、すごく印象に残ってる言葉があって。『俺に真剣に芝居をさせてくれよ』って」

すかさず総座長が、

「心配なのよ。こいつに限らず、あ、また間違えてるとか、台詞言わへんかったとか。教えたことできひんのかい、っていう感じが一緒にやってて常にある。ここでパチンってやったら音が鳴る、照明はこうだよって教えてるのに、あ、音ずれた、照明せえへんわ。花道ついてないやないか、とか。自分も芝居やりながら集中はしてるんですけど、そういうことも気になってしょうがない。まわりがちゃんとやってくれさえすれば、俺も真剣に芝居ができるのに、という意味です」

里見要次郎芸道60周年記念公演、「恋のまほろば 中山峠」
より(2025年3月21日 明石ほんまち三白館)

大衆演劇の世界に、さまざまに新しい風を送り込んできた里見要次郎としては、いまの大衆演劇の舞台をどう見ているのだろうか。

「ちょっと情けないかなと思いますね。一概には言えないけど、この劇団は頑張ってるけど空回りしてるなとか。ここでもうちょっと頑張ったらいいのに、また同じ芝居か、とかね。うちの劇団も他人のこといえませんけどね。新しいの考えろ、考えろっていってますけど。それはそれでいいというお客さんもいらっしゃいますし。昔から大衆演劇にはそういう流れがあるんですよ。それはそれなんだけど、もうちょっと頑張れるのになっていう」

舞台の上のタペストリーの奥へ消えたかと思うと…。

外の演劇の世界も知っている里見要次郎には、大衆演劇はどう見えているのか。

「難しい質問。ちっちゃい頃下手だった歌舞伎役者が、何年かして上手くなったなっていうケースをたくさん見ますよね。あれ、同じ芝居をなんべんもやるから上手くなるんですよ。同じ芝居をずーっと、1カ月44公演くらいやって突き詰めると、その芝居が上手くなる。その次の芝居をまた次の公演で、1カ月稽古してやる。その繰り返しで、そうやって上手くなる。僕ら大衆演劇は、毎日、同じ芝居やらないでしょう。天井に当たってしまうんです。突き抜けられない。これでもか、これでもか、がない。このくらいやっとけばええわ、明日には芝居変わるんだからって。もう、しんどいから。そう思い始めたら、そこから上には行けない。朝会って、今日の芝居なんや、おう、わかったわかったって。やっつけじゃあいかんと思うんですけど。それができるのが、大衆演劇の役者の強みでもあるんですけどね」

タペストリーの奥から超早がわりで登場。

「商業演劇に行くと、大衆演劇の役者は嫌われます。なんでもできるから。みんな1カ月稽古してるのに、僕だけ3日間とか。え、3日もするの?稽古、みたいなね。僕はそもそも稽古が好きじゃないし。昔、大きいホールで大衆演劇の役者ばかり8人で、2週間稽古して舞台をやったんですよね。そうすると、やっぱり上手くなりますよ、その芝居は。芝居が上手い人って、ひとつの役が上手いんだと思うんですけど、僕は全部やらないと気が済まない。じじ、ばば、三枚目…娘役はしんどいけど(見たいですが)。親父が生きてたら、僕はそんなにいろんな役をやってないです。親父は許さなかったから。二枚目だけやっとけと。お前はしゃべらなくていいから、出てきて『オイ』って言うだけでいい。それだけやっとけと」

父親である初代里見要次郎とは、舞台をともにしたのは、師匠と弟子として過ごした3年ほどだった。21歳のときに他界した父は「僕の芝居はほとんど観てないです」という。その後の息子の快進撃を、父が見たらなんと言っただろうか。しゃべらなくていいと言い渡した息子が、しゃべり倒して会場を沸かせ続けていることや、そしていま、自分の子より若い世代の座員を、ときに厳しく育てていることも。

「楽屋じゃ、僕、しゃべりませんよ。普段、しゃべらへんしな?(と隣の花形に)。めんどくさいもん(笑)」

舞台の上であれだけしゃべって笑わせるのは、ひとえに、「お客さんを寝かさないためです」という。

次回、いよいよ最終回へつづく!

(インタビュー 2025年4月17日 岡山後楽座)

取材・文 佐野由佳

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