第2回 藤山寛美に引き抜かれ

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大日方満(おおひがたみつる)の満の名前は、松竹新喜劇の大看板役者だった藤山寛美の命名である。大日方満は、座長大日方章彦として活躍していた大衆演劇から、松竹新喜劇に引き抜かれて活動した異色の経歴を持つ。30代の3年半ほどのことだ。松竹新喜劇で学んだ芝居は、大衆演劇の舞台に戻ってきてからも上演した。いまでこそ、多くの劇団の人気の演目になっているものも少なくないが、大衆演劇の役者には現代劇はむずかしいことも多いと感じている。

「『花ざくろ』とかね、大衆演劇に帰ってやりましたけど。でも、大きいところで藤山寛美さんがやるとウケるんだけど、僕らがやったら、そのときはワッと言ってくれるんですけど、あまり長くはウケないんですね。やっぱり客席の人数というのか、舞台の大きさというのか、役者が違う、腕の違いか、あんまりウケなかった。当時、大衆演劇を観に来るお客さんは、松竹新喜劇はテレビで観るもので、実演の南座とかの高い入場料を払って観るお客さんが少ないからなのかなと思ったりもしました。テレビで映したらアップですけれども、実演だとわかりにくいところもありますよね」

いま大衆演劇の舞台では、 藤山寛美さんの演目をもとにアレンジした芝居をいろいろやってますね。

「座長は好きでやろうとしてるわけだから、藤山さんのビデオを見たりして自分の頭に入れてやるけれど、周りの座員である役者さんは、松竹新喜劇みたいないわゆる現代劇に慣れてない。踊りこそ現代風で踊るけど、大衆演劇の芝居いうたら時代劇が大半やから。大衆演劇の役者にっとって松竹新喜劇は勝手が違うんですね。台詞も違う。ふだんしゃべってる通りやればいいんだけど、台詞が身についてないままやるから、妙に時代劇の言葉になったり。松竹新喜劇の場合は特に大阪弁ですから、関西の役者にはやりやすいはずなんですけど、うまく台詞を言えてない劇団が多いと思います。本家を知ってんのは座長ばっかりで、その座長もまねしてるだけだから、まわりの役もうまくないし全体が悪くなっちゃう。台詞が身についてないと、面白くないんですよね」

そもそも、どうして松竹新喜劇に行かれることになったのですか?

「19のときに友達と劇団つくって10年くらいして、松竹新喜劇の藤山寛美先生のとこから引き抜きにこられたんですよ。いま大衆演劇で、若手で人気のあるとこあるかっていうて、かづら屋さんに聞いたらしい。それが長野かづら店って、いまでもありますけど、僕とこにもちょくちょく来てくれとったですよ。その人が、アキちゃん、藤山さんがいっぺん会ってみたいって言ってるけど、行ってみぃひんか~? いうて。ハイ、って会いに行ったんですよ。憧れますもんねえ、大きな舞台。京都の南座やとか、新橋演舞場や、名古屋の御園座や、大阪の中座いうたら、やりたい。行きます。そしたら、劇団解散してくるか? って。いやあ~、劇団つぶしていいもんだろうか、って迷いました。自分が松竹新喜劇に行って何年もつかわからんし。不安もあったし。お世話になった杭瀬(くいせ)の寿座の、大恩人の劇場のお父さんにも申し訳ないしいうので、劇団は自分の弟子に譲って、俺がいない間は、お前やっとけよいうて、僕の名前、大日方をやって。弟子が2人、3人おりましたかな、それにさして、私だけ松竹新喜劇に行きました。ちょうど30歳の秋、昭和45(1970)年の11月に入りました。京都の南座、それが僕の松竹新喜劇の初舞台でした」

当時の藤山寛美さんの人気はものすごかったんですよね?

「藤山さんの全盛でしたから。アホ祭りとか、時代劇祭りとかやってたころで。テレビでも、映らんテレビがないくらい。朝日から毎日から読売、時にはNHK、もう週に4本くらい番組があった。僕らもちょこちょこでもそれに出るようになって、お客さんが知ってくれはるからねえ、それはよかったですけど。笑わすのは藤山先生オンリーで、僕なんかは真面目な二枚目として入りました。酒井光子さんとか立派な女優さんがおって、その人たちの相手役さしてもらったりとか。藤山さんっていうのは立派な人で。いくらうまい役者が入ってきても藤山さんの天下だったから、それ以上、上がれなかったんですよね。僕らは若いから、そんなのはなかったですけれども」

大衆演劇とは違いましたか?

