ちょうど10年前、2011年の2月の舞台を最後に、恋川純弥が桐龍座恋川劇団の座長を突然やめたときの衝撃は、いかばかりだったか。当時を知らない者には推し量りようもないが、よほどのことだったことは想像できる。
そのときは、本気で役者をやめようと思っていたという。
「ほんとにいろんなことがあったんですけど。親(初代恋川純、鈴川真子)との喧嘩もあったし、いまの大衆演劇という仕組みのなかでは、自分の納得のいく舞台はつくれないと思ったことも、ひとつの原因ではあります。変えようと思っても変わらない。ここにいても、もう自分にやることはないって。なんですかね。あっけらかんとしてました、そのときは。もういいやって。ほかにやりたいことがあるわけでもなかったですから。ダメなら死んじゃえばいいかって(笑)、いやいや、なんとかなるだろうと思いつつ、どうしよ、って感じでした。普通に生活していくつもりでしたから。ほんとに、ダーツ場のバイトに応募したりしてました」
それでも再び舞台に戻ったのは、生活のためだったという。
「大月みやこさんのコンサートで踊ってほしいっていう連絡がきたんです、全く知らないところから。
子どもたちもいて生活もありましたから、結局、自分は舞台に出るのが一番稼げますので。ほかに収入源があれば、舞台には戻ってなかったかもしれない。もう何カ月も先まで、自分が座長で決まっていた舞台を全部キャンセルして劇団を抜けましたから、大衆演劇じゃないとこでも舞台に立つとなると、迷惑かけたところには全部頭を下げてまわらないといけない。それでも、もう一回舞台に立つことにしたんです。みなさん、普通に対応してくれました」
同じころに、震災復興のチャリティ公演として始まった福島県いわき市の「夢ざくら」ホールでの公演は、毎月1回のペースで回を重ねてきた。去年の3月以降コロナ禍で見送っているが、再開できる日を、ファンも恋川純弥自身も心待ちにする。
一方、大衆演劇のフリーランスの役者たちとともに「チーム純弥」を結成。2016年から今年まで断続的に活動してきた。
「梅田呉服座の社長から、もう一回、純弥が座長の姿を観たいとずっと言われていて、それがきっかけです。最初はお断りしてました。自分の衣装、カツラはあっても、座長として公演するとなると、みんなで踊る衣装やカツラを揃えたり、ものすごく経費がかかる。2年くらいお断りしてたんですけど。どうしてもっていうことで、じゃあ1回やってみますかと始めました。
大衆演劇の劇場での1カ月公演ですから、大衆演劇の役者でないと、毎日違う芝居の台詞を覚えて、踊りの振りを覚えてっていう、その公演スケジュールはこなせない。それにみなさんベテランの役者ですから、なんとかいけるだろうと思ったんですが、1年中ずっと一緒にやっている劇団とは勝手が違って、先月やったあれね、ってちょっと合わせればできるわけじゃない。芝居もそうですし、振り付けから全部、全員が1日何曲も覚えなきゃいけない。しかも同じ振り付けでも、育った畑が違うから、手の上げ方ひとつでも違うわけです。むしろ、準備も稽古も倍の時間がかかりました。毎日、寝るのが朝の6時、7時。やっぱり、このスケジュールでは無理だと思いました」
皮肉にも、大衆演劇を飛び出したことによって、はからずも大衆演劇の壁に突き当たるというパラドクスを経験した。
2019年4月の公演をもってファイナルにした「チーム純弥」だったが、昨年6月、ふたたび梅田呉服座から声がかかり公演の予定だった。日替わりの内容には変わりはないが、大衆演劇とは少し違う舞台構成で、入場料も3500円に設定。チーム純弥としても、劇場としても初の試みのはずだった。
「メンバーにも、日替わりだからといって、ちゃんと覚えない方は省きます、舞台に出しませんと事前に伝えておきました(笑)」
団体舞踊のための衣装もあらたに発注し、メンバー全員がのっているパンフレットやポスターもつくり、あとは印刷するだけに準備をしておいた。いつも以上に万端整えて向かった舞台だったが、コロナ禍の番狂わせで舞台は流れた。
「舞台はなくても注文したものはできてきますから、支払いはしないといけない。ほんとに大変でした」
そしていま恋川純弥は、古巣の桐龍座恋川劇団の舞台に立つ。