「全然違いますね。大衆演劇は見てのとおり、おい、言うたら、どうしたーってお客さんが返事してくれるような、目と鼻の先でしょう。でも大きな劇場はもうワンクッションある。ファンが観に来てくれても、遠いんですよ。終わってから楽屋に会いに来てくれるにしても、裏の楽屋口から来るまでに、木戸番に頼んで、こっちに電話かかってきて。その当時は松竹では下っ端ですから、下っ端いうても、僕は幹部で入れてもらったから2人部屋とか3人部屋とかですけど、それでも隣の人に気をつかうから。お客さんも、今月は1回だけにしよかって。だんだん離れていっちゃうでしょう。それでやっぱり大衆演劇が恋しくなって。藤山兄さんに頼んで辞めさせてもらって、3年半でまた戻りました」

大日方満、47歳の舞台。昭和62年10月22日座長大会(浅草木馬館)で。撮影:臼田雅宏

恋しくなった、という言葉のなかには、松竹新喜劇という外の世界から、あらためて大衆演劇をみつめた大日方満の、座長としてのプライドと、大衆演劇の役者としての意地が感じられる。そんな複雑で奥深い内面を物語る、こんなエピソードがある。

「新橋演舞場で芝居すんで、若い子3人ほどで藤山兄さんに銀座に連れて行ってもらったことがあったんですよ。僕もそのなかのひとりだったんですけど、前もってマネージャーが店に電話かけてるから、みんな迎えに来るじゃないですか。兄さんとマネージャーと5人くらいで行ったら、10人くらい女の子がきて。マネージャーがポチ袋にみんなの祝儀を持ってるわけですよ。僕らにも飲めーって。女の人が横について、うれしいもんやから早いじゃないですか、ペースが。クーッと飲んで2杯目と思ってると、藤山兄さんは1杯を半分くらい飲んで、15分くらいしたら次行こか。もう行くんですか? 2杯目も飲まんと。おかき二つくらい食べただけで、ほいで次行って、3軒くらい連れて歩いてもらったんです。1時間半くらいついて回って。ちょっと用事あるから、お前たちみなここで帰りや、解散やと。お腹がすいてねえ。水割り1杯ずつくらいしか飲んでない。それから3人でごはん食べに行って。そのあくる日に、藤山兄さんやら幹部さんらがおった。僕らも夕べありがとうございましたー言って。幹部さんたちが、兄さん昨日どこ行ってきたんですか?って藤山さんに訊いたら、うん、若い子になあ、役者の酒の飲み方を教えに連れて行ってやったんや。それに僕は腹が立ったんですね。僕も松竹に行くまでは、座長だったんですよ。金があったら僕だってええカッコしたいですよ。その時分はなけなしの金出しおうて組んだような劇団の座長で、人気があったとはいえ、人を連れて銀座のクラブに行くような甲斐性はないじゃないですか。俺だって何十万、何百万持って行くんやったらできるわい。そういう頭でカチンときたわけだよね。イヤなこと、なんでそんなこと言うのかなあ、こんな立派な人がと思ってね。がっかりしたんですよ。そのあと自分ひとりで、鶴田浩二や、高倉健さんのまねじゃないけど、紗の着物着て、総絞りの帯しめて、飲みに行ったんです」

カッコいいですね。

「カッコいいと思うでしょ? 飲みに行ったそのときにはみんな珍しいもんやから、どこの人ですか? って言うじゃないですか。いま新橋演舞場に来ているって言うと、あ、役者さん、新喜劇ですねーって。まあ、いいカッコしてたんです。いいカッコはいいけど、表へ出て、ひとりでふぁーと歩いとったら、向こうから3人くらい来て、ボンと突き当たったんですよ。ごめんと言ってスッと通り過ぎようとしたのに、僕の顔見たら、オイってて、こうなったんですよ。お前なんや肩突き当たっといてその言い方は。ごめんて言うてるやないの、って大阪弁で言うたもんやから、なにぃ~!?って、ボーンッと、また突かれた。うどん屋の看板のところに倒れてしまったんですよ。もう頭カチンやから、看板持ってバーン! ほんまに着物が破れるくらい、やったんですよ。巡回でまわってきたポリさんが来たもんだから、その3人はバーッ逃げるじゃないですか。こっちは着物やし、逃げるに逃げられへん。捕まったの僕だけですよ。そのまま、あくる日になってマネージャーに迎えにきてもらった。お前なんてこと、藤山の兄さん聞いたら怒るぞ。すいませんでしたって、まあ、そういう短気なところはあったんです。生意気なところもあったんです。いかんことなんですけど、そういうこともありましたよ」

大日方満、美里英二、浪花三之介が関西の三羽烏と言われたのは、おいくつくらいのときですか?

「僕が松竹新喜劇から帰ってからですから、40前、37、38歳くらいからですかね。松竹行く前にもちょっとあったんです。東京に行った時分にね、こう上がりかかったところに松竹に呼ばれて。僕が松竹に入ったあと、美里くんが劇団を持ったんです。だから、美里くんと三之介くんは座長になるのは僕より遅かった。でも、僕が松竹から帰ったときは、彼ら二人が関西の大衆演劇では人気を二分してましたね」

全盛時代に、ご自分でもすごいなと思ったことありますか?

「そんなこと思ったことありません(笑)。梅沢富美男さんみたいに、浅草の木馬館をお客さんが二重も三重も巻いたってそんなこといっぺんもなかったです。浅草の木馬館で、両横のドアを開けたのが精いっぱいですね。お正月公演、お盆のときにのせてもらったときにお客さんが入りきれなくて、両横の扉を開けて、外からも観てました。それは何回かありましたけど、それは40歳過ぎてからです」

次回へつづく!

(2021年10月17日 演劇館 水車小屋)

取材・文 佐野由佳

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