「いま僕はもう、大衆演劇の舞台から離れようと思っていて、去年から今年にかけて、そのつもりで予定を立ててました。ところがコロナもあり、さらに去年の10月ころから父親(初代恋川純)が具合が悪くて舞台を休んでいまして。恋川劇団がどうにも人手不足ということで、11月から手伝いにきています。今年もしばらくは、月の半分くらいは、恋川劇団の舞台に出ることになると思います。月によって違いますが」
妹の鈴川桃子も、しばらくぶりに舞台に復活して、弟で現座長の二代目恋川純のもと、兄妹弟3人が揃う。
その舞台は、面白くて、かっこよくて、あたたかい。
10年という歳月を、恋川純弥と恋川劇団のそれぞれがどんな思いで過ごしてきたのか、外の人間には知るよしもないし、わかろうはずもないが、舞台にも心というものがあるとしたら、この舞台にこそ、三代続く恋川劇団の心が結実しているように思える。10年前を知らない者にも、じんわり胸に迫るものがあるのだ。
『おまえさん、家族はいなさるのか』
『はい、病気がちな父親と、よくしゃべる母親と、10年前に出ていった兄貴と、最近また働き始めた姉と、女房と子供が3人おります』
二代目恋川純座長が、芝居のなかで言うアドリブだ。ことあるごとに、「出ていった兄貴」はネタにされ、そのたび観客は一緒に笑い、兄弟がわちゃわちゃと仲よくしゃべる口上挨拶にほっとする。
そして、あくまで「実家のお手伝い」を強調する、“出ていった兄貴”は、どこか遠慮がちに舞台に立っている。
「劇団が困っている、いまだけの助っ人なので、あまり出すぎないようにしておかないと、と思ってます。僕は座長じゃないし、座員でもないし、公演に長期で出てますけど戻ってくる人間ではないのでね。
1日、2日だけのゲストなら、思いきりやってもゲストだからとお客さんも許してくれると思うんですけど、これだけ毎日いると、恋川劇団のファンからしたら、面白くない人もいると思います。そう思わない人もいるかわりに、思う人もいる。極力、出しゃばらないようにしてます(笑)」
恋川純弥は、「これからは、大衆演劇を離れて活動していきたい」と公言している。大衆演劇の劇場ではない場所、市民会館やホールなどを借りて、単発の自主企画の舞台をやっていく形を考えているという。吉田兄弟の兄、吉田良一郎さんに稽古をつけてもらいながら、いま三味線の稽古にも一層力を入れている。異なるジャンルの人と、一緒に舞台をつくりたい夢もある。
「大衆演劇には大衆演劇のよさがあると思うんですけど、納得のいく舞台をつくるために、稽古もしっかりできて、体も休められるっていう世界を自分でつくりたくて。それができれば、少々歳を取っても、舞台に立ち続けられるでしょう。いちからつくるのは大変なことだし、ほかの役者からは、またあんなことやってるわ、って言われると思うんですけど、成功すれば、自分たちもやりたいってなると思うんです」
劇団を出てから、悩みごとがあっても考えてる時間がもったいない、なんとかなると思えるようになった、そうしようと決めたのだという。
「以前はマイナス思考なところがあったんですけど、いろんなところへ行って、いろんな人に会うようになって。笑っていよう、笑顔でいようと思うようになりました。もともと、楽しくてもテンションがそんなに上がらないし、悲しくてもそんなに落ち込まない。すぐ普通に戻るタイプではあるんですけどね。この世界でやっていくには、強くないとやっていけないですから」
ご両親から受け継いだ性格ですか? と聞くと、楽屋のそばにいた、恋川劇団の古参座員である鈴川純加に「オレって性格は両親に似てるかね?」と声をかける。
純加さんいわく「混ざってますね。厳しいところの感じは先生(初代恋川純)に似てるかなと思うし、ボケボケかましているときは、あ、お母さん(鈴川真子)かなって」。純弥さんがボケボケかますことなんて、あるんですか? 「たまに。へー、そんなこと言うんだっていうのがね。基本、おだやかですね。短気っぽくはない。ときどき、にっこり笑って国定忠治」
えっ?「にっこり笑って、怒ってるときがあります」
そうなんですか?
「自分ではわからんもんね。でも、キレたときは、兄弟のなかで一番暴れます(笑)」
(2021年3月浅草木馬館・4月篠原演芸場)
取材・文 佐野由佳